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高井有一「夜の蟻」

 夜、部屋に迷い込んできた一匹の蟻をみつけた。
 そいつは電灯の明かりの下で半狂乱の様子で歩き回っている。
 蟻は仲間のつけた蟻酸の痕を頼りに動線を決める習性がある。なのにこいつはたった一匹で迷い込んできた。
 導くものを失ったはぐれ蟻なのだ。
 もう帰巣することはできまい。
 案の定、じっと見ていると、こいつは無意味に忙しなく歩き回っているだけなのであって、同じ弧の中から出ることができないでいる。どこへも行かれないままでいる。
 自分の軌跡をただなぞるだけだ。足跡から抜け出せない。
 お前自身が描くその弧からほんの少し外れることができれば簡単に別の場所へと行かれようものを。
 自分が置かれた環境から逃れることを望みながらも、それができずにただ必死に弧を描く。哀れと思うか、愚かと笑うか。
 けれども迷いを生じた僕自身もこの蟻のように、同じところをぐるぐる回りつづけるだけなのだ。思考は先へ進まず同じ弧を描きながらくよくよと悩み続け、迷いから抜け出せずにいる。メビウスの輪に囚われた狂った蟻の姿が迷いにかられた人間そのものなのだ。

 僕は答えをみつけることができない。
 僕は手で蟻を打った。


 高井有一「夜の蟻」

 夜の蟻 (筑摩書房、1989年初版)

 … それからは紆余曲折があった。妻が間に立った。妻は毅夫の話を私より先に聞いて、内心私の賛成を期待してゐたらしい。どうせあたしの方が後に遺ってあの子の世話になって暮すのだから、あの子の気に入らない事はさせたくない、と言った。私は黙っていた。…
 
 高井有一の「夜の蟻」を読み返している。
 仕事に尽くした人間は定年後の自分の生活に何をみることができるのだろう。
 この本の主人公「私」は定年を機に息子夫婦と暮らすことになった。長年住み慣れた家を取り壊し、二世帯で住むに便利な無味乾燥の箱型の家を新築する。

 その家には拘りは存在しない。

 … ふん、叔父は鼻を鳴らした。俺も行ってみて来たところだが、あれはまったく毅夫の家だな。どういふ意味です。私は少し身構えて足を降ろし、靴を履いた。あんなどっかの団地の集会所みたいな家を、お前が好き好んで建てるわけはないからな。そうですかね。私は笑って受け流すしかなかった。…

 主人公は定年後の自分を持て余している。
 かつての職場があった街なかを歩き、その残滓を見る。しかし、人も街も動き続け同じままでありつづけはしない。
 同僚の消息も、聞こえてくるサラリーマンの会話も、懐かしいはずの店も、彼を所在なくさせ、苛立たせるだけでしかない。
 過去に対するプライドと、外された人間である自分。

 … 無神経なのはいけない、とこみ上げるように思った。鰯料理屋で飲んでゐた男たち。この男は女房に死なれて一人だと、労わる振りをして人に広めてはいけない。佐渡原貴久三。懐かしく思って個展会場を訪ねたのに、どうして上の空で人の話を聞くのか。お前が無名の時代、俺が一度だってぞんざいなあしらひをしたか。海渡。あの男の名前は思ひだせない。街中で呼び止めて、歩き方が変わったなどと言ってはいけない。所在なさそうな退職者相手に功徳を施したつもりか。すいすいと恰好よく歩いてみせたな。それがいつまで続けられる気でいるのか。お目出度い奴だ。…

 今から20年後、いや10年後、もっと短くてもいいが、その時の自分の姿を思い浮かべられるだろうか?今と同じ生活を続けていられると言えるだろうか?
 体は老いて自由は利かなくなる。誰もが老いてゆく。それは知識として理解している。では現実にその「自分」を想像できるだろうか?家族はどういう形に変わっているのだろうか?
 
 誰もが、突っ走った日々を持っている。青春は誰にでもあり、働き盛りに咲き誇った壮年期もまたあったのだ。その過去を思い出して、現実と比較し、また懐古に沈む。

 これでよいのか、と言う迷いと不安は同じところを回り続ける。道を失くした狂った蟻のように。

 「夜の蟻 迷へるものは弧を描く 」

 中村草田男の俳句である。
 冒頭の描写はこの句に基づく。






 
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宮内寒彌「からたちの花」

 以前に僕の思い出話の中にでてきた小説「七里ヶ浜」の著者である宮内寒彌の「からたちの花」を取り上げようかと思います。これは芥川龍之介の死と宮内寒彌の弟とを題材としています。

 からたちの花 (大勸堂、昭和17年初版)

