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梅崎春生「砂時計」

 「忘れる」と言うのは何を意味しているのかを考えていました。そんな中で書棚から取り出してきた本の話です。

 小説の中心が常に人物である必要性はないと思わせる作品があります。登場人物の誰が主人公であるのかという視点で物語を追いかけるとすべてが収束しない、中途半端な印象を受けてしまうような。それを一歩距離をおいて眺めてみるとその中心にあるのは、人間が潜在的に有する負の感情のディテイルそのものが主人公であったりします。梅崎春生の「砂時計」がまさにそのような小説です。

 梅崎春生「砂時計」 「砂時計」(署名)
 (梅崎春生著、初山滋装丁、大日本雄辯會講談社刊、昭和30年初版)
 
 小説は夜の陸橋のある道の情景からはじまります。それから作者は街灯に目をうつし、次のように描写します。

 「夜、陸橋のたもとには街灯があった。しかしそれは緑のペンキを塗ったブリキの笠だけで、電球はくっついてゐなかった。球の金具の部分だけが笠の中心にはめこまれ、そのままぎしぎしと錆びついていた…」

 本来明かりを灯すはずの街灯がその役目を放棄し(或いは、放棄せざるを得なく追い込まれ)、その状態でそこにあることが今から道をゆく人物には当然のように映し出されます。道を行く彼にはひとつの目的があり、それを遂行するために街灯の下に立ちました。

 梅崎春生は推理小説の手法をつかって「砂時計」を構成しています。文はあくまでも技巧的に組み立てられ、技巧的に過ぎるようにも感じ取れます。

 舞台は、白川社会研究所、夕陽養老院、カレエ粉対策協議会を転々とし、登場人物は多く、主たる事件は2日間の間に生じます。錯綜する物語の交点にいるのは「栗山佐助」です。

 彼は白川社会研究所の臨時職員であり、夕陽養老院の書記であり、カレエ粉工場の公害に抗議する住民団体「カレエ粉対策協議会」のメンバーでもあります。その全てに携わってはいるけれども、そのどれにも情熱を持たない人物です。彼は記憶を保つために記録をよりどころにしている人物であり、否定、拒否することで自分の安全と他者との距離を保とうとします。
 白川社会研究所の先輩である牛島は彼を「手帖やメモに頼るから弱くなる。行動的じゃなくなるんだ。… メモはメモだけに終わって、メモ自身からは何もうまれっこないんだぜ」と的確に指摘します。

 佐助が体験し、追っているものは人間の中にある悪意であり、それは概して巨大な悪意ではなく、ごく一般に心に巣食っている権利欲であり、自己保身であり、他者糾弾といった小さな悪意、そしてそれがもたらす混沌です。
 人間の善意とはどこに存在しているのかを佐助は無意識に探し、そして、悪意の根底は記憶のなかにあるのではないかと反問します。

 「イヤなもの、腐敗したものを食べると胃はどうするか。嘔吐というやり方でこれを排除してしまふ。目にゴミが入ったら、目はどうするか。涙をさかんに出すことによって、異物を流し出してしまふ。そんな具合に僕が死なうとした気持ちや動機が、あまりにも耐えられないものだったために、僕の記憶が自動的にそれを排除し、追放してしまった…」

 彼は記憶、或いは、記録が排除消去されることによって「自分は一度死んだのだ」と言います。しかし、そこに善意の生じる隙はありません。なぜなら彼が失った記憶は「動機」というほんの一部分にすぎないからです。

 梅崎春生は悪意をもった数多くの登場人物を滑稽に諷刺するとともに憐憫の眼差しを注いでいます。その象徴が頭を殴打され一時的に記憶を失った乃木七郎に表されます。
 自分が何者なのか、何をしていたのか、これから何をすべきだったのか、それらを喪失した表情を素直な善意の笑顔として書き出します。

 過去を持つということは執着を生み、その執着の堆積は生涯の煩悶となり、生そのものを争いのなかに浸し、汚すことになります。
 善意とは無垢によってしか存在しないのでしょうか。砂時計が誕生と共に動き始め、落ちて積もる砂は記憶の汚濁であり、悪意であり、それが落ちているのではなく吐き出されているとしたのなら生じる空白は清浄さであり、善意の空間なのでしょうか。
 完全な忘却が訪れないかぎり安静な精神が得られないのならば、砂が落ち切った後に残る空間を忘却と呼ぶことは可能なのでしょうか。死が忘却と同義かはわかりません。けれども時を過ごすということが過去の堆積であると同時に、忘却の拡張であるのなら、最終的に人は救われるのかもしれません。

 

 
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伊達準之助 - 夕日と拳銃 -

 伊達準之助は岩手県水沢藩主の家系に属し、遠く辿れば伊達正宗に行き着く。「伊達」は維新後は華族に序せられ、準之助は明治25年(1892年)、その家柄の名望は未だ衰えずと言う恵まれた環境で生まれた。しかし、それは彼に血統による豪傑的性格を与えるとともに、我儘勝手な性格を助長するかたちになる。家柄に根差した周囲の特別視もあり、傍若無人で粗暴な性格であった彼は、日常においても素行が著しく悪く麻布中学、慶應普通部、立教中学などで退校処分を受け幾つもの学校を転々とした(最終的には立教中学を卒業している)。
 たとえば慶應中等部には正規の試験を受けて入学したものではなく、自ら勝手に教室に押し込んで席を陣取り追い出されることを繰り返し、ついにはその熱意に学校側が折れ特別に入学をみとめたものである。それも家柄と地位を持っていなければ到底不可能なことであったろうと思う。準之助は正式に入学が認められると腰に白布を巻き、その間に出刃包丁をさして通学した。そして、自分の気に入らない授業の時にはその出刃包丁を机の上で転がして教師を威嚇した。少年時の準之助はガキ大将と言うよりもヤクザの親分的であったと言えるかもしれない。ただし、準之助は暴力によってのみ人を屈服させていたわけではない。そこには血族的な、何かしら豪傑的なものを思わせる魅力があったことも事実であろうと思う。そうでなければ死地に最後まで随伴しようという他者からの敬愛は受けられない。

  夕日と拳銃(昭和30年初版)  「夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和30年初版)

 海城中学校(明治29年に立教中学校に改称)に在学中の明治42年(1909年)5月13日には東京明石町の煉瓦置場で友人と地回りの三笠金蔵との決闘を代わって受けた挙句に、金蔵を射殺するという事件を起こし、同年10月15日東京地方裁判所判決では懲役12年、翌年6月の控訴審判決では懲役6年を宣告された。しかし、伊達家弁護士の依頼により探偵岩井三郎が被害者の三笠金蔵の身元調査を行い正当防衛であった事を立証し、大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。
 準之助は後のことであるが奉天の自宅居室で知人の阿部太郎との口論から銃の腕試しをすることになり、その誤射によって阿部を射殺するという事件も起こしている。これは暴発事故として処理された。

