薔薇は生きてる - 山川弥千枝 -

 先日、知人から少し早い誕生日プレゼントとして、山川弥千枝「薔薇は生きてる」(ヒマワリ社、昭和24年第三版)をいただきました(これに至った経緯については前振りがあるのですが、その話はまた後日)。

 この本は16歳で早逝した少女の遺稿集です。
 彼女は12歳の夏に発熱したのを最初に、それ以後は病気と切り離せない身となり、1933年3月31日に高熱のため開け広げた氷点下の病室で深夜に亡くなりました。享年16歳でした。
 収録内容は、彼女が8歳の頃の作文から16歳で逝去するまでの散文や詩歌、それから日記の断片となっています。そこに記されている感性の瑞々しさは今もって胸をつくものがあります。
 彼女が残したそれらの文は「火の鳥」(7巻6号、昭和8年)に初めて遺稿集として掲載され、昭和10年に沙羅書店から単行本として出版されました。その後、甲鳥書林(昭和14年)、ヒマワリ社(昭和22年)、四季社(昭和30年)、創樹社(昭和62年)、創英社(平成20年)と繰り返し刊行されてきました。

 薔薇は生きてる(甲鳥書林) (甲鳥書林、昭和14年) 創英社 平成20年 (創英社、平成20年


 「私は人形」(弥千枝、14歳)

 私は人形です。私の名はないのです。私のご主人は気の変わりやすい人で人形なんぞ何とも思ってないのです。私はママー人形とよばれてます。
 ある日のことでした。私のご主人は随分乱暴に洋服を着かえさしました。その時私の足はぽろりがたんととれてしまったのです。私はみにくい片輪になってしまいました。ご主人は「あら、足が取れちゃった。古い人形だからしょうがないわね。いやだわ」と言いました。別に気の毒とも思っていない様子です。私の顔は随分汚れてしまいました。人形は損です。
 

 「日記 1931年3月23日」(弥千枝、14歳)

 今日はいやな日。
 書きたくない日。
 寒い風が吹くいやな日。
 一日ぼんやりくらしました。
 御本の手帳をつくりました。
 今日はいやな子ですぎました。
 明日はよい子で過ぎましょう。


 「ひよけ」(弥千枝、15歳)

 中野の駅を下りて長い道を行くと大きな黒瓦のいかめしい家がある。
 その家は芝の上に檜木の植えてある土手が出来ていた。夏の事であった。其のいかめしい西洋館の東の一室に弱い女の子が寝ていた。
 女の子は五月からずっと今まで寝床の上に座れもしなかった。娘の母は、暑かろうとその赤と白の縞の日よけを作らせた。娘は日よけを非常によろこんだ、なぜならそれは暑い日が這入らないし、夏の真っ青な空に ― 娘には空がただ一つのなぐさみであった。 ― 赤と白のはっきりとした縞が、ひらひら見えるのは随分いい気もちでったから。
 道行く人は思った。「おや、あそこはきっと女の子の部屋だな、きれいな日よけだなあ」と。


 「日記 1933年3月1日」(弥千枝、16歳)

 「何か面白いことなあい」私は尋ねます。
 「何んか何んかすてきなことなあい」
 私はつまんなくてしようがないのです。
 今、私はこう飛び上がりたいのです。手をひろげて、思い切り息を吸い込んで、片方の足を強く踏んで、高く高く飛びたいのです。
 そしてこのつまんない心をどこかに捨てたいのです。
 でも私は飛べない。だから面白い話でもきいてつまんない心を捨てたいのです。
 「ねえ、お話してくださいな。面白い、たのしいおはなしをしてくださいな」
 私は言います。


 「歌」(抜粋)

 たのしいリズムが心に浮かんだ。鉛筆の芯でリズムにあわせくちびるをつつく。

 ものをじっと見つめていたい夜、いつもより電気があかるい。
 
 起きる力きっとあるのだ、肩を布団に強く押し付けて思う。

 ふんわりと柔いふとんの中に身をかがめたお姫さま、あのバラを見てるとそう思う。

 一日一日ばらの花は開いてゆく、うつくしいかげもばらについてゆく。

 暖かい日あたりで、母様と春の来たことをよろこんで話す。じんじんする、人の声がする、人がこっちを振り向いた、返事を待って見つめる。返事を待って見つめる人、私はあたまがじんじんする。

 薔薇は生きてる(ヒマワリ社) (ヒマワリ社、昭和24年


 昭和22年、ヒマワリ社から発行されたものの装丁は中原淳一が手がけています(現行の創英社版の表紙は中村佑介)。



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Kate Greenaway (3) - 19世紀末の挿絵 -

  KATE GREENAWAY(1846-1901)

 クレインのところで参考に挙げましたケイト・グリーナウェイ“ MELCOMB MANOR A Family Chronicle ”の「すべての挿絵を載せて欲しい」とか、「初期の絵を見たい」とのリクエストがありましたので、補足として「AUNT LOUISA'S NURSERY FAVOURITE」とを併せてご紹介しておきます。

 両方ともグリーナウェイの本では稀観本に含まれるものです。これらの本で見られる彼女の絵は、後年のものとは顕かに異なっています。「Under The Window」以後に慣れている人には違和感が感じられるかもしれません。
 特に「AUNT LOUISA'S NURSERY FAVOURITE」の中の「Diamonds and Toads」の挿絵、これは最初期の彼女の彩色挿絵となります。全体的に線も表情も硬く感じられ、むしろ後年にはないダイナミックさが際立っています。しかし、この時点ではまだ彼女独自の画風といったものは確立されていないように見受けられます。

 “ AUNT LOUISA'S NURSERY FAVOURITE ”(1870年)

 NURSERY FAVOURITE Diamonds and Toads 01
 (London Frederick Warne, 1870)

 「AUNT LOUISA'S NURSERY FAVOURITE 」には、「Dick Whittington」「 Lily Sweetbriar and Uncle's Farm Yard」など伝承物語や韻律詩(叙事詩)が収録されており、それぞれ異なる挿絵画家により全24枚のクロモリトグラフが入っています。グリーナウェイが手がけた「Diamonds and Toads」の挿絵は6枚です。いずれもサインは入っていません。

 Diamonds and Toads 02 Diamonds and Toads 03

 この「Diamonds and Toads」ですが出版後に非常に高い評価を得て、この翌年1871年に単独で絵本として発刊されています。写真は1875年頃の再版のものです。

 Diamonds and Toads 1875 (New York : McLoughlin Bros)


 “ MELCOMB MANOR A Family Chronicle ”(1875年)
 
 MELCOMB MANOR A Family Chronicle 00 Melcomb Manor 01
 (London. BelfastMarcus Ward & Co. Royal Ulster Works)