 文芸評論家の浅見淵は「昭和文壇側面史」(講談社、昭和43年初版)において芥川龍之介の死について次のように述べています。

 「大正十五年十二月二十五日の、確か寒い未明だったと思う。その頃、ぼくは早稲田の近衛騎兵隊と道ひとつ隔てたところに住んでいたが、俄かに騒々しくなって軍馬の嘶きなども聞こえてきたので目が覚めた。咄嗟に、大正天皇が亡くなったのだナと思った。危篤が伝えられていたからだ。案の定そうで、翌日から昭和と改元され、昭和元年となったわけである。
 しかし、本当に大正時代が終わったという感じが沁々としたのは、明くる年の昭和二年七月二十五日の新聞の朝刊で、芥川龍之介の昨暁の自殺を知った時である。その時分、寝苦しい蒸し暑い日が毎日続いていた。これがいっそう芥川の自殺衝動を早めたのだったと思う。」(「芥川龍之介の死」より)

 浅見が大正時代の終焉を芥川の自殺に感じていた時、遠く南樺太の地で一人の中学生がその死に注目していました。
 夏休みが近い学校での作文の授業中、ある教師が「トロッコ」を作例にあげながら芥川の死について熱弁を振るっていました。がしかし、教師の熱心さと生徒たちには温度差が明らかにあり、ただ一人の生徒を除いては真剣に耳を傾けてはいませんでした。

 その14歳の少年は教師に質問をします。

 「先生、人間は、何故、自分で死んだりしなくてはならならいのでせうか。」

 その問いに教師は答えることができず、「そんなことは、まだ、君等に話してもわからない。もう十年もすれば自然にわかる」と彼の問いから逃げました。

 質問をした少年、それが宮内寒彌の弟(三郎)でした。
 彼の弟はその授業から13年後に自殺をしました。
 その自殺が芥川龍之介に関係していたのかはわかりません。
 しかし、あまりに熱心にその死について興味を抱いてた当時の様子から宮内寒彌は「その死に囚われていた」或いは「その時に自殺を切り札とした」と感じたようです。
 
 文筆家として生計をたてることを家族から公認され(弟から見れば)のうのうと生きている兄と、両親と妹の面倒を見るために家に残ることを選ばされた弟と言う図式によって、兄弟は仲が良いとは言えなかったようです。
 彼の弟は所謂、優等生であり、周囲から慕われ期待されもしていました。それは三郎にとってすべての不幸であったのかもしれません。

 三郎は兄宛の手紙にこう綴っています。

 「仲の良かった親友も、戀人(恋人)さへも、あなたは偉い人だ。あなたの道を歩いてくれ、われわれはお別れするより他ないと言ってこの頃はわらったりします。」

 三郎の葬儀には隣近所の人々は当然ながら、市中から広く、直接の面識のない踏切番の老人までが人柄を偲び、弔問したとあります。

 宮内寒彌は三郎の死を追い続けました。それは死の理由を解明するためではなく、弟の足跡を追うことでその死と向き合うためであったろうと思います。彼を容赦なく責め立てる積み重なった悔恨とその申し訳を綴ろうとしたのです。

 たとえば、彼は最後に弟と別れた時、「東京へ帰ったら、中村屋のカリントを送ってください。妻が好きなので」と頼まれ拾円を受け取りました。しかし、その年はカリントは発送しないと言われ、自分で荷造りし発送することも面倒だったので手紙も添えず別の菓子を送っています。
 その事に関して「先づ、とりかえしのつかぬ思ひをしたのはこれである。彼はカリントとわざわざ念を押したのに、ロシア・チョコレイトや支那菓子などを送って来た私を、どう思ったか、私はまださう遠くへは行ってゐないやうに思われる彼に電話でもして、このことだけはいひわけがしたかった」と。

 積み重なった些細な誤解は埋めることのできない暗澹たる海原となりました。宮内寒彌の「からたちの花」はそうした彼の弟に対する慙愧の念を綴ったものです。

 書名の「からたちの花」は、弟・三郎が残したロシアのヴァイオリニスト「ボリス・ラス」のレコードに収録された曲から採ったものでした。

 「私は辛抱している。そして私は思ふ。あらゆる不幸はそれと共にある幸ひを齎しくる、と。」(ベートーヴェン)
 
 これは三郎が卒業文集の寄せ書きに小さく記していた言葉です。

 自殺の理由をあげればきりがないのです。そしてそのどれもが核心であるとは断言できません。真実の理由など本人が語らない限りわかろうはずはないのです。もしかすると本人にも漠然としてわからないのかもしれません。ただ言えることは「耐えうる限界を超えてしまった」こと。

 不幸と共にあると信じていた幸せに裏切られたと思った瞬間を人は絶望と呼ぶのでしょうか。
 
 からたちの花 01 (浅見淵宛署名)