 準之助が中国に関心を抱くようになったのは川島浪速が主催する善隣書院における影響が強い。当時の清は日清戦争に敗れ、その弱体ぶりを欧米列強に晒し分割支配される状況にあった。そこで日本はアジアの独立共存を唱え、「日支は唇歯輔車の関係にあり、緊密なる提携を第一歩とするも、支那自ら大国をもって誇り、頑迷度し難きにより、一撃を加えてその覚醒を促し、然る後、互いに手を握り東亜百年の大計を確立すべし」と言う荒尾精の論が世の趨勢となりつつあった。準之助はその論説の実践を図る川島浪速に傾倒し「満蒙決死隊」なるものを決起参画し、これが彼を大陸へと向かわせる契機となった。

 続・夕日と拳銃(昭和31年初版) 「続 夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和31年初版)

 だが、1910年代半ばから始まった満蒙独立運動、1916年の奉天における張作霖爆殺計画、1919年の山縣有朋暗殺計画(全て失敗に終わる)に関与した当時の彼の意識は、明治の維新志士か、水滸伝、或いは三国志の英雄気取りの範疇を出ていなかった。この後に朝鮮国境警備隊に赴任することになるが準之助には大志と言えるものは見受けられず、過激な面だけが目立った。
 朝鮮国境警備隊の頃、次のようなエピソードがある。そこの警備主任であった伊藤京治の命で秘密裏に抗日分子の処刑(名目は国外追放)にあたっていた古川上席警部の後をつけ、その事実を知った準之助は自分にやらせてほしいと志願した。しかし、密殺には興味を持っていた準之助だがその証拠隠滅操作に関しては面倒くさがり「僕が殺すことだけをやり、古川さんが前後の処置をやるというのはどうでしょう」と持ちかけたと言う。また大正12年関東大震災直後、朝鮮国境では反日朝鮮人が決起を図っているとの情報を基に準之助がその討伐の任にあたった。準之助はとある部落に進駐した時に部落内にいた反日分子の激しい抵抗を受け、全包囲し部落ごとを焼き払ったと言われている。
 
 第二次満蒙独立運動失敗後、日中戦争の最中には馬賊団を徴募して山東自治聯軍を編成し治安維持にあたった。1929年に張作霖旗下の張宗昌(奉天派)と義兄弟の契りを交わし張宗援(張宗昌を支援する者という意味)と名乗る。1931年、日本国籍を離れ中国国籍を得て中国に帰化した。準之助が指揮を執った山東自治聯軍は、日本国軍の支離滅裂な大陸政策に右往左往し辛酸を味わわせられ、ついに武装解除、解散の憂き目に会う。この頃の彼は意識が随分と変わり、「王道楽土」、「五族協和」を唱える石原莞爾の思想的影響を受け、満蒙並びに山東において、いずれの軍の影響も受けない中国人の手による独立自治国の建設を理想とし目指したようである。

 終戦後、蒋介石統治下の中国国民党に長男・宗義(後に釈放)と共に逮捕され、準之助は侵略戦争を推し進めた罪、県城襲撃・破壊、良民殺害などの罪で戦犯として起訴され青島拘留所に収監される。そこから上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所と移送収監され、裁判によって死刑判決をうけ、上海監獄の裏庭において1948年6月1日に銃殺刑に処せられた。

 完結・夕日と拳銃(昭和31年初版) 「完結 夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和31年初版)

 小日向白朗と伊達準之助。一人は戦犯を免れて生き、一人は戦犯となり刑死した。その分岐の根底にあったものは二人の銃に関する意識に現れていたかもしれない。
 白朗は銃を「威嚇するものであり、命を奪うものではない」と考え、準之助はあくまで殺傷武器(殺傷玩具と言った方が良いかもしれない)と捉えていた。

 いずれにしろ、二人の物語を読むにつけて浮かび上がるのは、無意味な英雄的精神論を吹鼓し、人心を忘れた頑迷な国粋主義で欺瞞に増長した日本帝国主義の暴挙とその終焉であり、浅薄さである。翻弄された二人の足跡は、歴史的愚行による犠牲の証言であると言えるとも思う。

 伊達準之助は青島拘置所で次のような言葉を残している。
 
 「僕は中国を愛して中国人になりきろうと、今でも懸命の努力を惜しまずにいる。その中国が僕を国家民衆の仇として罰しようとしている。愛する中国が僕を殺そうというなら、そしてそれで中国が安心立命するなら喜んで死のう、それでも良い。」

 秘録伊達準之助(都築七郎署名) 「秘録・伊達準之助」(都築七郎、番町書房、昭和47年初版)

 *先だって「小日向白朗」を取り上げたので、もう一人の雄「伊達準之助」も取り上げるべきだと思い書くことにしました。
 いくつもの文献がありますが、有名なものは檀一雄の「夕日と拳銃」でしょう。これは映画化もされています。ただし、こちらはあくまでモデルとして扱ったものであり伝記ではありません。挿話に誇大なものもありますし、事実ではないこともあります。娯楽的冒険小説としては読んでいて面白いですが、伊達準之助の知己関係者にすると「かけはなれている」との批判が多くされています。
 もう一冊は、都築七郎の「秘録・伊達準之助 - 夕日と馬と拳銃 - 」です。こちらは都築七郎が元取材記者ということもあり、伊達準之助を主人公とした小説ではなく、当時の中国の状況、伊達準之助の置かれた状況などを各種資料や証言、準之助の手稿等からルポライトしたものです。小説風に書かれていはいますが、準之助が颯爽と活躍するといった本ではありません。彼が置かれた時代背景を理解するための手助けくらいに受け取ってください。ただし、登場人物や事象に気をつかってか、批判的な記述を意識的に避けているところが強く、また変に敬意を払って持ち上げていることも多いです。それが中途半端な新聞記事の羅列のような印象を与えます。読み辛いかもしれません。

 


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 鯰という奴はその間抜けた容貌と奇態から随分と愚鈍な生き物だと思われがちである。しかしながら此奴ほど貪欲で剣呑な魚はそう多くはない。あの雷魚でさえも鯰に近づかぬと聞いたことがある。それなのに人によっては間延びした面に愛嬌さえも覚え、愛好家なども結構いると聞いている。ユーモラスに見えるということは代えがたい取り柄なのかもしれぬとも思う。自分には備わっていないものだ。つくづく羨ましい。
 もともと鯰の「なま」とは、滑るとか、ねとつくと言った意味であり、「ず」とは泥のことである。いうなればどろどろと滑る粘土のような生き物と言う程度の由来でしかないのだ。それが「念」の字を当てられているのは「粘」と同じ音を持つということなのかもしれぬが、見方によっては胡散臭い怪坊主が出鱈目の経か呪いを唸っている面にも見える。まあ、そのような意味合いもあるのかもしれぬ。
 鯰のその奇怪な姿は好奇な伝説の元になる。地震を予知するなどとも言われるし、茨城にある鹿島神宮の要石の下には大地震を引き起こす大鯰が捕えられているなどと言うのもその一つである。また最近、「空から鯰が降ってきた」などと言う頓狂な話が巷に流れ、天変地異の前触れかと言われたりもした。或いは、「鯰が子を産まぬと夏にならぬ」というのもある。こちらはあながち嘘でもなく、繁殖の時期が梅雨の開け時期にかかっていることが理由である。