 「MELCOMB MANOR A Family Chronicle」はギフトブックとして非常に豪華な作りになっています。挿絵には金銀がふんだんに使われ、背景の金色の部分にはスクリプションが織り込まれています。

 Melcomb Manor 02 Melcomb Manor 03 

 「AUNT LOUISA'S NURSERY FAVOURITE 」の5年後の出版となるわけですが、この頃の絵には輪郭に柔らかさが出てきて、人物の所作にも優雅さが感じられるようになります。 

 Melcomb Manor 04 Melcomb Manor 05 Melcomb Manor 06

 僕の個人的な感想ですが「Under The Window」以後のグリーナウェイよりも「PUCK AND BLOSSOM」(Marcus Ward, London 1874)、同時期に出版された「CRUISE IN THE ACORN」(London: Marcus Ward ,1875)、「Fairy Gifts or a Wallet of Wonders」(Griffith and Farran, UK,1875)や、以前取り上げた「The Quiver of Love」(Marcus Ward, London,1876)などの頃の方が好きです。

 mother goose 1881 Mother Goose
  (London: George Routledge and Sons,1881)

 しかしながら、これらの絵を見ていると構図や人物の描き方などで、クレインが「私に似せた…」と揶揄したのも何となくわかる気がします。
 彼女は一時期、他者との差別化について悩み、絵が描けなくなったことがあります。そして、その結果、「Under The Window」に見られた画風をもっと極端に表現することを選択しました。それは当時において目新しさを提供しポピュラリティの獲得に大いに役立ちました。そして、今日においてもその人気は衰えず支持されているのも事実です。しかし、広まり過ぎたため食傷気味になる傾向があることもまた否めないと思います。

 もう少し体調が回復したら、その他のリクエストにも(全部は無理ですが一部でも)お応えできればと思っています。

 

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あめゆき ~ 鎌倉にて ~

 2012年1月20日 千葉。

 予定の時刻を過ぎても到着しないバスを僕はじっと待っていた。体にあたる雨は寒気に煽られて切っ先の鋭さを増すように感じられ、指先を凍らせる。手袋をはめてこなかったことを少しばかり後悔しながら、僕は手を握りしめ少しでも肌にあたる冷たさを遠ざけるようにしていた。明け方から降り始めた雨は正午過ぎには次第に霙混じりになり、一瞬だけ雪に変わった。この雪は長続きはしないな、そう思いながら携帯電話を開いて時間を確認した。時刻表の発着予定時間から既に15分が過ぎている。バスはまだ来ない。でも不思議に苛立つこともなく、ただ雨が雪に変わるのを見ていた。不図、以前にもこんなことがあったのを思い出した。
 
 198X年2月X日、鎌倉。

 僕は下車すべき錦糸町を遥かに通り過ぎて鎌倉にいた。その日も朝から雨が降り続いており、鎌倉駅前のロータリーでバスをぼんやりと待っていた。どこへ行こうとしていたのか、その目的地もバスの行く先も覚えてはいない。恐らく取り立てて行くべき当てのない、いつものことだったろう。
 とん、と後ろから肩を叩かれた。知り合いに会うはずもないと思い込んだ場所で、かつ、どこか後ろめたさを抱いている中でのその時の驚きを僕は文字で表現する術をもたない。ただ息がとまり動悸だけが鼓膜にまで響いていた。
 恐る恐る振り向けば、はらりと傘から滴が落ち、見覚えのある女の子が立っていた。その時の僕の表情はどのようなものであったか、自分では知りえない。緊張で強張っていたことだけは確かだと思う。彼女は「なに怖い顔しているよ」と笑った。
 一年前の5月の終わり頃、僕は学校を通り過ぎ夢遊病者の定型行動のように、やはり何度目かの鎌倉にいた。駅近くの喫茶店で遅すぎる朝食を摂り終わり会計をしようとした時のこと、レジ前で何やらマスターともめているような会話が聞こえてきた。どうやら財布を無くしたか、忘れてきたかした女の子が、飲食代金の代わりに生徒手帳を質草におこうとしているらしかった。僕は面倒に関わるつもりは毛頭なかったし、かと言ってそこへ割り込んで先に店を出るのも気が引けたし、その決着を見届けるという忍耐力もなかった。つまりはその代金を僕が払った。後からの返済など期待もしていなかったから立て替えたつもりはなかったのだけれど、連絡先を交換させられ、律儀な彼女は数日後、電話をよこし手作りのビスケットと共に返済をしてくれた。それ以来、ごくたまにではあるが鎌倉に来ると前もって予定を立てた時は彼女と歩くことがあった。しかしこの日ばかりは不意打ち、偶然であった。
 「下を向いてばかりいるから必要以上にびっくりするのよ。もっと周りをみていないとダメよ。人と会わないようにするには先ず人を見ていないとね。逃げるのにこそこそしていたのでは怪しまれるし、却って人目につくのと同じ。萎縮していたのでは、せっかく学校をさぼって遠足にきているのに楽しめないでしょう?」
 まったく彼女の言う通りかもしれない。自分の決断に後ろめたさを感じびくびくしていたのでは、ただの臆病な逃亡者だ。僕は逃げるために、いや、逃げ出してきてはいるのだが、自分らしい場所を求めてここ鎌倉にきているのだ。少なくとも自分のなかだけではそうありたかった。それから、僕はひとつの言葉を飲み込んだ。君はどうしてここにいるのかと。
 僕の戸惑いを意に介さないように彼女は自然すぎるほどの口調で僕に質問してきた。
 「どこまでいくの?」
 「別に決まってないけど。」
 「ふーん、それじゃ、稲村ケ崎まで行ってみない?」と彼女は言った。
 この雨の中を稲村ケ崎へ行って何があるのかとも思いはしたが、もとより目的など持たない僕には同じことだった。
 「江ノ電でいく?」と僕は聞くまでもないと思ったが一応、伺いを立ててみた。すると彼女は意外にもこう答えた。
 「いいえ、歩いて行きましょう。」
 僕の吃驚ぶりは先刻ほどではなかったが充分にうろたえていた。
 「雨が降っているのに?歩くの?」
 「雨が降っているから歩くのよ」と彼女はさも楽しそうに笑った。どうやら僕はその笑顔に逆らう意思を剥奪されていたらしい。彼女の言う通りに僕は歩きだした。
 しかし和田塚から長谷へと向かったところで彼女は急に気まぐれを起こし和賀江へ行ってみようと言い出した。それほど地理に詳しくない僕でも現在の進行方向から和賀江は正反対であり、天気が良ければまだしも、この冷たい雨の中ではとても歩いていくなどと言う気分の距離ではないことはわかった。
 反論はしなかった。
 踵を返すようにして由比から海岸通りを和賀江方面へ向かった。
 歩きながら彼女は僕にこんな話をしはじめた。
 「ねえ、鎌倉の地名の由来って知ってる?いろいろな説があるのだけど、地形説が一番もっともらしいかな。鎌倉の鎌は竈(かまど)を指していて、倉は谷を意味しているの。つまりね、前方を海にして、背後から囲むように山に守られている地形そのものから派生した地名ってこと。たぶんこれが本当なんだと思う。けどね、もうひとつ、神話によっているものがあってね。神武天皇が東夷征伐のために矢の雨を降らし、その矢にあたって夥しい人々が死んだの。その数は万を超えたと言われていて、その死体を集めた地を見て屍の山、屍蔵、鎌倉となったと言うの。あなたはどう思う?」
 僕は元来、神話など信じてはいないし、あんなものは尊皇主義が生んだ畏敬を強制するためのものだと確信し疑ってもいなかった。そして僕はそのままを彼女に伝えた。
 彼女は「あなたらしいね」と言い、特に怒るとか不愉快になるとかの素振りを見せずに話を続けた。
 「私は、神話説は後世の創作だと思うの。鎌倉幕府に反感を持つ人が作ったのか、それともここから始まった武家社会の戦国序曲への批判だったのか、それはわからないけれど、確かにそういった意味が込められていると思うし、事実、鎌倉幕府の成立には多くの戦争や冤罪、謀略か関わっている。鎌倉幕府以後も太平の世とはほど遠いくらいの死者をだしているでしょう。ここ鎌倉の地から日本の大量殺戮の歴史が始まったの。まさに鎌倉は死の竈だと思う。怨霊が跋扈し怪異が頻発していても少しも不思議じゃない。」
 海岸橋を渡り九品寺の郵便局を過ぎた辺りから雨は雪交じりになってきた。バスが僕たちの横を通り過ぎていく。僕は雨が降りかかる傘を持つ彼女の手が気にかかり、でも、それを尋ねることも出来ずに彼女の後をついて歩いた。
 光明寺の山門まで来ると何を思ってか彼女は寺の中へ入って行った。「講話は一時から始まります」と書いた張り紙のある社務所の前を過ぎ、本堂へと歩を向ける。本堂に着くと彼女は靴を脱いで階段をあがり、その廊下を右へ回って石庭の見える側へ向かった。欄干に手を置き彼女は静かに庭を見ていた。その時になって僕は雨が雪に変わっていたことに気づいた。
 彼女は僕の方を振り向き「ねえ、さっきの総門の左に千手院、右に蓮乗院っていうのがあるの。蓮乗院の門の手前には五輪の塔がたくさんあってね。無縁仏を供養しているのよ。室町時代のものもあるって言う話だわ。それからね、このお寺の向こう側に私がいた中学校があるのは知っているでしょう。その近くには光明寺の廟所があるの」と言った。
 僕はその言葉の後をどう引き継いで良いのかわからなかった。だから、「この雪は積もらないね」と全く違う話をした。
 ほんの少しの間をおいて、彼女は微笑みながら「ここでは雪はどんな降り方をしても積もって残ることはないわ。だから降っている間の自分を覚えておいてもらおうとしているのよ。雪は舞い降るその速さが美しいの。牡丹雪も粉雪もね。森々と、或いは、吹雪くように。」
 彼女はそれだけを言って黙った。