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過去の手紙

 「迷いはいつの日もありますね。分岐点に、三叉路に出会うたびに戸惑い、迷いながら歩いています。
 何が自分にとって正しい道なのか、方向なのか。その答えは常に過去にしかなく、現在の瞬間は選択しか残されていません。
 人は『選択』することなしに生きて行くことは不可能なのです。選ぶことも選ばずにいることも同様なのです。ですから精一杯に考えたあげくの選択であれば、それはその時点ではベストなのです。
 『仕方がない』と溜息をつき嘆くことは、少しも卑怯なことでも恥ずべきことでもないのです。『悔いのない選択ができた』と胸を張って言えることは恐らく人生のうちでほんの数えるほどしかない奇跡に似たものなのです。そうでなければ自己欺瞞です。
 もし分岐点を行き過ぎてから、別の、もっと理想的な方法があったことに気づいたなら、それは確かに自分が成長したと言うことなのでしょう。僕は以前にそう言われて救われたことがあります。
 行く道がわからないのならば、とりあえず進んでみるというのも選択の一つです。引き返すことはできなくても、新たな道を探すことは常にできるのだから。諦めることは誰にでも、いつでもできます。
 だから、自分に目標があり、意思があるのなら、たとえ遠回りでもたどり着く方法をさがすべきでしょう。その回り道が、いつの日か最短距離になっているかもしれません。時間がないのではなく、自分が持っている時間に気づいていないだけなのだと思うのです。
 考えてください、精一杯真剣に(でも深刻にならないで)。
 全てを負うのは他の誰でもなく自分しかいないのですから。

 誰も傷つけずにと思うあまり自分を傷つけ、自分を傷つけないようにと誰かを傷つけ、或いは双方とも相手を労わることで傷つきボロボロになっているのかもしれません。
 でも、それが優しさから出たものなら悪意などあろうはずがないのです(害する意思から生じたものであるなら戦い方はいくらでもあります)。ただいうならば人は誰しもが不器用なのです。その不器用さゆえに傷つき傷つけているのです。
 そしてそれは時としてあなたの言うとおり、『刃物でつけられた傷は癒えても、言葉によってつけられた傷は一生残ってしまう』ものなのです。それが切ない。そして、どうすることもできません。時はそれを解決してくれはしないのです。その言葉を思い出すたびにつく傷は、その深さに違いはあっても新たに刻まれ、忘れたり、笑い話になったりはしません。

 僕は僕の隣に瀕死の怪我人がいても自分の切り傷の痛みしか感じられない人間です。
 上辺の同情はあなたを傷つけるだけで、全ての言葉を嘘にしてしまいますから慰めることもできません。
 これが現状においてあなたにかける言葉であることの不甲斐無さと残酷さを感じながら、僕はやはり馬鹿の一つ覚えのように、こう繰り返すのです。
 頑張りすぎないようにしてください。
 あなたをいつも見守っていてくれるあなた自身を大切にしてください。
 他人とは分かち合えない痛みを感じてくれるもう一人のあなたを思ってください。
 そうすればあなたは決してひとりじゃない。

 今のあなたの役に立ちそうなことを何一つ言えない僕を許してください。だからせめて、自分自身を傷つけ痛めつけるような悲しみ方はしないでください。心からそう願っています。」



 10年以上も昔の手紙です。誰に宛てたものかは忘れました。宛名がありません。これを出したのか、出さずじまいに終わったのか、その記憶もありません。机のなかに残っていたものです。使い道がないので処分しようと思っていたディスクですが内容を確認していて、何となく、今もう一度、そう思っただけです。そして、もう棄てることにします。








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お店屋さんごっこ

 友人のβ君が笑いながら近づいてきまして、
 「いやぁ、こどもの遊びも時事を取り入れるんですねぇ。まいりました。」
 普段はムッツリとして何をしてもつまらなさそうな彼がこんなにも親しみのある笑顔を人に向けるのは珍しい。
 僕にはそのほうが興味深かったので話に乗って。
 「うん?何か面白いことでもあったの?」
 「いえね、うちの子、今年5歳になったばかりなんですけどね。親戚の子と遊んでましてそれがあまりにも意表をつかれたもので」と笑う。
 
 果物屋さんごっこをしていた時のことらしいが、どんな面白いことがあったのかいうと以下の流れ。

 「いらっちゃいませ。なにいりますか?」
 「えっと、そのあかいリンゴを1つくだしゃい。」
 「これは500えんです。」
 「500えんはたかいね。」
 「でもしょーひぜいがあがるまえならやすいですよ。」
 「アケちゃんは500えんもってないです。」
 「それじゃ、かしつけしましょう。」
 「ありがとうです。」

 これは時事を反映したと言ってよいのか?
 意味がわかってやっているとしたら怖いでしょう。
 笑えない、僕には・・・。
 しかもリンゴ1個500円ってどこの贈呈用?
 こどもの基準が感性次第で曖昧なのは理解していますが。

 そして昨日、消費税増税法案が衆議院で可決されました。

 

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寄生虫を見にいこう!