 鯰という魚は日頃はあまり活発に泳ぐものではないようだ。水底に張り付くように体を延べて、たまに不器用にうねうねと不釣り合いな艶態で浮き上がる。さほど長い距離を移動する気もないらしい。それ故に見るものに鈍重な印象を与える。昼行燈は火を隠すのにはもってこいなのだ。
 しかし、見れば見るほど間の抜けた怪しげな面構えだ。自分がいつ頃から此奴を眺めるようになったのかは定かではないが、突然に正面に現れてからもう大分経つことは事実だ。長く此奴を観察していると自分が鯰になったような気さえしてくる。ひとつ鯰になった気で眺めてみるのも一興であろう。

 此奴が鈍重ではないことを示す話がある。以前、沼海老が大量に出現したことがある。彼奴等は華奢で長い手足を緩慢に運んでいるようでも、何かあるとぴゅっと速度を上げて視界から離れていく。その過信にも似た特技を生かしてチロチロ、ケケケッと人を小馬鹿にしたようにからかいに来る。冒険心の強い奴などは顔の上にも乗ってくる。腹も適度にくちて餌を欲するいわれもないが余りに煩かったので、居眠った振りをして彼奴等が一堂に集まったところをひと呑みにした。十数尾いた彼奴等は刹那に臓腑に落ちた。強欲さの本気をひねり出せば川海老などとるに足りぬ鈍間(とんま)な生き物なのだ。身を以て知るが良い。
 またある時、一匹の若鯰が目の前に現れた。雌鯰のようであった。その張りのある身体は特有の香を放ち鼻孔をくすぐった。やや小ぶりな頭部から胸鰭をすぎた辺りで急に細く引き締まり、ツンと尾の先に向かって伸び行く姿はそそりたてるものがある。口ひげを舐めるようにして若鯰を眺めていたら、ずずと押し上げてくる欲望に自然と体が動き、気が付けばその雌鯰を呑み下していた。「なんということを!」と自責の念にかられながらも胃壁をぴくぴくとくすぐる感触に恍惚さえ覚え、こう思った。「やはり若いのはいい。」

 鯰は人の食にもよく供される。蒲焼や天麩羅、焚きものなど調理法を選ばぬらしい。中でも殊に好まれるのが…天麩羅だったか、なんだったか。ちょっと度忘れをしたがとにかく旨いと言うことだ。
 私は「ああっ」と体を伸ばした。蹲って此奴を眺めているのいるのにも飽いた。そろそろ出かけようと思った矢先に「唐揚げ」と声が飛び込んできた。それで思い出した。鯰は唐揚げが良いのだった。覚えておくと良い。鯰は唐揚げなのだ。

 ヨイショッと体を動かした拍子に頭を棚角にでもぶつけたのか、がつんとした衝撃で目の中に火の粉が舞い一瞬昏倒した。ついで頭を薙ぎ払われるような感覚で突き飛ばされた後、ぐるっと向き直った私の眼前に、体液をしたたらせた薄白い肉の断面があった。



 *先日、「水の中の生き物」と言うテーマを何人かで分担することになり、僕には「鯰を題に1600字くらいで」と原稿を割り当てられました。日ごろからお世話になっている方でしたので断りきれずに引き受けましたが、締め切りが3月10日で、受けたのが2月の24日でしたから間に合うわけはなく、延長に延長を重ね先日ようやく入稿しました。同じ題で二つの話を書き、こちらは採用されたのとは別稿の下書きになったものです。まあ、せっかく書いたのだから載せておこうかとただそれだけなのですけど。「更新もしないと、、、ね」と言ったところです。
 


 

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John Tenniel - 19世紀末の挿絵 -

  “ Aesop's Fables ” (1848年) 

 Aesop's Fables 1848
 (John Murray, London 1848)

 「テニエルの挿絵があれば載せて欲しい」、「鏡の国が見たい」とか、「アリス以外のもので何かあれば」と言うテニエル絡みのご希望をいただきましたので、彼の初期の挿絵本である1848年に発刊された「イソップ寓話」をご紹介します。
 出版は John Murray 社で、テニエルが挿絵を施した版は“ New Edition ”となっています。挿絵は全部数えたことはないのですが110枚ほどだと思います(挿絵の目次がありますので数えればいいだけの話ですけど)。すべて黒のペンで描かれ、銅版(エッチング)で印刷されています。

 最初の物語は「狐と葡萄」です。非常に短い話なのですが身につまされることしきりの心に痛い話かもしれません。ご存知の方が大多数だと思いますが、明治40年発行の合本版「新訳伊蘇普物語」(玄黄社、鐘美堂書店)から上田萬年の翻訳でご紹介しておきます。

 「空腹になった狐が、ふと葡萄畑を通りかかり、鈴なりに熟した葡萄を見て、幾度となく飛びあがって取ろうとしましたが、高くて達(とど)かず、憊れるばかりで、一粒も口へは入りませんでした。そこで狐は業を煮やし、「何だ、こんな青い酸っぱい葡萄を誰が食うものか。」

 Aesop's Fables 01

 この物語の教訓は「高望みをするな」と言うことです。
 ルイ18世統治下のフランスにおいて外相として活躍したシャルル=モーリス・ド・タレーランは「言語は思想を隠すために人間に供された」と言っていますが、ある意味においてそれは的を得ています。
 人は失敗や照れ隠しのために心にもないことやその場しのぎの理由づけなどで逃避しようとします。
 たとえば誰かに自分勝手に期待を寄せておいて、それが思い通りにならなかった時にその相手に悪口をついたり、実力もなく努力もせずに高望みをしておいて、それが無理だとわかると「やればできるんだけどね、もう飽きた」などと言ったりもします。
 挙句には人の不幸を願ったりしてしまうことすらあります。たとえば、ある中華屋で嫌な思いをして「こんな店に二度と来るもんか!潰れてしまえ!」などと。
 自分の矮小さ、卑屈さに気付くと自己嫌悪に陥りやるせなくなったりもします。でも、「それも人間」と開きなおることも必要なのかもしれません。だって、上の物語の狐は葡萄を取るために飛んだり跳ねたり一生懸命に、それこそヘトヘトになるまで頑張ったかもしれません。その努力を誰かが認めてあげるというのも大事だと思うのです。

 Aesop's Fables 02 

 話がそれました。テニエルの話をしましょう。
 テニエルは1820年にロンドンで生まれました。彼の母親はダンスの教師、父親はフェンシングの教官をしていました。テニエルは20歳の時、その父との練習試合で右目に剣が刺さり失明するという事故にあっています。
 彼は早くから美術を志し王立美術学校とクリップストーン・アート・ソサエティで基礎を学んでいます。1836年に英国美術協会に認められ初めて公の場において彼の油彩画が展示されました。
 1943年、ジョン・リーチの薦めでディケンズの“Christmas Books”(Chapman & Hall. Bradbury & Evans)のフロントピースの絵を描いています。
 さらに1845年にはウェストミンスター貴族院の「詩人の間」にあるジョン・ドライデンの詩「聖セシリア」のフレスコ画を制作しました。
 