 そうして短い時間、光明寺に足を止めてから僕たちはここから目と鼻の先の和賀江へ向かった。
 降り出した雪は、和賀江に着く頃にはもう雨に戻っていた。



 
 
 
 
 
 
 

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最近、思うこと。

 ここ数日、体調を崩し絶不調です。
 かといって寝込むわけにもいきませんし、周囲に当たり散らすわけにもいかないですね。ましてや「つらい、つらい」と言いふらして憐憫を徴収しても意味のないことだし、みじめです。
 もともとそう丈夫なほうではないので「仕方ない」と諦めてみるのも自分らしいかな。

 挿絵の話題にひとまず区切りをつけて、次は鎌倉の話をしたいなと思っています(まとまった話にはなるはずもありませんが)。
 鎌倉は、僕にとっては非常に特別な場所です。高校時代のすべてと言えば大袈裟に過ぎますが、大部分は鎌倉にあると言ってもよいでしょう。
 小学校や中学校の時に鎌倉遠足というのがあったのですが、僕は非常に虚弱でして、一度も遠足に参加したことがありません。長い時間を乗り物の中で過ごすこともできなければ、一週間の学校生活を続けるのもままなりませんでした。
 低学年の頃は下校してくると自分で布団を敷いて寝ているのが普通の状態で、外で遊ぶなんて体調がかなり良くなければできませんでした。僕の両親が昔話で「お前は二〇歳まで生きられないと生まれたとき医者に言われた」と良く言います。それを考えれば成人式以降は余生みたいなものです。その余生で僕は自分の世界を作ってこられたわけですから幸せなのかもしれないです。
 
 そんなくだらないことを思い出しながら、最近、思うのです。
 ケリは自分でつけても良いのではないかと。
 体調が悪いと辛いです。病院にかかり投薬や治療を受けると少し楽になりますよね。でも、そこまでする意味があるのかな?と思う時があります。
 思ったこと、願っていること全てをできるはずはありません。自分のできることには限界があります。どんな生き方をしても「時間切れ」になってしまうのです。しかし、その限界、精一杯を僕は真摯に捉えてはいないですね。そこまで追い詰められてもいませんし、気迫も欠けています。
 生まれ落ちた始まりは自分の意志ではありません。まさに産み落とされたわけです。でも、終わりは自分で選択できるはずです。もちろん自殺願望ではありません。命を無駄にすることはありませんから。
 一端、もう治療は受けないと死ぬことに決めてしまえば、その限られた時間の中で自分の精一杯を真剣に考えることができるような気がします。如何に生きても死するは理。ならばエンディングは自分で演出してみたいものです。

 自分の命の物差しは自分で作り出す。このまま終わるのもわるくはない。

 そんな気がする今日この頃です。


 
 
 

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Charles Heath Robinson (2) - 20世紀初頭の挿絵 -

 <Charles Heath Robinson> (1870 - 1937)

 “ The Secret Garden ”(1911年)

 the secret garden 00 the secret garden 01
(William Heinemann, London, 1911)

 1911年にWilliam Heinemann社から刊行されたギフト・ブックには、オリジナルで保護用の箱がついていました。現在流通している「The Secret Garden」の古書は箱無しのものが多く、非常に珍しいかと思います。
 挿絵は口絵を含み8枚です。それぞれのカラープレートは台紙に貼り付けられ、その上にキャプション付きの保護紙がついています。

 the secret garden 02 the secret garden 03 

 「The Secret Garden」(秘密の花園)は、1909年に発行されたフランシス・ホジソン・バーネットの小説です。初版ではマリア・カーク(Maria Kirk)が挿絵を描いています。現在では児童書のように扱われていますが、発刊当時はハイティーンから大人を対象にしたものでした。

 the secret garden 04
 
 カークの初版の絵も色彩豊かで見事ですが、チャールズはカークの絵とはまったく違った、抑えた水彩を生かして繊細にメアリや2人の子供、そして風景を描いています。その全体的な柔らかさはチャールズがこの小説を読む大人たちに向けて、何度も試作を重ねて描き上げたものです。

