瀬田の長橋

 最近、多忙で何一つまともなことが出来ていない気がします。
 「忙しい、忙しい」は怠け者の言い訳だとご指摘されれば、それもまた真実なのでしょうね。
 とにかく毎日の過ごし方の要領が悪いのは事実です。

 さて、愚痴と言い訳で白紙が埋まっていきそうなのでこの辺で話題を変えまして、読書の話などを少し。と言っても、おすすめの本があるとか、感想を書くとかではなくて、ただ単に「読書」についてです。

 僕は信念とか、座右の銘と言った大袈裟なものは持ち合わせてはいないのですけど、今年は胸に誓ったことがありまして、それが「読書」です。
 「今更、新年の抱負?」と思われる方もおりましょう。まったくその通りです。「今更になって」です。
 僕は性格的に硬質に出来てはおりませんで、水で薄めすぎたゼリーのようなものです。床に落ちるなど何事かがあれば、だらしなくペシャッとウスノロに散らばってしまうような根性の持ち主です。
 ですから折節を見て、自分を叱咤激励するために自身で決めたことを目に見える形で表明する必要があるわけで、そのためのブログでもあるわけです。

 ああ、また何やら言い訳が先行しておりますね。ここでお題に戻しておきましょう。反省、反省。

 つまり何を新年の抱負にしたかと言いますと「どんなに忙しくても本を読むこと」です。で、これには次のような自分ルールがあります。 

 ①漫画、雑誌を含まない。
 ②1日1ページ、最低15行以上は読まなければならない。
 ③挿絵は含まない。
 ④読み始めた本は、どんなにつまらなくても読了すること。
 ⑤前日に読んだ部分が記憶にない場合は、もう一度その部分を読み直すこと。
 ⑥「ブログを書いていたから」は言い訳にしないこと。
 
 以上6つのルールに従い、とりあえずは今日まで来られました。このブログで取り上げた本の何冊かはこのルールのもとで再読したものです。
 こうでもしないと本を読む時間など取れませんし、何よりも時間をつくる習慣を失くしてしまうのが怖いですから。
 
 日常の仕事では「迅速さ」を要求されることが多いのですが、それは徒にリニアモーターカーのように移動を高速化するようなものではなく、無駄なく動くことであると言う本質を見失ってしまうのです。
 ただせかせかと忙しく体を動かすことで、スピーディにと思うあまり却って無駄を生むことになってしまうんですよね。
 必要なのは1つの動作を正確に行うことです。
 よく「廊下を走るな!」と学生時代に怒られたものです。それは他の生徒と衝突事故を起こさないようにと言う危険回避の意味合いが強かったのでしょうが、今思うと「走ることで心のゆとりを失って行く」からなんですよね。
 体を早く動かすことで時間的な「ゆとり」が生まれるはずなのに、逆に自分を焦らすことになってしまうんです。そうするとイライラはもっと加速して行きます。
 望まれているのは「地味なことを正確に素早く」のはずなんです。それが修練の結果、速度を上げる術を身に着けるなら理想的なことです。

 「忙しい時ほどゆっくりやろう!」

 これが4月に僕がスタッフに向かって言ったことです。「A-B地点を高速で移動することより、効率よく移動することを考えよう」と言うのがその趣旨でした。

 その実践の前提として、僕は「毎日の読書」を自分に課したと言うわけです。「それくらいの時間がとれなくて、時間管理などを口にするのは烏滸がましい」と言うことですね。

 しかし現実にはたとえ1ページといえども読書の時間を作ると言うのは大変です。疲れていると面倒ですしね。僕は面倒くさがり屋なんですよ、性根が。
 それを知っているからこそ、自分にとって簡単そうで簡単ではない「毎日の読書」などと課題を設けたわけです。

 今から思うと「毎日、ブログを更新すること」じゃなくて本当に良かったです。それを思いつかなかった約7か月前の自分を褒めてあげたい気分です。

 ということで、ブログも書きましたので、これから最低15行を読むために本を開くことにします。

 皆様、毎日お疲れかと思いますが、ゆっくり体を動かすことを忘れないでくださいね。

 「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」の譬えもあります。

 では、お疲れ様でした。





 
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川端康成「金糸雀」について…個人的愚痴として

 以前にほんの少しだけ「掌の小説」に触れましたが、今回はもう少し自分を整理するために個人的な感想を書いてみようかと思います。

 「奥さん。― お約束を破ってもう一度だけ手紙を差上げなければならなくなりました。」

 「金糸雀」はこの一文から書き出されます。
 大正13年、川端康成が数えで26歳の時の作品です。書き出しにあるとおりこの短篇は「手紙」を装う形式で綴られています。差出人は「私」、受取人は「奥さん」です。