 Aesop's Fables 03 Aesop's Fables 04 Aesop's Fables 05

 テニエルは美術の基礎を学校で学びましたがイラストや漫画、諷刺画については独力で学び、特に動物や植物のデッサンに励みました。その努力はダグラス・ジェロイドの目にとまり、イソップ寓話の挿絵を描く話が舞い込んできます。彼はそれを見事にものにして1948年にJohn Murray社から“ Aesop's Fables ”として刊行されました。この年、ディケンズの“The Haunted Man”の挿絵も手掛けています。
 1850年、パンチ誌を主催していたマーク・レモンからカトリック問題の対立で職を去ったリチャード・ドイルの後任として勧誘され、活躍の場を移しました。ずっと後のことになりますが、彼はそこでビスマルクの辞任にまつわるドイツのオットー首相を題材とした風刺漫画“ Dropping the Pilot ”(1891)を描き好評を得ることになります。

 Aesop's Fables 06 Aesop's Fables 07 Aesop's Fables 08
 
 パンチ誌での彼の絵はルイス・キャロルの目に留まり1866年「不思議の国のアリス」、1870年「鏡の国のアリス」と世界的なヒットを飛ばし、ジョン・テニエルの名を歴史に残したことは周知の事実です。
 1893年、英国王室より“ Sir ”の称号を授与されました。ルイス・キャロルと袂を分かった後も1901年に職を辞すまでパンチ誌で漫画を描き続けました。そして、1914年2月25日に亡くなっています。

 Aesop's Fables 10 Aesop's Fables 11

 この「イソップ寓話」の終章の物語は「粉屋と息子と驢馬」です。本書中、最も頁が費やされているものですが、これは本来「イソップ寓話」には含まれていず、先にご紹介した「新訳伊蘇普物語」を編纂した国文学者の上田萬年はこれを同書から外しています。簡単に粗筋をあげておきます。

 粉屋の親子がが隣町の市で驢馬を売るために驢馬を引いて歩いていた折、井戸端会議をしているおかみさん連中に出合い 、その驢馬連れの姿を揶揄されました。
 「ねえ、あの人たちは驢馬に乗らずに歩いているよ。何のための驢馬なのかね。おかしいったらありゃしない。」
 粉屋はそれを聞いて息子を驢馬に乗せました。
 それからまたしばらく行くと、今度は老人たちが世の流れについて議論しているところへやってきました。
 「あれを見なさい。わしの言うとおりじゃろう。最近は年寄りに敬意を払わず、若者が我先に楽をする世の中なのだ。年老いた父親を歩かせておいて、息子は驢馬に乗って怠けておる。」
それを聞いて今度は父親は息子を驢馬から下ろすと自分が驢馬に乗りました。またしばらく行くと彼らは母親と子供たちの集団に会いました。
 「可哀想に小さな息子は足を痛める思いをして歩いて行っているというのに、よく父親はすまし顔で驢馬に乗っている。なんて親なんだろう!」
 父親はそれを聞いて息子を自分の後ろに乗せて町へと入って行きました。 すると一人の男が近づいて話しかけてきました。
「これはあなた方の驢馬ですか?」
「そうです。大事な私の驢馬です。」
「だとしたら、なぜ、あなたは驢馬をいじめるのですか?驢馬が大切ならば、自分たちで驢馬を運んだ方がよいのに。」
 そう言われて粉屋の親子は驢馬から下りると、驢馬の脚を太い木の棒に括り付け肩に担いで橋までを運んで行きました。このおかしな親子を一目見ようと人だかりができ、集まった人々は腹をかかえて笑いました。
 驢馬は周囲の大きな笑い声に興奮して、縛っている縄から逃げようと暴れた結果、縄が切れて川に落ちて溺れ死んでしまいました。

 全ての人の期待に応えようとした結果、大切なものを失うという愚行を諭した物語です。周囲の期待の全てに応えるなど土台無理なことなのです。自分らしい価値観と自己貫徹の意志への教訓です。

 Aesop's Fables 09

 最後に“Good Words”の挿絵を一枚ご紹介します。「鏡の国のアリス」はまた別の機会にします。
 テニエルはここで“ The Way in the Wood ”と言う短編の挿絵を描いています。

 “ Good Words ” (1864年)
 The Way in the Wood 1864
(Individually published issue 1864)

 “ Good Words ”は個人誌として発行された50頁ほどの薄い冊子です。広告と読み切りの短編小説主体に編集されています。挿絵はすべて銅版画で、広告のカットを含めれば膨大な数が入っていますが、著名な挿絵画家としてはテニエル以外ではロバート・バーンズ他数名程度です。バーンズの挿絵は残っている作品がわりと少なく、ちょっと珍しいので2枚ですが載せておきます。

 Robert Barnes
 Illustration by Robert Barnes (1840~1893)

 ついでにアーサー・ラッカムのイソップも載せておきます。
 初版は1912年、挿絵はフルカラー13枚、セピアが53カット収録されています。初版を手にいれるのは少し難しいですが、ラッカムの絵を目的とするだけなら洋書としては現在も販売されていますので入手はしやすいです。

 Illustration by Arthur Rackham
 Heinemann 1912 Rackham 00 Heinemann 1912 Rackham01 Heinemann 1912 Rackham02
 (William Heinemann, London, 1912)





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薔薇の木に、薔薇の花咲く

 眠れない夜が続いています。漠然とした不安と明確な危惧とが沈殿して僕の眠りを妨げます。
 「時が解決する」なんて真っ赤な嘘だとわかってはいるのだけれど、もう少し時がたてばどうにかなるのかもしれないと淡い期待をどこかに抱いている自分は「まだ神様を信じているのかも」とそう思ったりもします。
 僕が今抱えている不安などは一転してしまえば心を塞ぐような重さを失うはずです。それは思い通りにならない現実に対処する術がわからないという、ただそれだけの自分勝手な欲望にすぎないのだから。本当の不安とはそんな物理的要因を指すのではないこともわかっています。

 「人生に積み重ねなど必要ない。壊して壊して壊して常に生まれ続けようとする意志こそが本当に生きていることなのだ」と岡本太郎さんからお聞きした時、僕はその言葉の斬新さに感心し上辺だけで唱えていました。
 身を守ろうとするから落魄れるのが怖いのです。担うもの総てを投げ出してしまえれば、その勇気と力があれば気魂は人生に宿ります。そして、その勇気が僕にはありません。この不安は僕が生み出しているものなのです。まさに積み重ねた過去から滲みだしてくる汚物なのです。