 数日前のことなのですが、早起きもしたことだし天気も好いことですし、家でじっとしているのももったいないなと、「どこかへいこうかな?」と思案していたところへ、ふっと「そうだ!寄生虫を見にいこう!」と思い立ちました。で、目黒の寄生虫館へ向けて出発いたしました。

 寄生虫館01 寄生虫館イントランス

 目黒寄生虫館は、おそらく世界で唯一の寄生虫の博物館です。1953年に医学博士の亀谷了(かめがいさとる)博士によって設立されました。
 僕が博士にお会いしたのは平成6年のことでしたから、もう18年も前のことになります。博士はこよなく寄生虫を愛しておられました。その語り口は友を語るように、息子を愛しむように、静かながらも抑えきれない情熱に満ちていました。

 さて、動物というものは大概は自由生活をおくっているものです。一部では共生生活をおくるものもいますが、私たちが知っている生物のほとんどは自由意志に基づいて活動し、その活動範囲を選べます。しかしそれが出来ない生物もいるわけです。数からいえば途方もない数なのですが、「名前を挙げてみなさい」と言われたら「ギョウチュウ・・・?」と言う感じになってしまう生き物です。それが寄生虫ですね。

 寄生虫館02 特別展の案内と8.8mのサナダムシ

 目黒寄生虫館に行きますと体長8.8mのサナダムシから、シーラカンスから発見された1mmにも満たないものまで多種多彩な寄生虫が見られます。
 8.8mのサナダムシの長さを体験するために紐がおかれています。ぜひ広げてみてください。その長さを実感できます。

 寄生虫の標本をひとつひとつ眺めていますとこいつらが可愛いんです。生きて動いてたらとんでもないかもしれないですけどね。見ているうちに「狸の八畳敷 はバンクロフト糸状虫症だったのかなぁ?」とか変なことを思ったりもします。
 ところでこの寄生虫ですが本来、適正な宿主に寄生していれば害はないそうです。
 亀谷博士の言をかりれば「寄生虫の目的が宿主に致命的な害を与えるのであれば、寄生虫自身が命を縮めるために寄生することになってしまう。それでは生物として成り立たない。ですから基本的に寄生虫がいたとしても宿主には迷惑をかけないものです。それが本来の宿主からイレギュラーな宿主に移ってしまった場合に、それは害をなすのです」と言うことでした。

 この寄生虫館は国や自治体からの補助金を受けずに、独自の基金と寄付によって運営されています。拝観料も無料になっています。ですので入口やミュジーアムショップのところに寄付金箱が置かれています。拝観された方はお気持ちでもご協力をしていただければと思います。

 ミュージアムショップですがTシャツ、絵ハガキ、書籍、キーホルダーなどを販売しています。僕は「ニベリン条虫」の入ったキーホルダーを1個お土産に買ってきました。

 寄生虫館03 キーホルダー

 寄生虫館を出てからどこにいくか?ですが大円寺の石仏群という手もあったのですがアヴァンギャルドな生き物を見たのですから「次は岡本太郎にしょう!」と言うことになり、表参道へと足を向けました。でも、その前にせっかくの通り道ですので大鳥神社へお参りに。

 大鳥神社は11月になりますと「酉の市」が開かれることで有名ですが、6月30日と12月30日の年2回、大祓が行われます。
 大祓と言うのは、私たちが日々の生活の中で犯してしまう罪穢や災厄を除くために人形に罪穢を移し祓い清めることで心の清らかさを取り戻すために行われます。
 大祓には形代があり、これに家族や自分の氏名を書き、息を吹きかけて罪穢を移します。これをもって年2回の大祓に納めます。

 大鳥神社02 大祓形代

 この時期の大鳥神社の境内には「夏越の大祓“茅の輪くぐり”」が置かれています。くぐりかたは注意書きが近くにありますのでそれを見ながらお試しください。本格的な夏を迎える前に験担ぎにどうぞ。

 大鳥神社01 茅の輪くぐり

 JR目黒駅から原宿へ向かい、途中、表参道の「そば処仙波」でいつものようにくるみそばをいただいてから岡本太郎記念館へと向かいました。

 岡本太郎記念館01 「河童」「歓喜の鐘」

 岡本太郎記念館は、1996年に八十四歳で亡くなるまで岡本太郎のアトリエ兼住居として使われていました。館内の展示作品は多くはありません。しかし、岡本太郎が生涯、芸術の魂の根源とした縄文人を表現したモニュメント「縄文人」から遺作となった未完成の油彩「雷人」まで、コンパクトながらもその芸術の一端を感じられるものです。
 小さな庭園には岡本太郎が制作した「河童」、「動物」や愛知県の久国寺のために鋳造した「歓喜の鐘」の原型複製などが置かれています。
 「歓喜の鐘」の下には大小の木槌が置かれていますので梵鐘がどんな音を出すのか聞くことが出来ます。叩く場所によって音が異なります。その音に何を思うのかはその人次第です。