 貧乏画家である「私」と人妻である「奥さん」とは世を忍ぶ恋仲となり、昨年に別れたことになっています。この二人が別れた理由については明確なものは記されてはいません。ただ第三段落に次のように「私」を通して「奥さん」の言葉が伝えられているだけです。

 「あなたには奥さんがある、私には主人がある、お別れしましょう。せめてあなたに奥さんがいないのなら。」

 これが「理由」であるわけです。当人の「私」から言わせれば「そんなことは最初からわかりきっている」ことなのですが、敢えて「婚姻者」であることを挙げています。この第三段落はとても複雑に構成されています。
 主たる要件は「お別れしましょう」なのですが、その直後に「この金糸雀は私の記念に差し上げます」と言っています(しかもこの金糸雀は番いです)。
 この段落で述べられているのは、①別れましょう②記念に金糸雀をあげます③この夫婦の金糸雀は「どこかの小鳥屋が勝手に娶せたもの」であり「金糸雀の本意ではない」④生きている鳥を見て「私たちの思い出も生きている」のを感じてほしいと述べ、⑤「金糸雀はいつか死ぬ」と言い、「私たちの思い出も死なねばならない」と言っています。
 つまり「あなたと私の恋」は偶然が生んだものであり必然ではないとばっさりと切り捨てています。けれど「思い出は生きている」のだと言っているのですから、それなりの感慨があるのかと思うと「思い出は死ぬ」のが当然の帰結だと言うのです。
 誘っておいて突き放すような多情的傾向があります。思わせぶりに相手を惹きつけておいて、放り出してはその様を楽しむと言う一種のサディズムさえ感じられ、所謂、悪女の視線と言うか、カルメン的娼婦の性情とも言えます。そして「私」はその娼婦的な傾向を確実に感じ取っています。何故なら第六段落に「… それに、もうお忘れになってゐるかもしれない金糸雀なぞはご迷惑でせう」と「奥さん」の気まぐれな性格を看破し綴っていますから。

 では「私」の心情はどうなっているのかですが、これも不思議な形をとっています。
 第二段落で「私」は金糸雀を飼えなくなったことを述べているのですが、第四段落にはっきりとその訳が記されています。

 「小鳥を世話していた妻が死んだのです。妻が死ぬと金糸雀もまた死ぬだらうなんて― 。してみると、奥さん。奥さんの思ひ出を私に持たせてゐてくれてたのは私の妻だったのでせうか。」

 ここから「私」の視点が変わってきます。
 この後、金糸雀は「妻が死んで急に翼が弱ったやうに見えます」と言い、さらに小鳥を「奥さん」に返すのは「妻が飼っていた鳥だから嫌だ」と言います。そして第七段落では「妻に殉死させたい」と記し、最後には「奥さん、この金糸雀は殺して妻の墓に埋めてもようございませうね」と結論を突きつけることになります。
 この流れの葛藤には「奥さん」VS「妻」があります。「妻」は「私」の不倫など(実のところはわかりませんが)知る由もなく、献身的に金糸雀の世話をして「私と奥さんの思い出」を生かし続けてきたのです。「私」はその様子を見続けてきたわけです。そしてこの手紙を書く段になって主たる部分を占めているのは「妻の献身」です。

 手紙の差出人である「私」が書きたかったものは自分を棄てた「奥さん」に対して、「妻」の純粋な愛情を示すことにあったと解釈すべきなのではないかと思います。ただこれは単に「大和撫子的な献身」を賛美すると言ったものではないでしょう。何故なら、その賞賛の根底には「滅び」があるからです。「妻」が「奥さん」に勝利するためには「死なねばならなかった」のです。