 絶望とは消沈して不幸の中に蹉跌することではなく、突然に一切の望みが見えなくなり、幸不幸さえも感じなくなったことを指すのだとそう気が付いたのは18歳になってすぐのことでした。僕が夢見ていた理想はその瞬間に消えてしまい、後は抜け殻のような心だけを器につめて持ち歩いているにすぎないのです。
 それを埋めようとして僕は現実に手に取れるものを鷲掴みにしようとしてきました。いえ、現にそう行動し、行動しきれないことで今の焦燥があるのです。それは更に不安を生み出し続けます。

 何だか暗い文章になっていますね。話題を変えます。

 「薔薇の木」 (北原白秋)

 薔薇の木に、
 薔薇の花咲く。

 なにごとの不思議なけれど。

 白秋の詩集「わすれなぐさ」に収録されているごく短い詩です。初めて読んだ時はあまりの簡略さに不思議さは覚えても感動はしませんでした。ところが、ある日ふと開いた時に、道理を悟るということは高度な知識や経験によるものではなく、その理由は開いた薔薇を見る側の心の問題なのだと、その未熟さを不意に突きつけられたような気がしたのが思い起こされます。

 レイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」の中で「人は、毎日頭上に輝く星にさえも気づいてはいないのです」と綴っています。
 日常に変化がないと目を伏せさせているのも、不安に取り込まれて周囲や自分を見えなくしているのも、やはり自分自身なのです。

 「安寧は捨つる先にあり」とは仏教における「空」のことです。生を闘うことも安んじることも「捨てる」ことにその真理があるのだと心で理解するまで、あとどのくらいの年月が必要なのでしょうか。

 
 
 


 

 

 

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恋風

 「恋風」というアニメ作品があります。原作は吉田基巳のコミックです。2001~2004年まで「イブニング」で連載、2004年4月からTV朝日系列で放映されました。
 テーマは「本当の妹に、本当の恋をした」でした。ストーリーの紹介をオフィシャル・サイトから引用させていただきます。

 「妹が生まれてまもなく、両親の離婚により兄妹はそれぞれ父側と母側へとひきとられ別々に暮らしてきた。そして10数年たった現在、結婚相談所に勤める耕四郎は妹がいることすら忘れて平凡に暮していた。ところがこの春から、高校進学に伴い妹・七夏がおなじ家で住むことになったのだ。ただでさえ困惑する状況の上に、耕四郎には別の悩みがあった。同居の前に妹とは気づかずにデートした揚げ句、失恋の痛手から思わず涙を流し慰められるという失態。離れていた時間を埋めるように、ただ純粋に兄を慕う妹。なんとか立派な兄であるよう心がけたい耕四郎だが、出だしからつまずいた上、異性として意識せざる得ないほど七夏は可愛い。隠さねばならない気持ちは純真な七夏に接する度にどうしようもない、苛立ちへと変わり衝突を引き起こす。そして自己嫌悪に嘖まれる日々が始まる…」

 恋風 1 恋風 5

 このアニメですが「プレスコアリング」と言う少し変わった方法で制作されました。どういうものかと言うと、通常は作成された映像に合わせて音楽やセリフをあてていく「アフレコ(アフターレコーディング)」が主になっています。プレスコアリングは収録されたセリフや音楽に合わせて画像を作成する手法のことです。但し、現在のアニメではレコーディング時に画像が完成していないことが多く、コンテに合わせてセリフなどを収録し、後日、デジタル調整で修正を加えていくことが多いので、広い意味ではこれも「プレスコ」と言えなくもありません。
 しかしながら「恋風」は途中までは完全プレスコアリングでの収録となりました。監督は大森貴弘(BACCANO、デュラララ、夏目友人帳etc)、脚本を高木登(BACCANO、地獄少女etc)、音響を岩浪美和(まほろまてぃっく、Fate/Zero etc)、主人公の佐伯耕四郎を三宅健太、妹の小日向七夏を中村有岐という布陣。原作は約3年半の連載で全35話。それを13話にまとめる形で放映されました。葛藤の経過を表すエピソードに不足している感は否めないですが、それは仕方がないでしょう。個人的には原作8話「夏の休日」からの七夏の里帰りや20話「はつ恋」からの耕四郎の別居前の出来事、32話「生涯の恋」の描写が含まれればと言った感じはあります。

 原作が漫画である場合、アニメではイメージを維持するのに苦労をします。まして「恋風」の場合はコミカルでテンポ良く進むと言った作品ではなく、心理描写を間で表現する部分、つまり静止画に重きを置く部分が多かったので特に苦労しただろうと思います。その中で非常に効果的だったのが「音を間引く」ことだったと思います。この「音を間引く」、すなわち「余計な音を鳴らさない」と言うことなのですが、これが簡単なようで実に難しい。それを大森貴弘さんと岩浪美和さんは見事にやってのけました。音が消える瞬間を生かしています。演技者の自由度の広さと音へのイメージの重ね合わせと言うプレスコの利点を十分に取り入れていた結果であり、それが作品の緊張感や抒情性を醸し出していたと思います。美術監督の西倉力さんと色彩設計の鈴城るみ子さんの繊細な水彩画のような雰囲気も非常に美しい作品でした。

 原作の話をしましょう。原作の主題は先に書いた通り「兄と妹の恋愛」です。同様のテーマを扱ったコミックやゲームは多々あります。「あきそら」や「ヨスガノソラ」などですが、この「恋風」はそれらとは似て非なるものです。テーマは同種ですけどインモラルな部分を強調し過度な性的描写に頼った演出により興味を惹くものではなく、恋愛の純粋さを求めた結果としてタブーに触れた恋愛を取り上げたことに意味があります。
 もともと兄妹間の恋愛、或いは、近親間の恋愛や婚姻といったものは禁忌ではありませんでした。古事記における伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の国生みに見られるように、より純粋な神聖なものを生み出すためにごく自然に行われていたことです。
 国生みについては「妹」と言う字を上代言葉(古語)にある「いも」として、自分より年下の女性と言う意味であって血縁関係を表さないといった主張もありますが、それはやたらと皇族を尊崇し禁忌を忌避するための強引な展開ではないかと思います。近親婚を禁忌とするようになった理由や起源(少し難しい問題もありますが)から見れば、神代においては問題はなかったとすべきです。
 話題がずれてしまいました。もとに戻します。
 恋愛、純愛と言ったものを追及した場合、今日においてもっとも純粋な形で表現できるとすればタブー(或いは、インモラル)とされる境界を越えたものであるでしょう(削ぎ取られて残ったものが核であるのと同様に)。それが近親恋愛に結びつくことは不自然ではないし、ある意味、理想的な主題となります。しかし、現実には法的にも、世間一般的にも認められておりませんので「普通」の状態ではありません。
 作品中で耕四郎の元彼女の秋本宵子の「耕四郎って心から誰かを恋しいと思ったことはあるのかしら?」と言う投げかけから、終盤の千鳥要(耕四郎の同僚)の諌めに対する耕四郎の「不幸とかお前が決めんな」と言う流れまで、終始一貫して耕四郎が望んでいるものは「純粋に好きだ」と言える充足感、幸福感なのだと思います。物語中においては七夏の純粋な気持ちに基づく強さと、耕四郎の純粋さに基づく弱さとが交錯します。それが最終的に「一緒にいること」を選択し物語は終わります。
 アニメのオープニングの映像を最終話以後のエピソードと取って見ていると切ないものがあります。