 岡本太郎記念館02 「呼ぶ」「雷撃」

 2階には油彩画とビデオ上映室があります。結構ボリュームのあるドキュメントが上映されていますのでお時間があれば最後までご覧になられたほうが良いと思います。
 僕は2階展示室に入ってすぐのところにある「呼ぶ」と言う作品に引き付けられました。タイトルを見る以前に振り向いて目に入った瞬間から画中の渦に引き込まれるかのような感覚を受けました。
 昨年、東京国立近代美術館で開催された「生誕100年岡本太郎展」の時もそうですが、彼の作品には確かに熱が生きているのです。その作品に近づくと炎のごときエネルギーが感じられます。

 遺作「雷人」。
 岡本太郎はここにあとどんなものを描き足そうとしていたのでしょうか?
 形ではない形、色ではない色を追い求めた反骨の精神、「芸術作品は個人が所有すべきではない、多くの人に楽しまれてこそ存在意義があるのだ」と個人に売ることを拒否し続け大衆へ訴え続けた岡本太郎。

 「認められるために作品を作るのではない、認めさせるのだ。自分の魂の全てを込めて訴えればそれは必ず可能になる。」

 生前にただ一度お会いしただけですが、その芸術はもちろんのこと言葉のパワーも、僕の狭隘な器では収まるはずのないものでした。

 岡本太郎記念館03 遺作「雷人」

 次はどこに散歩に行きましょうか?あれこれと思い浮かべて計画などを立ててみたくなった1日でした。 


 目黒寄生虫館  東京都目黒区下目黒4-1-1
         TEL 03(3716)1264
         開館時間 10:00 ~ 17:00
         月曜・年末年始休館

 目黒大鳥神社  東京都目黒区下目黒3-1-2
         Tel 03(3494)0543 

 岡本太郎記念館 東京都港区南青山6-1-19
         TEL 03(3406)0801
         開館時間 10:00~18:00(最終入館17:30)
         火曜日休館(祝日の場合は開館)




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岡本一平「一平漫画 」

 一平漫画 00 文興院、大正13年初版
 (函、表紙、奥付)
  

 今更ご説明のほどは無いと思いますが、岡本一平は岡本かの子(旧姓・大貫カノ)の夫であり、岡本太郎の父親です。 
 三重県津市の儒学者・岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名・良信)と母・正(まさ)の長男として1886年6月11日に北海道函館区汐見町で生まれました。
 上京した後、大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進み、藤島武二に師事しました。この時美術学校で大貫カノ(岡本かの子)と知り合っています。

 岡本一平は漫画家のみならず、歌謡曲の作詞も手がけています。
 昭和15年に飯田信夫の作曲、徳山璉の歌唱で流行した「隣組」は、馴染みやすいメロディで、その後も替え歌などで耳にした方も多いと思います(メガネ・ドラッグやドリフの大爆笑のテーマなど)。原詞は次の通りです。

 「隣 組」

 とんとんとんからりんと隣組 格子を明ければ顔なじみ
 廻して頂戴、回覧板 知らせられたり知らせたり

 とんとんとんからりんと隣組 あれこれ面倒、味噌醤油
 ご飯の炊き方、垣根越し、教えられたり教えたり

 とんとんとんからりと隣組 地震や雷、火事泥棒
 互ひに役立つ用心棒、助けられたり助けたり

 とんとんとんからりと隣組 何軒あらうと一所帶
 心は一つの屋根の月、纏められたり纏めたり

 一平漫画 01 「心新聞にあらず」(口絵)

 さて「一平漫画」ですが、大正13年に文興院から刊行されています。大正8年に発刊された「欠伸をしに」以来の画文集でした。
 当初この本は他社から出版される予定でした。しかし一平が漫画を請け負い、月刊誌として発行された世界写真画帖が創刊四号で廃刊の憂き目に会ってしまいました。その責任の一端を感じていた彼は企画が進んでいた新画文集の出版社を変更して発刊することにしました。
 自らの最上の代表作のためにと思っていた「一平漫画」と題したのは、売上向上のために一役立たせる目的でした。

 序文にはこう述べられています。

 「謂はばこの書は、氏の書店の興廃に関して、丁度日本に對する日本海海戦のようなものだ、と自分の責任の上だけでは感じている。どうか賈れて貰ひ度い。その意味から、自分の最上の漫畫集が出来た時に完すべき『一平漫畫』といふ名前を、むざむざとこの書に完した。むざむざと申すところに、著者の藝術的苦衷を察して貰ひ度い。」