 NY Stokes Illustration by Maria Kirk
 ( New York:Storks,1909)
 
 チャールズの手がけた本は子供向けが大多数です。「秘密の花園」とパーシー・ビッシュ・シェリの詩集「センシティブ・プラント」は、彼の作品の中で大人向けに描かれた珍しいものと言えます。
 彼のプロフィールを「センシティブ・プラント」の挿絵(カラープレートとドローイング)を差し挟みながらご紹介します。

 “ The Sensitive Plant ” (1911年)

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 (William Heinemann, London, 1911)

 チャールズ・ヒース・ロビンソンは、1870年にロンドンで生まれました。彼の父は木版画家であり、祖父は1800年代中頃に急速に伸びてきた雑誌・新聞紙市場において挿絵の彫版家としてその黎明を支えました。ロビンソン一家の美術的な血統は、兄トーマス、弟ウィリアムと引き継がれ、兄弟3人それぞれが一時代を担う活躍を見せました。

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 チャールズは父の工房を手伝いながらハイスクールへ通い、卒業後は石版印刷の工房へ7年の契約で徒弟として入りました。働きながら夜間の美術学校へ通学し絵画を学ぶことは認められていましたが工房での仕事は多忙極まり、思うように通うことはできなかったようです。そんな中においても彼はロイヤル・アカデミーへの推薦を受け、入学を認められました。が、家計の事情から通学が困難になり、以後はほぼ独学で美術を学ぶことになります。彼は父や祖父が彫った木版の原板を見ながら、デザインに関する知識を学ぼうとしました。そんな彼に慶兆が現れます。1890年代に入って印刷に革新的な技術が登場したのです。写真製版(フォトグラビュール)です。それは今までのように原画を彫版技師がトレースし複製するのではなく、画家が描いたものをそのまま製版することができたのです。チャールズはそのフォトグラビュールの挿絵からビアズリー、クレインなどの線の造形を学び取ることに専心しました。

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 1895年、25歳の時にジョン・レーンからスティーブンソンの詩集「A Child's Garden of Verses」(London: John Lane, The Bodley Head)の挿絵を描く仕事がチャールズに回ってきました。ジョンはチャールズに指示を与えることなく自由に描かせました。それは100カットに及ぶインクでのドローイングでしたが、シンプル、かつ、斬新な構図は出版業界の注目を集めました(この本は1900年に入ってから出版元を「London, Longmans Green & Co., 」に変えて再版されています)。この成功は1899年にはロビンソン兄弟による「 Andersen's Fairy Tales」(London: J.M. Dent, 1899)の出版へと結びつきます。

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 1900年代に入ってからはフォトグラビュール、オフセットと新印刷技術の登場により、ギフトブックや児童書を中心に出版業界は隆盛を極めます。この技術革新はチャールズに恩恵を与え、彼の描くソフトな曲線と繊細な色彩、穏やかな子供たちの絵は一世を風靡しました。彼は「 Lullaby Land 」(1897)、「 Sintram and His Companions」 (1900),「Alice's Adventures in Wonderland 」(1907)、「 Grimm's Fairy Tales」 (1910)、「The Secret Garden 」(1911)と次々に豪華なギフトブックの装丁や挿絵を手掛けるようになりました。
 
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 生前の彼は倹約家で控えめな性格だったようです。彼はその収入を家族や兄弟姉妹の生活費に充て、彼自身は非常に質素な生活を送りました。そして多くの本が多色刷の絵から写真へと移り変わる中、彼の本に対する姿勢は大戦後も変わらず、写真ではなく絵画中心の、いわゆる「黄金時代の挿絵」を貫き通しました。
 家族や友人に愛されたチャールズは1937年、突然世を去ります。一説によれば心不全とも言われていますが、はっきりわかりません。享年66歳でした。

 sensitive plant 14

 作家を紹介し足りない部分はありますが、これで挿絵の話は一応終わりにしておきます。仕事の整理のためにメモ代わりに始めたものが随分と長くなってしまいました。お付き合いいただきました方々に感謝申し上げるとともに、ご期待に応えられる内容ではなかったことを深くお詫び申し上げます。挿絵については、また気が向いた時に取り上げたいと思っています。
 

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Charles Heath Robinson (1) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Charles Heath Robinson (1870 - 1937)

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 何事にも始まりと言うものがあります。
 僕の古書は洋書だけでも現在1000冊を優に超え、家中の邪魔者(特に僕の寝室と書斎を中心に)になっています。しかし、この邪魔者たちは、ある日突然に庭から発掘されたわけでも、異次元から湧き出したわけでもありません。僕が洋書にはまりこんだ理由が必然的にあるわけです。その話をしましょう。
 27歳の時にチェコ、ハンガリー、ベルギー、イギリスと3週間ほどかけて仕事で周りました。その最後の都市、ロンドンでの仕事帰りに通りがかった古書店の店先に、一枚のドローイングが飾られていました。鉛筆描きの地味な秋の妖精の絵。当然、当時は“Charles Heath Robinson”と言う名前は知りませんし、ケント紙の隅に書かれた擦れた文字など読みもしません。 ちょっと立ち止まって見はしましたが、その時の印象は「変わった絵だな」の一言でした。翌日の帰り(すでに夜)も同じ道を通りまして、明るく照らし出されたそのウィンドウの中にある絵を再度眺め入りました。と、急に「この絵、いいかも?」という感情が沸き起こり、古書店の扉を押して中に入りました。
 「すみません、外にある妖精のドローイングがほしいのですが」と中にいた青年に声をかけました。彼は鍵をもってきてウィンドウを開け絵を取り出しました。そして、僕の正面に絵をかざして話しかけてきました。
 「あなたはこの絵が誰のものだか知っていますか?」
 「いいえ、知りません。」
 「これはチャールズ・ヒース・ロビンソンといって20世紀初頭に活躍した挿絵画家のものです。チャールズの名を聞いたことは?」
 「まったくないです。チャップリンなら知っていますけど。」
 彼はきっとくだらない冗談が嫌いな性質だったのでしょう。眉をひそめて語気を強めながら会話を進めました。
 「センシティブ・プラントや秘密の花園の挿絵を見たことはないのですか?」
 「誰のですか?」
 「チャールズのです。」
 「たぶん、見たことはないと思います。」
 彼は呆れたようにため息をつくと、力を込めてさらに話します。
 「彼の弟はウィリアム・ヒース・ロビンソンです。多くの名作を作り出しました。ウィリアムならわかるでしょう?非常に有名ですから。」
 「ごめんなさい、まったく知りません。そんなに有名なんですか?」
 彼は両手を軽く天に向かって広げた後、僕に向かって「あなたはチャールズもウィリアムも知らない。それでもあなたはこの絵を買うのですか?」と詰問してきました。
 「ええ、できれば。」
 青年はしばらく黙りこんで絵を自分の方に向けて見つめていました。
 「あなたがいつか挿絵に興味をもった時に、この絵の価値がわかります。私はその日が一日も早く来るよう神に祈っておきます。」
 (あはは、それはお世話様です。お心遣いに感謝します…)と僕は胸中で呟きました。
 と、まあ、こんな経緯でドローイングを手に入れたわけです。決して安い買い物ではありませんでしたが、僕が過去に購入した品物のなかで満足の行くものの一つです。これを契機に挿絵本に興味をもち、陶磁器や音楽以外に、新たに収集品目を増やすことになりました。