 今日的な作品と比較すると地味と言えるかもしれませんが、じっくりと考えさせられる作品です。また、携帯電話が普及する前の、昭和の終りから平成の始めにかけての情景も非常に懐かしく、そのしっとりとした描写が作品の質を高めてもいます。
 こういった作品を見ていると「燃え尽きるのなら後悔がないほどに」と、そう言える若さがもう一度欲しいと思ったりします。

 恋風 サントラ




 

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「ピッコロ」と言う名前の小さなフェレットに。

 僕は何度も命に詫びる。
 ひとつの命を殺すたびに「すまない」と手を併せ、その繰り返しでここまで来てしまった。
 繰り返す過ちの中、心のどこかに「あの子にしてあげられなかったことを今度こそ」という気持ちがある。それは嘘ではない。しかし、それは何の贖罪にもならないし、どこまでも僕のためなのだ。ただ自分の言い訳にすぎなく、そして、それを建前にして、その結果何も学習することなくまた同じ過ちを繰り返す。

 他のよりも小さな子だった。初めて見た時は片掌に収まってしまうほどに小さな子。そして、大きくなれなかった子。頭を掌で包むようにくりくりされるのが好きで、おっとりしていて、そのくせに下に降ろすと途端にぴょこぴょこ跳ね回って手に足に飛びついてきた。
 体重が軽くなっていたのが気になり獣医に連れて行ったのが4日前。一昨日は点滴などで回復し、予定では昨日、家に帰ってくるはずだった。それから様子を見て治療していくはずだったのに。「容体が急変した」と言われて獣医に駆け付けた時にはもう遅かった。家に連れ帰ってハンモックにもどしてあげたあの子は、いつもと同じように体をゆるく投げ出して眠っているように見えた。
 もっと早く気づいてあげればよかった。なぜもっと抱いてあげなかったのだろう、遊んであげなかったのだろう。そう思いながら、冷たくなった頭を、背を、腹をなでる。
 最初の子は10年生きた。次の子も10年。今度の子はたった4年だった。してあげられることはあったはずなのに。「忙しかったんだよ」は理由にならないし、理由であるはずがない。僕は手を併せ、白檀を焚いた。

 部屋にもどってから少しぼんやりとしていると網野菊さんの「街の子供」が目にとまり何となく開いてみたら、そこから僕を責めるような声が聞こえた。それは直接の内容ではなく、網野さんの文を借りて僕の中に響いてくるあの子の声に違いなかった。「おとなしくしてたのに、もっと遊びたかったのに」と。餌を忘れなかったからとか、小屋の中をきれいにしてあげてたからとか、そんなことで十分であるはずはなく、あの子の命を僕は感じてあげなかったという事実をつきつけられたような気がした。

 今まで失わせた小鳥や小動物、犬、昆虫までもの彼らの魂はやがて僕を導くだろう。肉体をはぎ取られて丸裸になった僕は凍えながら、その時になって初めて真に彼らに謝罪するのかもしれない。同じ重さになるということはそう言うことなのだと思う。
 僕の愚かさは償えない。せめて今ある命だけは出来る限り一緒にいてあげることを、今夜だけは忘れないようにしたいと思った。

 
 

 
 

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愚かな僕と「青い壜」

 一進一退の体調加減です。まあ、だましだましやっていくしか方法はないということでしょうね。
 「どんな病気なのか?」と突き詰めれば、生きていることそのものが病気のようなものです。完治を望むのは彼岸に渡ってから、ということになりましょう。
 厚生労働省発表の平均寿命によれば、男性79.19歳、女性85.99歳だそうで、そう考えると僕は既に川の半分以上を渡ってしまったことになります。残り時間の方がどう考えても少ないわけです。

 現在、公開中の映画に「IN TIME」と言うのがあります。監督はアンドリュー・ニコル、主演はジャスティン・ティンバーレイクとアマンダ・サイフリッドです。
 人口増加を抑制するため人類は遺伝子操作により26歳以後は時間を買わなければ生き続けられない社会を創り上げます。そこでの貧富の差は貨幣基準ではなく「時間」に換算されます。貧困層は労働の対価として時間を得るが、それも日々の生活のために消費されなくてはならず、「時間切れ」は即ち「死」を表します。富裕層は貧困層から「税」や「消費活動」を通じて「時間」を搾取していくわけです。時間に富むものはその他大勢の犠牲の上に不死となり、その矛盾に対抗するために主役の二人が立ち上がり「時間強盗」をして、貧困層に分け与えて行くという物語。
 ありていに言えば、大恐慌時代のアメリカに実在した銀行強盗ボニーとクライド(映画「俺たちに明日はない」の主人公) が「鼠小僧次郎吉」宜しく、義賊を演じるといったものです。映画として物語は「さぁ、戦いはこれからだ」的なエンディングで何も解決はしないのですけど、つっこみどころ満載で面白いことは面白いです。
 僕は性格が悪い方なので素直に観ているということが無理でして、「なんてききわけの良い民衆なのだろう」とか、「時間補級を後回しにする理由ないじゃん。演出が見え見え」とか、心の声が揚げ足取りに終始してしまいます(あまり詳細を書きますとこれから観る方の興を削ぎますのでやめますが)。まぁ、それが楽しい映画でした。ところで、僕はこの映画でも地味な役柄で序盤で少ししか出ていませんがマット・ボマーが好きです。

 と、映画の話はさておき、「時間」ですけど、こいつほど正体不明でやっかいなものはないですね。物質ではないし、観念的存在でもないです。確かに存在?はしていますし、影響も出てきます。しかし、実体を掴むことは不可能ですね。「時間」は相対的存在であって、それ自身を感知するようなものではありません。生物であれば老化、構造物質であれば老朽化や風化と言ったもので経過を比べることはできます。しかし、それ止まりですね。そう考えると「こいつは本当に存在しているのだろうか?」と甚く疑問に思います。しかも、こいつの方向がまたわからないときています。つまり、時間は前からくるのでしょうか?それとも後ろから来るのでしょうか?未来が過去に向かっているのか、過去から未来へと流れているのか、とんと見当もつきません。それがわかったからといって何も解決はしないのですけどね。僕はただ老いぼれていくだけですから。