 けれども発刊までには更に困難がまちうけていました。
 関東大震災です。震災によりほぼ完成していた凸版紙型の大部分を損壊してしまったのです。それを懸命に復元補正してようやく刊行の運びとなりました。

 岡本一平はそのことに関し次のように書いています。

 「生命力の強いもの程、障害に偶ふては光明に向かって跳ね上がる。鯉の瀧登りが、そうだ。地震を越して書肆の名前が變つて、新春に處女出版として發刊される書物!予は此書の運命の強さを信じて居る。この書を第一出版にする金子氏の文興院も亦然あるべきものと信ずる。
 本書巻頭の東京漫詩も地震で舊東京の壊滅した今日、却って興味を喚起する好記念作品になると思ふ。(大正十二年十二月三十日 修復せし芝白金崖下の家にて)」

 本編は「一平自畫傳(自画伝)」「漫畫漫詩の東京」「最安心な婿選擇法」「藝術品と珠算盤」「學生生活スケッチ」などが収録されています。

 「小学校時代-水を掃いた清書」

 一平漫画 02  (「一平自畫傳 」より)

 書家なる僕のおやぢが、僕の字の下手糞なのを見て、「貴様は到底俺の後継になれ相もない。繪は易しいから、繪ならどうやら飯が食へやう」と、それから舊式な狩野派の先生の處へ、毎晩習ひに遣られた。
 先生が晩酌をやる横の方で、毛氈(もうせん)を敷いて手本の臨写をするのだ。つまらなくて堪らない。新しく描いた振りをして、前の晩描いた奴を、毛氈の上へ載せて置く。先生は酔って知らないから、新しく描いたものと思ひ、真面目になって批評する。
 一週間許りは發見されなかったが、あまり毎晩同じやうな畫(え)なので、つひに發見かった。その翌晩から、先生「こりゃ確かに今晩描いたのかな」と、濡れてるか乾いてるか、畫の上へ掌を宛てて見る。こっちも先以って、ちゃんと乾いた畫の上へ、掃毛(はけ)で水を掃いて置く。

 この子にしてこの親あり、と言うべきか、小学生にして流石は岡本太郎の父君らしいウィットです。

 もうひとつ。

 「入 口」

 一平漫画 03  (「画家裏面展覧会」より)

 「倅(せがれ)が畫家になりてえちゆうが、畫描きとはへえどんなものか、ひとつ入(へえ)って見べえ。」
 「五十銭はたけえのう。」
 
 


 

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日向信夫「第八號轉轍器」 

 「なあ張徳有、北鐵時代はよかったなあ。」
 と、今夜も訪ねて來た同僚の李連福が、ウォッカにいい加減に酔って、いつもの昔話を始めるのである。
 「露西亜人(ロモーズ)は第一気が大きかったよ、事故が起こったって平気だし、列車が二時間や三時間遅れる位大っぴらだったからな。」
 主人の張に比べて大柄で年も若い李は、ウォッカを水のようにがぶがぶ飲んで、次第に大きな元気な聲を上げ始めた。
 「おい、静かにしろよ。隣の社宅は日本人じゃねえか。」
 張が小心らしく咎めると、
 「なあに構うもんか、満語がいけねえんなら露西亜語はどうだ。なあリベカさん、その方がおめえにも解っていいだろう。」
 「わたしやそんな愚痴は聞きたくないよ、どちらでもいいからさ、もっと稼いでお呉れよ。」

 日向信夫の「第八號轉轍器」の冒頭です。初版は昭和16年、砂子屋書房から刊行されています。これは彼が27歳の時に文芸評論家であった浅見淵の推挙によって出版が実現しました。
 浅見淵は出版前年の昭和15年夏、彼と満洲で出会った時の印象を「昭和文壇側面史」の中で「表情に一種の茫漠さと、同時に剽悍さとを湛えた背が高くて立派な身體つきをした若々しい偉丈夫」であると記しています。
 日向信夫は旧三高(京都大学の前身である第三高等学校のこと)を中退した後、満洲鐵道に着任し、満洲文話会などで文筆活動をしていました。そこでの勤務や満鐵弘報課の命で赴いた長白山探検などの経験を生かし、主に満洲鉄道で働いている日本人、満洲人、朝鮮人の心理的摩擦に着目し、興奮や感傷に流されることなく冷静に実情を踏まえた短篇小説を書きました。しかし「第八號轉轍器」「窓口」を代表とする満洲文学の秀作を数編残し、小説家としては未完成のまま沖縄戦において戦死しました。