 “ CHILD'S GARDEN OF VERSES ”
 Childs garden of verses 00 Childs garden of verses 01 
 (John Lane the Bodley Head, 1899)


 チャールズの経歴は後にして2冊の本を先にご紹介します。


 “ THE HAPPY PRINCE And Other Stories ”(1913年)

 The Happy Prince 00 The Happy Prince 01 The Happy Prince 02
 (DUCKWORTH & CO., COVENT GARDEN, LONDON)

 「THE HAPPY PRINCE 」は、オスカー・ワイルドの創作童話です。初版は1888年。チャールズが挿絵を施したNew Editinが発行されたのは1913年です。新版の初版には“ New Edition, reset. With illustration by Charles Robinson, published by arrengement with David Nutt by Duckyworth & Co.,1913 ”と扉裏に記載されています。
 収録されているのは「幸福の王子」のほか、「ナイチンゲールとバラの花」「わがままな大男」「忠実な友達」「すばらしいロケット」です。ワイルドには「若い王」「王女の誕生日」「漁師と魂」「星の子」と言う童話もありますがここには収録されてはいません。

 The Happy Prince 03

 オスカー・ワイルドと言えば「サロメ」「ドリアン・グレイの肖像」「スフインクス」などが有名ですが、児童文学作家としても名作を残しています。
 「幸福の王子」はその代表でしょう。
 2006年に曽野綾子さんが建石修志さんの挿絵で新訳版を出しています。そのあとがきで「どの作家にも、この一作を書き終えたら死んでもいい、と思う作品があるはずである。もし私が、オスカー・ワイルドなら『幸福の王子』はその作品だ。もっともいい加減な作家ほど、生涯にこの作品を完成させたら死んでもいいと思う小説が、四編も五編もできるという甘さがあるし、私はオスカー・ワイルドの研究家ではないので、何も言い切ることはできないが、この作品は世界の文学史のなかできらりと光る頂点に立つ短編であることは間違いない」と書いています。
 
 The Happy Prince 04

 僕にはそこまでの評価が「幸福の王子」にあるかどうかはわかりません。「わがままな大男」も好きですし、ちょっとダークですが「王女の誕生日」も面白いと思います。
 もし「サロメ」以外に知らない方がいましたら、ぜひ、読んでみてください。新潮文庫「幸福な王子」にはワイルドの9編の創作童話すべてが収められています。翻訳で意味が少し伝わりにくいところもありますけれどお手軽です。

 The Happy Prince 05 The Happy Prince 06


 “ The CHILDREN'S GARLAND of VERSE ”(1921年)

 Childrens Garland 00 Childrens Garland 01
 (1921 LONDON AND TORONT J.M.DENT & SONS LTD NEW YORK:E.P.DUTTON & CO,)

 「The CHILDREN'S GARLAND of VERSE 」(子供たちの花輪)と題されたこの本はグレイス・リースの韻律詩集です。グレイス・リースと言っても馴染みがない人も多いと思いますので簡単に説明をします。

 グレイス・リースは1865年にアイルランドに生まれました。彼女の父親は資産家でしたがギャンブル好きが高じて破産し、彼女は妹とともにロンドンに渡ります。ウィリアム・バトラー・イェイツの園遊会に招かれ、そこでアーネスト・パーシバル・リースと出会い、1891年に結婚しました。
 グレイスは非常に高い教養を備えており、執筆活動に力を入れました。彼女の最初の小説「メアリー・ドミニク」は、1898年に発表され、その後もエッセイや短編集などを出版し、それらは批評家の間で一風変わった面白い作品として好評価を得ていました。しかし1929年、彼女は夫とのアメリカの講義旅行の同行中にワシントンD.C.で死去しました。
 グレイスは自分の子供たち(息子と2人の娘)のために作った詩と優れた韻律詩とをまとめた本を出版しました。それが「The CHILDREN'S GARLAND of VERSE 」です。
 
 Childrens Garland 02 Childrens Garland 03

 「愛しい小川に その素足を踏み入れることを恐れないで
 ヒルや、イモリや、ヒキガルのことを考えないで
 考えれば彼らは足を噛むでしょう
 激しい流れはあなたを悲しませたり、泣かせたりはしません
 私とともに生きていると感じてください
 波は木を悩ませたりはしないのです」(川の神の歌)

 次はチャールズの代表作である「センシティブ・プラント」と「秘密の花園」を取り上げたいと思います。 

 



 

 

 

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THE SWISS FAMILY ROBINSON (Thomas Heath Robinson) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Thomas Heath Robinson (1869 - 1953)

 “ AN INVENTOR AND HIS WIFE TRYING OUT A ROBOT ”
 AN INVENTOR AND HIS WIFE TRYING OUT A ROBOT (1927年、インク)
 
 “ The Swiss Family Robinson ” (1920年頃)
 THE SWISS FAMILY ROBINSON 00 THE SWISS FAMILY ROBINSON 01
 (HUMPHERY ・ MILFORD OXFORD UNIVERSITY PRESS ・ LONDON)

 「THE SWISS FAMILY ROBINSON」は、1812年に「Der Schweizerische Robinson」(スイスのロビンソン)として出版されたスイスの牧師ヨハン・ダビット・ウィースによる児童文学作品です。漂流冒険物語であるダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー漂流記」を元にしていると言われています。
 初版の発刊当初は4部構成の上下巻でしたが、今日では読みやすく再話が施され「THE SWISS FAMILY ROBINSON」と改題して出版されています。
 冒険をもとにして、様々な自然現象や動物などが登場する物語は人気を博し、映画やテレビドラマなどにもなっています。日本では1981年に「家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ」(日本アニメーション制作)としてアニメ化もされました。ただし、アニメでは主役フローネ(原作では男の子の兄弟のみ)など原作の設定を大きく変更し、完全な原作のアニメ化ではなく原案にとどまっています。しかし、かえってそれが子供にはわかりやすく好評だったようです。