 川端康成はその多くの作品の折に触れ「日本の美」と言うことを取り上げてきました。それを踏まえて「金糸雀」を読むと次のような印象が浮かび上がってきます。

 諸外国の斬新な文化の虜となり自身の持つ本来の姿を見失っていく日本という国。その嘆きを川端康成は「妻の死」を通して思い起こさせようとしたのではないでしょうか。
 一木一草にも魂が宿り、土や道具にさえも命があり、その全てに神がいるという複雑多感な日本的感覚を放棄して、一神教的な精神に似た合理的な思考を尊しとする風潮に対する警告だったのだと思えるのです。殉死させたのは一時的嗜好への傾倒であり、その結果として犠牲になったものと時間です。この短い一篇を通じて「失われゆく日本を今一度考えなおしてみようじゃないか」と訴えているのだと考えてもよいのではないでしょうか。
 これは別に「日本」である必要はありません。「個人」と言い換えても当然なものです。
 
 こうして突然、「金糸雀」の感想などを取り上げたのは僕自身に迷いがあって、その迷いに何とかしてケリをつけたいと思ったからです。僕自身の根底にある望みは何か、それを支えて来たものは何なのかを振り返ってみたいと、ここにそのためのごく一部を書きだしてみました。つまり「個人的な愚痴」です。



 

 

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森田つぐみ「冬の哲学」

 昔の話です。バラエティー番組で「笑って!笑って!!60分」と言うのがありました。ご記憶の方もおありでしょう。
 土曜日のお昼に放映されていたものですが、その番組中にショート・ドラマがありまして「哀愁学園」と言うタイトルで正・続編がありました。
 ドラマの内容は正直いって記憶に残っていません。と言うか番組そのものも、ドラマも僕には関心がなく、唯一心惹かれたのは「主題歌」です。

 「哀愁学園」の主題歌は確か小柳ルミ子で「花車」、続編が森田つぐみの「冬の哲学」だと思いました。間違っていたらすみません。調べていません…。逆だったかもしれません…。

 先にも言いましたがドラマの内容は評価に値しません。まったく面白くなかったです。ですので、まともに観ていたことはないです。しかし、主題歌は突出した印象を残しました。特に続編の。

 「死んだ赤とんぼを見つけたわ、今朝も
 枯れた花と石の墓標、風が吹き過ぎてゆく…」
 
 この出だしを聞いた瞬間、電撃が走ったごとく記憶に刻みつけられました。この主題歌を聴くためだけにチャンネルを合わせていたのです。
 歌っている森田つぐみさんの澄んだ声と物悲しい歌詞とが相乗効果を生んで、強烈なインパクトで僕を捉えました。
 まだ子供でしたのでレコード(出ていたのかは知りません)を買うお小遣いもなく、カセットラジオで一度だけ録音した歌を大事に保管していました。現在、CD化はされていないと思います。
 この日記を書くにあたって少し検索しましたらYOU TUBE に「冬の哲学」でアップされていました。恐らくそこでしか聴くことができないと思います。ぜひ一度、お聴きください。全歌詞は次の通りです。

 「冬の哲学」(歌唱・森田つぐみ)
 
 死んだ赤とんぼを見つけたわ、今朝も
 枯れた花と石の墓標、風が吹き過ぎてゆく
 やがて白い雪が埋め飾るでしょう
 愛の心うつろ、固く凍てつく夜に
 人は春を何故か待つの、心のどこかで

 涙乾き、辿る故郷は寒く
 昔馴染み、今は何処、村に人影もない
 待つわ、春を、愛を、若葉萌える日を
 あなた信じ命預け、悲しみ堪え
 他に何が出来るかしら、幼い私に

 一人耐える部屋の花活けとお皿
 飾り立てて、鍵を開けて、時の足音を聞く
 夢は覚めて朝の白さ、日めくりをめくる指が
 今日は少しやつれたみたい
 烏一羽、飛んでゆくわ、雪の閉ざした上を
 愛の嘘と恋の孤独、身に染みた私

 歌詞カードがないので聞き取りで採取してみました。これも間違えてたらごめんなさい、です。
 さらに不確かな記憶ばかりですが、作詞・佐々木守、作曲・服部克久だったと思います…。
 う=ん、自信がない…。当てにしないでくださいね。こんなに内容が不安な記事を書くこと自体が間違っているかもしれないですけど。

 突然、思い出して、どうしても書きたかったのです。その気持ちだけで取り上げました。

 正確な情報をお持ちの方、ぜひご連絡ください。宜しくお願い致します。


 



 

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