 不死が実現したらどうでしょう?死の怖さって何なのでしょう?死の怖さも、不死の怖さも、僕にとってはどちらも未知なしろものなので同様に怖いですね。自分の体験で認識できないものに対する恐怖があるだけです。
 今言えることは、自分の意志で生まれてきたわけではないですから、誕生したこと自体が最大の失敗であることは事実です。生まれてさえ来なければ苦労のかけらもしなくて済んだのに。そう考えると生まれてきた以上の失敗はないわけですから、生きている途上での失敗などたかが知れています。逃げることも、取り繕うことも充分に可能ですからね。とりかえせない失敗はあります。起こったことは消せませんので。でも、フォローする方法はいくらでもあります。
 借金?逃げ続ければいいじゃないですか。失業?仕事は選ばなければ何でもあります。事実、僕にもそういう時期がありました、確かに。方法は如何様にもなります、我儘さえ言わなければ。あとはメンタルがその荷重に耐えられるか否かの問題でしょう。
 
 さて、ここまで意味のない前置きをしてしまいましたが、何の話かと言うとレイ・ブラッドベリの「青い壜」の話をしようかと思ったわけです。

 火星がテラ・フォーミングされて移住が可能になった未来。かつてそこに住んでいた火星人が火星硝子を吹いてつくった青い壜を求めて、トレジャー・ハンター達が血眼になってそれを争っていました。その壜の中身を知る者は誰一人なく、ただ「その青い壜は真実の願を叶える」という伝説のみが伝わっています。
 物語の主人公はアルバート・ベックとレナード・クレイグ。彼らは廃墟となった火星のある町を訪れました。そこにある建物の中でクレイグが小壜を拾い上げます。その中にはバーボンがいっぱいに入っており、クレイグは喜び勇んで口に含みました。ベックがそれを怪しんで「何を持っているのか?」と壜を取り上げると、それは単なる空壜であるはずなのに、クレイグは「まだ半分くらいバーボンが入っている」と主張します。

 「チャポンチャポンいっているだろう?」
 「いや」
 「おれには聞こえるんだがな」

 クレイグがもとのテーブルに壜を置いたところでベックは確信します。「おれにはわかる。もう探さなくていい。青い壜をみつけたんだ」

 物語はその後、他のトレジャー・ハンターに小壜を奪われ、ベックが取り戻すかたちになります。しかしながらベックには自分が望むことが何かを実感できず、願いそのものがわからなかったのです。彼が壜をかざしてまわすと中で星影が青くきらめきました。じっと見つめるその小壜なかの小宇宙は「これがおれの今まで欲してきたものなのか?なんて簡単なのだろう」と彼に思わせました。そして、壜の口から噴き出してきた風を大きく吸い込むと彼はかつてない心地よさに身を包まれ、幸福感に恍惚となり、そして、消えてゆきました。後には「青い壜」だけがぽとりと取り残されていたのです。
 
 自分では感じることのできない真実の願いを叶えてくれる青い壜の物語です。
 そんなものが本当に存在したらどうしますか?壜の口をあけてみますか?自分では気が付かない真実の、最後の願いを見たいと思うのなら栓を開けてみてください。ベックのように死んでしまうかもしれませんけど。
 でも、もし僕がその壜を見つけたとしたら、きっと僕には何も起こらないでしょう。だって、僕はベックのような「青い壜」を信じる純粋さを持ち合わせてはいないでしょうから。ちょうどベックが消えた後、彼を探しにやってきて小壜を拾ったクレイグのように「やっぱりバーボンじゃねぇか」という具合に。

 黒いカーニバル (伊藤典夫訳、早川書房、昭和47年初版)

 




 
 

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「狼の星座」と小日向白朗

 横山光輝の漫画に中国の馬賊を主題にした「狼の星座」という作品があります。1975~1977年に「週刊少年マガジン」(講談社)で連載された、清朝末期の中国を舞台に繰り広げられる「健作」の冒険譚です。
 この作品の単行本冒頭に以下のような著者の言葉があります。

 狼の星座 講談社 (講談社)

 「昔多くの日本人が満州へ渡り、馬賊となりました。中でも伊達準之助、小日向白朗は代表的な馬賊でしょう。『狼の星座』はそれら馬賊王の話をモデルとしています。この作品を描くにあたって、いまだご健在の小日向白朗氏ともお会いする機会に恵まれ、その波乱万丈の青春時代のお話をおうかがいすることもできました。(以下、略)」

 「狼の星座」は概ね小日向白朗の半生をモデルにしています。そのストーリー構成は朽木寒三の評伝小説「馬賊戦記」(番町書房、昭41)によっているようです。

 馬賊戦記  (番町書房、昭和47年刊)

 横山光輝の漫画中の主人公の名前は「健作」です。
 乳幼児の折に大病を患い生死の境を彷徨います。医者にも匙を投げられ、藁をもつかむ思いで行者の祈祷にすがり、その甲斐あってか偶然か回復しました。その際、行者から「よく言えば人の上に人立ち、悪く言えば大盗賊になる」と言われ、魔よけとして「6歳まで女の子」として育てるように申し付けられます。両親はその言葉に従い健作を6歳まで女の子として育てました。
 6歳を過ぎ少年にもどった健作は大正11年当時流行の福島安正「シベリア横断記」や満洲を舞台とした馬賊小説に憧れ中国に渡りたいと思うようになります。東京に丁稚に出て働いていましたがそれでは到底目途はたちません。そこで第一次世界大戦下の鉄不足に目をつけ屑鉄屋を開業し資金を蓄えました。
 中国へ渡った健作は知己であった陸軍の山部と再会し、その紹介で坂西大尉に面会し、後日、内蒙古、外蒙古探索の命をうけて旅立ちます。その途中で馬賊の捕虜となり、結果、馬賊の一員となって健作の馬賊としての波乱万丈の青春が始まります。

 このモデルとなった「小日向白朗」(本名を小日向健松、昭和57年1月5日没)ですが、「白朗」の名は中国道教の聖地である千山で授かった名前で、以後、日本名として使用しています。同時に中国名「尚旭東」も授かりました。
 明治33年(1900年)に新潟の三条市で生まれました。生まれた当時に体が弱かったことは事実のようで、羽黒山の行者の勧めで7歳になるまで女の子として育てられたようです。ところで、虚弱な男の乳児を女児として育てるというのはそれほど珍しいことではなく、女児の方が病気をしないという縁起担ぎと、羽目を外さないように育てるとの意味があったと言われています。
 白朗の屑鉄拾いの話も事実で、一足先に東京に出て鉄工所を営んでいた兄との協力でドラム缶の再利用で500万もの大金を手にしたとあります。
 17歳で単身で中国に渡り、帝国陸軍の諜報活動の一環としてモンゴルへ向かう途上、下窪(シャワァ)の馬賊に囚われ、楊青山の配下となります。雑役夫となった白朗は「馬番ではうだつが上がらない」と決死隊に志願し、城壁を飛び越え敵の真っただ中に飛び込み門を開けるという手柄を立て、一躍、包頭という班長に出世します。不運な事故により楊青山が死んだ後はその地位を継承し大攪把(頭領)となり下窪の馬賊を率い、民間のため山賊や流族、悪徳官僚と戦い、斬首寸前での刑場からの脱出、兇匪(凶悪犯)との一騎打ち(特に「小菊花」との戦いは民間芝居にもなりました)など数々の武勇伝とともに伝説を築き上げ、ついには全満州馬賊の総攪把となりました。