 THE SWISS FAMILY ROBINSON 03 THE SWISS FAMILY ROBINSON 04
 
 トーマス・ヒース・ロビンソンは、1869年6月19日、6人兄弟の長男として生まれました(先日、取り上げましたウィリアム・H・ロビンソンは彼の弟にあたります)。
 彼は、イズリングトン芸術学校で絵画を学びました。画家としての彼の最初の仕事は、1893年のポール・モール・ガゼットのためのイラストでした。その後、1895年に「Old World Japan」の挿絵(14枚のフルページの挿絵と20体の兜の図)を手掛けました。これが彼の本としては初めての出版となります。これは好評を得て、彼は、カッセル・ファミリーーマガジン、 ジ・アイルダー、 ポール・モール・マガジン、ザ・ストランドなどから次々と仕事を獲得します。彼の挿絵画家としての出だしは上々のものでした。1897年の「A Church Magazine for Children」では、弟のチャールズと共作をしています。
 彼は非常に器用な画家であり、水彩、油彩、ペンを問わず、また描く対象も、風景、人物、機械、構造物までオールラウンドにこなしました。

 THE SWISS FAMILY ROBINSON 05 THE SWISS FAMILY ROBINSON 06

 トーマスは、1901年にエディス・エマ・バーネットと結婚します。1906年に、彼は妻と4人の娘を連れてハムステッドからピナー(ミドルセックス)へ移り、彼らは弟のウィリアムの家族と共に過ごしました。
 しかし、それまで順調だったトーマスの仕事は第一次世界大戦の間に激減します。1920年から一家は住まいを転々とすることになりました。 彼は以後も、Collins社、 Cassell社、 Hutchinsons社、 Warne社のいくつかの本の挿絵を製作しましたが、それらの仕事の多くは子供たちの年鑑のための挿絵でした。
 1926年に彼ら一家はピナーに戻り、1940年に妻エディスが死去するまでそこでくらします。妻の死後、彼はセント・アイヴス(コーンウォール)へ移り、そこを終の地とし、1953年、84歳で世を去りました。

 THE SWISS FAMILY ROBINSON 07

 トーマスは普通の画家としての技量は達者な方でした。けれども挿絵画家としては二人の弟に比べ決定的に劣っているものがありました。彼とチャールズ、ウィリアムとの差を指摘するなら、それは装飾とデザインに対する才能だったと言えます。絵の巧拙だけを比すならばトーマスの方が二人よりも上だったでしょう。けれども本の評価は絵の上手い下手のみではなくその意外性や構図の取り方、書籍本体の装丁、頁割り、カットなど総合的なものが求められ、頁の間に単なるきれいな絵画を挟み込む挿絵だけを見せる時代は、とうの昔に過ぎていたのです。

 A CHILD'S BOOK OF SAINTS 00 “ A CHILD'S BOOK OF SAINTS ” 
  (WILLIAM CANTON, LONDON: J M DENT & CO, 1898)

 

 

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ジャンル : 日記

“ Bill The Minder ”(William Heath Robinson) - 20世紀初頭の挿絵 -

  William Heath Robinson (1872 - 1944)

 The poems of Edgar Allan Poe 1900 “The poems of Edgar Allan Poe”
 (London, George Bell & Sons; New York, The Macmillan Co,1900)

 ウィリアム・ヒース・ロビンソンは1872年5月31日、ロンドンに生まれました。
 彼の父は木版画家であり、2人の兄(トーマスとチャールズ)も挿絵画家という芸術一家に育ちました。
 最初、彼は風景画家になることを志しイズリングトン芸術学校で3年の間勉強した後、1887年からロイヤル・アカデミーに移りました。挿絵画家として早くから活躍していた2人の兄とは異なり、彼の絵は全体的に未熟で硬さが目立ち、流麗さに欠けたところがありました。しかし、彼は周囲の酷評にも挫けることなく、小さな挿絵の仕事でも積極的に取り組み続け、その結果、漫画チックなコミカルな画風を身に着けるとともに、画力も向上し、1899年にはセルバンテスの「Don Quixote」、続いて「The Arabian Nights」の挿絵を手掛けました。これによってウィリアムは周囲に認められ、1900年に「The poems of Edgar Allan Poe」、1902年には彼のオリジナル「The Adventures of Uncle Lubin」を出版し、以後も「Bill The Minder」を手掛け、子供向けの作家としても好評価を受けます。

 “MIDSUMMER NIGHT'S DREAM”
 MIDSUMMER NIGHTS DREAM 00 MIDSUMMER NIGHTS DREAM 02 MIDSUMMER NIGHTS DREAM 01
 (Constable and Company Limited, London, 1914)
 
 彼は「Hans Andersen's Fairy Tales」(1913年)、「MIDSUMMER NIGHT'S DREAM 」(1914年)などに見られるような優しさに溢れるユーモラスな絵を特徴としましたが、その反面で器械や工場の様なメカニカルなものも得意としていました。第一次世界大戦中には戦場や戦闘機などの漫画も描いています。そのために彼は画家ではなく、単なる大衆漫画家として認知されることになりました。第2次世界大戦中には彼の描く兵器のことでナチスから目をつけられました。そういった当時の評価は彼にとっては不本意であり、苦渋に満ちた晩年を過ごすことになります。

 “ PEACOCK PIE ”(Henry Holt and Co., New York 1924)
 PEACOCK PIE 00 PEACOCK PIE 01
 (「PEACOCK PIE」は、ウォルター・デ・ラ・メールの詩に挿絵を施したもの。初版は、「London: Constable & Co Ltd., 1916」です。カラープレートは口絵の1枚のみ、他は白黒のドローイング。)

 “ Bill The Minder ” (1912年) 
 BILL THE MINDER 00 BILL THE MINDER 01
 (London: Constable & Co., 1912)

 ウィリアムは、兄のチャールズの影響を随分受けています。ウィリアム・モリス、ウォルター・クレインなどは直接にと言うよりも間接的に兄を通して絵に反映されたとも言えます。また彼はアルフォンス・マリア・ミュシャなどのフランス的なアール・ヌーヴォーにも非常に興味を持っていたようです。
 ウィリアムは、絵に登場する人物や物などモチーフが持つ背景や性格を重視し、そのディテールを表現するため必要な鑑識眼に優れ、ただ描き入れるのではなく、無生物にも性格をもたせ生き生きとユーモアに富んだ表現をして周囲を驚かせました。