 この「第八號轉轍器」の時代背景となっている康徳2年(1935年)は日本が東清鉄道(北鐵)を接収した年にあたります。もう少し詳しく説明しますと、1931年の満州事変による満州国の成立後、中東鉄路(中東鉄道、東支鉄道)はソ連と満州国の合弁事業となり名称を北満鉄路に変更しました。ソ連は日本との鉄道権益の衝突を避けるため鉄道売却を提案しましたが売却価格で折り合いが付かず、4年後の1935年3月にようやく合意し、ソ連は北満鉄路全線の利権を満州国に売却、満州から撤退しました。以後、旧東清鉄道は満州国有鉄道と名称を変え、軌道の幅員も1937年にはロシア建設時の広軌である1520mmから、標準軌の1435mmに改造されました。
 こういった状況下で働く鉄道員の姿を日向信夫は次のように描写しています。

 「蘇聯人の従業員たちが、波の引くようにどっと本國に引き上げてしまふと、日本人が彼等を支配するようになった。時間などてんで当てにならなかった北鐵に、世界一の正確さを誇る日本の技術がとって代わった事が、既に彼らにとっては不幸の種であった。高度に進歩した日本の技術の前には、十年一日の如く古びた信號機や、簡単な轉轍機を扱っている彼らの技術は、恰も児戯に等しいものでしかなかった。…」

 物語の主人公である張徳有とその同僚である李連福は北満洲に生まれ育ちロシア人に雇用されて生活を送ってきました。結果、彼らはロシア語の読み書きは覚えた代わりに自国語については文盲に近い状態になってしまいます。接収以前には日本人などみたこともなく、初めて耳にする日本語は強制的に参加させられる日本語講習会などで学ばされても、齢のいった人々にはその片言をも理解することが難しい状況でした。自然、旧北鐵の労働者は最下級におかれ整理の対象となっていきます。

 23歳で父親の後をついで転轍員となった張徳有。20年近くも北鐵の小駅でポイントを反す仕事以外には何一つとしてやったことのない、ただ黙々と真面目に生きて来ただけの平凡な人間です。日本語も毎日こつこつと独学をするものの覚えられず、結果としてその語学力の不足から脱線事故を引き起こしてしまいます。「没法子」(しかたがない)が口癖になり、どんなに仕事が増え、貧しく、温床的と揶揄されても「転轍員しか出来ない」と、現状に縋るしかありません。
 張徳有は、リストラされる前に退職願を提出した10歳以上も若い李連福の行動に羨望と不快を抱き、共同事業をもちかけられても未知の世界に踏み出すことを拒否します。かといって故郷、親類をもたない彼は他の同僚のように「故郷に帰って百姓になる」こともかないません。あくまでも転轍員しかないのです。

 この物語を読んでいると企業改革とか、技術革新とかの波に揉まれる中堅サラリーマンの悲哀の転々を見ているようです。PC操作はあたりまえ、社内会話は英語、職能資格試験制度、解雇の不安、脱サラするにも展望のない現実、何もしなくても嵩んでいく生活費・・・。
 
 物語後半で自分が人員整理対象になっていると周囲から聞かされ、自身でも観念し最後の仕事のつもりでひとつひとつの日課を辿ってゆく張徳有の姿は哀愁を感じさせると同時に、転職経験のある僕自身の記憶にも重なってきました。

 張の孤独な感傷の場面は特にそれを思い起こさせます。

 「手をかけると、ゆらゆら揺れる信號機の鐵柱へ、危なっかしく上がってどうやら燈を點け終わり、もうとっぷり暮れてしまった線路を、ぽつりぽつり帰って來ると、作業中遠くに行ってゐてもよく聞こえるやうに、ポイント小屋の軒に取り付けた電話のベルがりんりんとけたたましく鳴っていた。走って行ってかかると『XX列車出発』と、列車の隣接駅出発の通知だった。それを聞くと、急に胸に蟠る煩悶を吹飛ばして鋭い職業意識が蘇り、張は暗いいじけた気持ちを奮い立たせるやうに、ことさら大きく『オーライ』と叫ぶと、合図燈に燈を入れて戸外に出て、列車を第一本線に入れるべく、ポイントのリーバーを力を入れて引いた。夏とは言へ、八月も終わりに近いこの頃は、夜になると急に大気が冷えて、リーバーを握る素手がひんやりと、早い秋の氣配を傳えていた。」

 これで最後だと思う心境。そして、ことさら大きく叫んだ彼の気持ちは実感があります。

 働くものの歯がゆさと焦燥、セパレイトされた人間の繋がり、そして打算。そういったものは時代とは関係ないのでしょう。

 第八号転轍器 (砂子屋書房、昭和16年初版)


 蛇足ですが「不安のない社会は何よりも優れた犯罪政策である」と言うのを大学の授業で聞いたことがあります。
 誰の言葉だったか思い出せません。いずれにしろ今は不安だらけですね…。




 


 
 