 陸軍の蒙古調査の命を受けた時、北京公使館はその身辺調査と両親の許諾を受けるために軍の人間を白朗の家に遣わし、母親に状況を説明したところ、母親は「仕方ありません。あのこにはどんなことでも好きなようにさせるように育てました」と二つ返事で応諾したそうです。後日談によれば母親は「モーコ入り」と「ムコ入り」を聞き違えていたとか。

 一歩間違えば「法螺話」に帰結しそうな奇想天外な物語ですが、これが事実に基づいているから事実は小説より奇なりです。「馬賊戦記」の著者もそこのところは踏まえていて、当時の中国情勢や国民性、馬賊の習性、道教との密接な関連などを駆使して説明はしています。しかし、それによっても俄かには信じがたい大冒険です。
 この小説の面白さは「小日向白朗」の冒険大活躍にあることは事実ですが、それを支えているのは巨漢勇猛な蒙古の馬賊の中で小柄な日本人がその強靭な現地の人間に勝る活躍をするところだと思います。また、当時の馬賊信仰と道教との関わりなどあまり表に出てこない実際の生活の様子が描かれていることにも興味をひかれます。

 馬賊戦記 白朗署名 (小日向白朗署名)

 「除暴安良 小白龍 義気千秋 尚旭東
  昭和葵丑清明 小日向白朗」
 
 著者、朽木寒三(本名・水口安典)さんは、大正14年に北海道で生まれました。東京農工大学在学中に軍に召集され、中国戦線に従軍したことから中国に関心を示し、馬賊に主眼を置いた小説を発表し文壇にその名を残しました。代表作は「馬賊戦記」「馬賊天鬼将軍伝」などです。我が家からさほど離れていない千葉県八千代市にお住まいになっていました。「朽木寒三」のペンネームの元は「口きかんぞ」の言葉遊びとか。
 朽木寒三さんはこの「馬賊戦記」のあとがきで「日本民族の猛烈なエネルギーを『小日向白朗』という一人の勇敢な青年の姿を典型としてとらえ、表現したいということにあった」と述べています。
 発刊当時、ある学校教師が「東京へ集団就職するこどもたちへの勇気の書」としてこの本を教え子全員に贈ったと言う書簡に示されるように、著者の目的は凡そ達せられたと思われます。
 「馬賊戦記」を手に取れば、自分の中にある力に失望するのはまだ早いと、眠っている勇気を奮い起こせるかもしれません。



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伊賀の影丸 … 僕の最初の一冊

 体調を崩したのと多忙のため更新ができずに日が経ってしまいました。なんとか体調も持ち直してきたので、少し僕の漫画始めの話をしようかと思います。

 僕の漫画好きはどこから、いつから始まったのかですが、これには明確なものがあります。自分で漫画本を買い、没頭するきっかけになったのは、小学4年の頃、埼玉療養から東京に帰ってきてからになります。それ以前にも少年雑誌など見てはいましたが、テレビアニメや特撮ヒーロー番組が中心であり、自分で雑誌や単行本を買うなどは全くありませんでした。
 僕の漫画の話題は少女漫画にシフトする傾向がありますが、最初から少女漫画に浸かっていたわけではなく、始まりはきちんと少年漫画にありました。
 記念すべき最初の1冊は、隅田川沿いにある白髭神社の縁日の夜店で10円で買った横山光輝の「伊賀の影丸」でした。これは1961年から1966年まで「週刊少年サンデー」に連載された少年忍者漫画です。黒装束に鎖帷子と言う忍者装束を僕の中に定着させた漫画でもあります。
 
 夜店の茣蓙の上に投げ出され広げられたあまたの古本から手にした1冊です。友達に連れていかれ、別に興味もなく拾い読みしていたのですが、数ページめくっただけで「影丸」の世界にはまりこんでしまいました。それから縁日の度ごとに「伊賀の影丸」を買い込み、ついで「カムイ外伝」、「火の鳥・未来編」など次第に広がって行きました。

 伊賀の影丸 (秋田書店)

 「伊賀の影丸 第1巻」は、承応2年(1653年)から始まります。
 影丸は1650年代、ちょうど徳川3代将軍家光が死去し4代将軍家綱(当時11歳)に変わった時代を舞台として活躍します。
 この当時はどういう時代背景にあったかと言いますと、徳川幕府の基盤構築時期にあり、強権な武断政治が推し進められていたと同時に、その転換期でもありました。
 幕府に対して反感を持つ大名や重鎮の粛清、藩の取り潰しが盛んに行われた結果、浪人が増加し、その不満から天皇を擁しての倒幕を企てた由井正雪の乱(慶安の変・1651年)や幕府老中暗殺を狙った承応の変(1652年)など江戸を震撼させる事件が続いた時期に当たります。

 由井正雪の乱は影丸の本編でも取り上げられていますし、数々の時代劇の中でエピソードとして、或いは、単独の映画として制作されてもいる有名な同時多発テロ事件でした。
 丸橋忠弥が江戸の町を焼討ちし江戸城にいる老中や旗本を討ち取り、京都では由井正雪、大坂で金井半兵衛が同時に暴動をおこし、その混乱に乗じて天皇を誘拐し倒幕の勅命を出させ、幕府の転覆を謀るものでした。が、奥村八左衛門の密告で計画は事前に露見し、正雪の自刃と言う形で頓挫しました。

 承応の変は、別木庄左衛門が、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門とともに増上寺で営まれる崇源院(徳川秀忠の妻)の第二十七回忌を機に、老中暗殺を計画したものです。しかし、仲間の1人が造反し松平信綱に密告したため、暗殺計画は未遂に終わり、加担した一味が捕らえられ処刑されました。幕府はこれを理由に当時著名な軍学者であった石橋源右衛門、老中阿部忠秋の重鎮であった山本兵部にも罪を負わせて粛清しています。

 相次ぐクーデター未遂事件の後、徳川幕府は武断政治の転換を迫られ、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心として政治改革がなされ、浪人対策や改易処分の緩和などを推進し、所謂、文治政治へと移行していくことになります。
 
 この武断政治を背景として地方大名などの偵察にあたっていたのが公儀隠密であり、忍者でした。まさに忍者が暗躍するに必然の理由がある相応しい時代であり、その中心が年若い天才少年忍者という設定は、まさに理想的であったと思います。史実の事件を巧みに織り交ぜて空想冒険譚を展開する横山光輝の手腕が遺憾なく発揮された名作です。
 「伊賀の影丸」以後、僕は横山光輝作品に傾倒し、「狼の星座」、「水滸伝」、「三国志」、「項羽と劉邦」などの中国を舞台とした漫画に嵌まり込み、次いで小説へと興味が移行しました。

 これが僕の自発的な漫画収集のきっかけとなり、さらには後年の(現在に至る)古書収集の萌芽であったのかもしれません。

 


 

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