 BILL THE MINDER 02 BILL THE MINDER 03

 ウィリアムは特別に絵が上手かったわけではありません。そんな彼を一言で表すのであれば「努力の画家」でしょう。
 ひと月に40枚以上の挿絵を描き続け、周囲の低評価に耐え、苦心の末に独自の世界を創り上げた、そうした彼の努力は、E.H.シェパード、ルーシー・アトウェルなどにも影響を与えるまでになります。

 BILL THE MINDER 04 BILL THE MINDER 05 BILL THE MINDER 06

 「挿絵はこどもに夢を与え、楽しませるものなんだよ。絵を見て幸福な気持ちになれなくてはいけない」と語っていたウィリアムは、1944年9月13日、検査のために入院していた病院で急逝しました。

 BILL THE MINDER 07




 

 
 

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ジャンル : 日記

新年、明けましておめでとうございます。

 今回は「20世紀初頭の挿絵」とは全然関係のない、僕の「断片」の話です。次回からはまた挿絵について再開します。

 大掃除をしたわけではありませんが、大晦日に机の下からMS-DOSのフロッピー・ディスクなどという懐かしいものを発見しました。ラベルは鉛筆書きのため擦れて褪せており、乱雑な字で「×××のプロッ×、案(1)別紙×り」とだけしか読めなくなっていました。どんな内容なのかすぐに見たかったのですが僕のPCにはフロッピー・ディスク・ドライブがありません。そこで今日、仕事はじめの打ち合わせをした出版社のディスク・リーダーに入れて確認してみました。そしたら、どうやら学生時代に同人誌のために書いたもののようです。ふた昔、いや、さん昔くらい経過していますね。文体は今とそう変わってはいないようですが、展開が唐突で、出てくる器械もPCではなくワープロだったり、ほおずきなどの値段もずっと安いです。思わず笑ってしまうような内容でしたが、今更に見つけたのも何かの縁かもしれませんので、ブログにでも載せてみようかと思った次第です。
 転記しながら「書き直そうか」とも思いましたが、そのままにしておくことにしました。
 話は終わっていません。当時の僕がプロットに肉づけをしてみたものの途中で「落ち」を見失ったのか、これを書くのに飽きたのか、後で書くつもりだったのかわかりません。でも、「案(1)」としたままのところから察するに放り出した感が強いですね。第四章(?)は小タイトルだけで何も書かれていません(因みに全体の題名もありません)。「この後をどうするつもりだったのかな?」と、あの頃の自分に尋ねてみたくもなりますね。以下がその内容です。
 
 (一) 掌
     
 君は、店の人の目を盗んで摘み取ったほおずきの実を口に入れて「苦いね」と笑った。それはいつもの君ではなく、シネマスクリーンに映し出されている誰かのようで、見知らぬ人のその笑顔は僕を戸惑わせた。 
 僕は目をそらすように周囲を見渡す。それにしても、ほおずき市なんて何年振りだろうか。かつては毎年のように来ていたものだが、今の職についてからは足が遠のいていた。今日がその日であることも彼女の口から聞くまで知らずにいたのだ。
 朝顔市、ほおずき市、酉の市、富岡八幡や地蔵坂の縁日、どれも懐かしい。子供の頃には、これらを理由にすれば夜でも大手を振って出かけられた。思えば、夜の街に誘われだしたのはそれが原因だったのだろう。
 しかし、四万六千日のご利益を謳うほおずき市は、こんなにも出店が少なかっただろうか?以前はもっと出店が多かったような気がする。人の賑わいもこんなものではなかったという記憶がある。とはいえ、そんな気がするだけで確信は無いけれど。 
 君はと言えば、一列に吊り下げられた風鈴を指で弾いている。
 「ほおずきが欲しいなら一鉢買おうか?2000円を1500円にまけてくれるって言ってたし。」
 「ううん、いらない。だってアパート暮らしでは枯らしてしまうもの。」
 そう言ったあと君は小走りに人と人の隙間を縫ったかと思うと、カルメ焼の屋台の前で立ち止まった。
 僕は君の後を追う。
 君は屋台の親父さんの手元を覗き込みながら独り言のように呟く。
 「カルメ焼って簡単そうだけど、結構テクニックがいるのよ。うまく冷やせないと萎んじゃうの。」
 君は並んでいるこどもの肩越しから何を見ていたのだろう。君には僕の言葉は届かない、その時はそう思った。君の無邪気さはどこかに陰残な香りを忍ばせた殺風景な子供部屋のようだ。
 「この欠けたの1個頂戴」と、君はいつもの通りによく通る声で100円を掌に乗せて屋台の親父に差しだした。
 そして、割れたカルメ焼を1個買い、僕に大きいほうの半分をくれた。
 「小さいほうでいいよ」と僕が返そうとすると、君は手のひらにもう半分の欠片を並べて言った。
 「いいの。私、すこし食べたいだけだから。小さいほうが私でいいのよ。」
 閑散として見えたほおずき市も出店の電球が点灯するにつれ、夕闇が降りるのと重なるように次第に賑わいを増し、思うように並んで歩けないほどになってきた。ふと振り返ると君が人混みに遮られてぽつんと立っていた。
 繋いだ手が離れたのか、それとも、初めから繋いでいなかったのか、僕は曖昧な感触を残す掌をゆっくりと握って開いた。君は進む気がないようにも見え、また、人の多さに気遅れし途方に暮れているようにも見えた。そう見えたのは点り始めた夜店の不思議な明るさのせいだったろうか。
 僕は思うように流れを遡れず、君を迎えに行くことができない。仕方なしに道脇に避けて君が来るのを待った。
 ようやく追いついてきた君に僕はひと言謝った。
 すると君はいつもよりも穏やかな微笑をうかべて「はぐれた時って探すのと、諦めるのとどちらがいいのかしら?」と言った。
 「はぐれたら探すに決まってるよ。」
 僕が少し不機嫌そうに答えると、君はまた微笑んで言葉を繋げた。
 「風鈴だけ買ってくるね。」
 人波を避けるように人形焼きの屋台の後ろを回って、もとのほおずきの出店に戻って行く君の後姿。
 (はぐれたら探すに決まってる)と僕は胸の内で繰り返した。
 僕には君が何を言いたかったのかさっぱりわからなかった。