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高橋真琴先生のお姫様 - 薔薇のワルツ-

 昨日、高橋真琴先生の個展「薔薇のワルツ」を拝観してきました。
 仕事を少し早めに切り上げて18時からのパーティに間に合うように出かけたのですが、実を言えば、ご招待状にあった期日を勘違いしていていました(土曜日だと思いこんでいたのです)。昨日であったことに気付いたのが当日の午後2時ころでして、急いで仕事に目途をつけて準備をしました。

  macoto2012 新刊 人魚姫

 向かっている途中、夕立になり「着くまでには止んでくれれば良い」と思いながら電車の窓に流れる景色を見ていました。
 銀座に着くころには既に雨もあがり、少し寄り道をしてからギャラリー向日葵へと向かいました。

 macoto2012-01 

 会場内には1967年に描かれた「愛の交響曲」から新作まで50点以上に及ぶ作品が展示されており、昨年以上の気魄が感じられました。

 会場に入った時、先生は中央のテーブルで椅子にお座りになったままうたた寝をしていらっしゃいました。一度だけそっとお声をおかけしたのですがお気づきになられなかっため、お起こしするのも憚られる気がしたので展示作品を拝見してからと傍を離れました。
 けれども、すぐに会場の方が先生にお声をかけてくださり、お疲れのところ恐縮にもお話をさせていただきましたが、あれほどまでに疲労の見えるお姿を拝見したのは初めてかもしれません。

 会場には多くの花束と先生が描かれた可憐な星の瞳の少女があふれ、会場内のどこにいてもその瞳にみつめられる幸福を感じることを禁じえません。しかし、いつも先生の傍らにおられた奥様の姿はそこにはお見受けすることは叶いませんでした。昨年12月24日にご逝去されたのです。外部に知らせることはせず、すべてをお身内でなされたそうです。先に他からお聞きしてはいましたが、先生ご自身で公式に言い出されるまで書くべきではないと思い、ここにも書かずにおきました。
 
 先生のご心中は僕のような者が察するに能うべくもなく、その深い悲しみにお声すらかけることもできません。「これが家内の望みでもありましょうから、負けるものかと絵を描き続けました」と微笑まれるお顔を拝見したら、述べようと思っていたお悔みのひとつも言葉になりませんでした。ただ初めて奥様にお会いした日のことを短くお話させていただきました。

 「来年は画業60周年。その次の年には80歳になります。まだまだすべきことはたくさんあります。」

 パーティでこうおっしゃった先生のお言葉が今日ほど胸に響いたことはありません。その決意はご自身の夢と、それから奥様への愛とに支えられていると、そう感じました。

 佐倉フラワーフェスタ2012 「佐倉フラワーフェスタ」

 パーティ前に先生が次のようにおっしゃられました。

 「昨年の個展から40点以上を描きました。本音をいえば、展覧会はできないかもしれないと、そう思ってもいました。けれどもどんなことがあっても僕はしょげてはいられない。負けてなるものかと必死で描きました。それが家内を喜ばすことになるとね。それでもあと6つほど描きあげられなかったものがあります。それは次の東京の個展のためのものにするか、関西に展示するかはわかりません。その会場ごとのテーマがありますから。昨年はいろいろなことがありました。あったからこそ描かずにはいられなかった気持ちがあります。」

 高橋先生はまたいつものように東京会場には毎日お見えになり、多くのファンの方々をご自身でお迎えになります。そのお心がまさに星の瞳そのものだと思うのは僕だけではないでしょう。
 
 あのまだ早い春の日、ギャラリーの裏口までお見送りにきてくださり「また来てください。いつでもお待ちしております」と温かな笑顔を満面にうかべられた奥様を、昨年の個展の時に会場入り口にいた僕を見つけて声をかけてくださったあのお気遣いを、僕はきっと忘れないでしょう。

 会場に展示されていた「シューベルトの子守歌」に描かれた母親の姿を見つめていて、この溢れる愛情は奥様のお心なのかもしれないとそう思いました。

 奥様にはそれほど多くお会いする機会がありませんでしたが、そのお気持ちにはいつも感謝いたしておりました。またお会いする日もあるかと思います。その時には改めてお礼を言わせてください。今はごゆっくりお休みください。お疲れ様でした。

 - 合掌 -

 ツィゴイネルワイゼン 「ツィゴイネルワイゼン」
 

 ★「薔薇のワルツ」
 
  会期:2012年5月29日~6月9日(土)
     11:00 ~ 18:30
  会場:銀座 ギャラリー向日葵 (銀座松坂屋近く)
     東京都中央区銀座5-9-13 銀座菊正ビル2F
     TEL 03-3572-0830
 
 ★「フルーツ・バスケット」

  会期:2012年11月2日~11月18日(日)
      11:00~18:00(最終日は17:00)
  会場:ギャラリー 小さい芽
     兵庫県西宮市千歳町6-20 
     TEL 0798-33-3345  



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