 (二) ほおずき
      
 私はこっそりと橙色のその実を摘み取った。
 ほおずきは、その内側に別の宇宙を持っている気がする。細かな網目状の萼の名残に包まれた火灯色の実。頬の紅色からその名がついたと言う。そう言われれば赤ん坊の頬の色にも似ている気がする。房を開きその実を取って口に含んでみた。ビー玉のように転がる冷たい感触と独特の苦みが口腔に拡がる。
 「苦いね。」
 私がそう言うと貴方は「そんなの食べる人はいない」と言いたげにちょっぴり呆れたように笑った。
 「ほおずきを買ってかえろうか?1500円でいいっておじさんが言ってたよ。」
 「ううん、いらない。アパートでは地植えできないから枯らしてしまうもの。」
 そう、きっと枯らしてしまう。世話を充分にみてあげることもできずに枯らしてしまうから。
 いつだったか朝顔の鉢植えもそうだったもの。毎朝夕、コップ一杯の水を上げていたのに蕾を持ったまま枯れてしまった。地面から切り離された植物はそれだけで生きてゆくのが難しくなる。たぶん、貴方にはそれがわからない。
 カルメ焼きの屋台を見つけた。
 小さなお玉の中で鼈甲色になった砂糖水がぐつぐつしている。実演はいつ見ても面白い。重曹卵を加えて膨らんだら、さっと冷たい濡れ布巾の上で冷やしてできあがり。簡単そうに見えるのだけれど結構難しい。氷砂糖の冷たさとは違って、カルメ焼きは温かい。私はその温もりを感じさせる口当たりの少し重い甘さが好きだった。
 「重曹卵を混ぜ合わせて冷やすタイミングが難しいのよ。私もチャレンジしたことあるけど失敗ばかりだったの。」
 「自分ちでも作れるんだ?」
 「材料はどこにでもあるもの。」
 綺麗な完成品は1個100円、壊れたのは1個70円。私の前にいた小さな姉妹は形よく焼けた2個入りのを1袋買って帰って行った。
 「おじさん、このこわれを1つ頂戴。」
 私は割れたカルメ焼きを1個買い、彼には大きい欠片のほうをあげた。
 観音様へのお参りを済ませた後、人ごみで貴方を一瞬見失った。私は必死に姿を追い、人々の切れ間にやっと貴方を見つけた。ほんの数メートル先のことなのに私には計り知れない距離のように思えた。
 人の流れが緩やかになっている道端で貴方は待っていた。私が傍によると小さく「ごめん」と言った。
 私たちはまた歩き始めた。今度は軽く手を繋ぐようにして。
 「どちらかが先に行こうとして、もう片方が歩みを止めるから、きっとはぐれるのよね。」
 私がそう言うと貴方は怪訝な顔をした。その表情は私が「ほおずき市に行きたいな」とせがんだ時と同じ。
 貴方は知らない。今日、私が誘った理由を。
 「ねえ、風鈴だけ欲しい。」
 そう言ったら貴方は何て答えるかしら?
 たぶん、「風鈴なんてここでなくてもどこでも買えるよ」って言うわね。
 風鈴だけではなく、ほおずきも、釣り忍も、何もかもここじゃなくても買えるのよ。でも、ここで買うことに意味があるってわかってる?貴方にはそんな簡単な思いが欠けている。

(三)逃げ水
 
 風がひと吹き頬を撫でる。その風に連れられ、どこかから鋭利な、短い悲鳴のような音がした。
 耳鳴りなのか、蝉の声なのか、どちらともと判断がつかない音がずっと鳴っている。
 (またあの音がする。)
 もう音の先を探す気力もない。
 僕はただ横たわっている。
 (ここは、僕の部屋なのか?)
 輪郭のつかめない意識と現実味を無くした天井とがそこにあった。
 だらしなく体側に放り出された掌を掴むものがある。
 (指。)
 冷やりとした柔らかな感触がそれを伝えた。しかし、既に僕には握り返すことも拒否する力も無くなっている。
 そして「あれから何日経ったのだろうか」と朦朧とした頭で重い記憶を辿った。
 
 「・・・君、・・・君、聞こえているのか?」
 強い口調に感覚を呼び覚まされた。
 「しっかりしてくれよ。残された君がそんなでは彼女も安心できないだろうが。気持ちは察するが仕事は仕事。出てきている以上、きっちり仕上げてくれよな。」
 部長代理が僕の肩をひとつ強く叩き、笑った。肩でじんとした鈍い痛みが後を引いた。
 僕はゆっくりと自分のデスクに戻り、セットされているワープロの電源を入れる。
 同僚が声をかけてきた。
 「お前、寝てないんじゃないのか?目の下にひどい隈ができてるぞ。眠れないないなら、今夜ひとつどうだ?気晴らしにはなるだろう?」
 と手でグラスを挙げる真似をした。
 「いや、やめておくよ。」
 僕はたぶんそう答えた。答えたような気がする。しかし、それは自分の頭の中に浮かんだ文字だけだったのかもしれない。
 だが結果として僕は行かないだろう。それは確信できた。
 (眠れていない?僕が?)
 器械が起ち上がるのを待つ。ロゴが表示されたディスプレイに、そう大していつもと変わり映えのしない自分の顔が映っている。
 (目に隈ができているって?どこがだ?)
 確かに身体的には疲れていた。いや、疲れているような感覚はある。
 今の自分を譬えるならば、床に落ちたゼリーと言う形容が相応しい。元の形を失い、半透明で所在をなくした感じがそっくりだと思う。
 (物憂い。)
 自分の声なのか?外から聞こえたような気もする。だが、恐らく空耳。
 僕はキー操作をしながら螺旋の迷路に入り込む。
 あれが事故だったのか、そうでなかったのかはわからない。残った事実は君が地下鉄で電車に巻き込まれたと言うこと。それだけだった。
 ホームで君は貧血でも起こしたかのように崩れ、走ってくる電車の前に倒れたらしい。帰宅ラッシュ直前の午後5時のことだった。
 数百人、いや、数千人にも及ぶ無関係な人々が路線図上に足止めされた。君の一瞬が彼らの足を止めたのだ。
 僕に真実など判ろうはずもない。その一報に触れた時、ただ脳が弛緩した。
 
 仕事をする気も起きず、早々に職場を後にした。
 暑い。したたる汗が首筋から胸元へ流れ込む。
 見ているものすべてが対流する水の中で揺らいでいるように思えた。
 土曜の午後2時、アスファルトに逃げ水が浮かぶ。存在しない水溜りに映り込む景色は現実のものなのだろうか。揺らぐ陽炎を僕は凝視する。
 不意に目の前に鳩が舞い降りた。しかし、それも逃げ水。
 僕は汗を拭った。
 耳の近くで鋭利な、短い悲鳴のような音が鳴った。
 まただ、あの音がする。どこだ?僕は耳を澄ませ立ち止まる。
 瞬間、交差点の「通りゃんせ」が僕の意識を切断した。

(四) 風韻

 
 お世話になっている編集の岸田氏が気を使って「リライトしてみたらどうですか?」とお世辞で言ってくれましたが、今となってはどうする気も起きないので「そのうちに」と応えてみました。
 「案(1)」から「案(2)」になれなかった、意味のない昔の断片の話でした。


  

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全く役に立たない独り言です。

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