“ Fairy Tales ”(Kay Nielsen) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Kay Nielsen (1886 - 1957)

 EAST OF THE SUN AND WEST OF THE MOON 1914 (水彩、1914年)
 “ East of The Sun and West of The Moon ” 

 カイ・ニールセンは1886年3月12日にデンマークのコペンハーゲンで生まれました。
 彼の父(Martinius Nielsen)は古典劇の俳優を経てロイヤル・デンマーク劇場の演出家を務めました。また母(Oda Larssen)は女優であり、歌唱にも優れていました。そういった関係で彼の家には、作家のビョルンスティエルネ・ビョルンセンやヘンリック・イプセン、音楽家のエドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ などが始終出入りし芸術論を闘わせたり、劇の打ち合わせなどをしていました。
 カイはこうした環境の中で舞台美術、絵画に惹かれ18歳になった頃、パリへ渡りモンパルナス・スークールで美術を専攻します。そこで彼は、オーブリー・ビアズリーの無彩色による表現と葛飾北斎、安藤広重などの日本絵画に出会い、啓蒙を受けます。そのデフォルメの芸術は彼の終生にわたる芸術的傾向を決定づけることになりました。それから忘れてはならないのが、その頃、パリで流行していたロシア・バレエです。優美なその動きはカイの描く鋭い線によって画面に取り入れられて行きました。

 “ In Powder and Crinoline ”
 In Powder and Crinoline 00 In Powder and Crinoline 01
 (Hodder and Stoughton,London 1913)

 1904年からアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシで学んだ後、1911年にイギリスへ渡り、1916年までをロンドンで過ごします。
 1911年、ロンドンのドーゼセル・ギャラリーで「The Book of Death」と冠した最初の個展を開きました。この時の作品はビアズリーに倣った無彩色で単純化された構図によるものでした。この個展は好評を博し、彼の名は巷に知られるようになります。しかしながらこの個展での作品は書籍として刊行されずに終わります。
 1913年11月にはレイチェスター・ギャラリーで「In Powder and Crinoline 」と題した個展を開催しました。この時の作品は同じ年にHodder and Stoughton社から絵本として発刊されますが印税契約を結ばなかった為、出版社からは全く金銭の支払いを受けることができませんでした。そこで彼は原画を売却して生計に充てることを強いられます。同年、The Illustrated London News誌からの依頼で「Sleeping Beauty」「 Puss in Boots」「Cinderella」「Bluebeard」の4枚の絵を描き、クリスマス・エディションとして発売されました。

 “ East of The Sun and West of The Moon ”
 EAST OF THE SUN AND WEST OF THE MOON 00 EAST OF THE SUN AND WEST OF THE MOON 01 
 (Hodder and Stoughton,London,1914)

 その翌年、1914年、Hodder and Stoughton社からノルウェイの民話を集めた「East of The Sun and West of The Moon」が発行されました。この本は話題となり、たちまちに増刷に次ぐ増刷を重ねました。以後、彼は「Hans Andersen's Fairy Tales」、「Hansel and Gretel」、「Red Magic」などの名作を送り出します。

 “ Hansel and Gretel ”
 Hansel and Gretel 1925
 (London Hodder & Stoughton, 1925)

 カイは劇場人であった両親の影響もあり、舞台装置(美術)に関してもその才能を発揮しました。1919年「アラジン」、1922年ファエル・サルヴァチニの「スカラムーシュ」など優れた仕事を残しています(1938年にはハリウッド・ボールでの「エブリマン」も手がけています)。
 この舞台美術での成果は彼をウォルト・ディズニーに引き合わせ、ディズニーの作品作りに関わらせることになります(彼のその一端は「ファンタジア」中の「アヴェ・マリア」、「禿山の一夜」に垣間見られます)。しかし、当時のディズニーに関わるということは「すべてはディズニーとともにあり、すべてはディズニーのために」の言葉通りに、自分を捨てて献身することと同義でした。ディズニーの商業ペースに馴染めなかった彼は退社することを志願します。

 “ Fairy Tales ” (1924年)
 hans asndersen 00 hans asndersen 01
 (London, Hodder and Stoughton, 1924)

 ディズニーを去った後、デンマークに帰国しますが、その時にはすでにカイは過去の画家となっており、忘れ去られ、挿絵の仕事すら見つけることも叶いませんでした。1926年、Ulla Pless-Schmidtと結婚し、再び、カリフォルニアへ渡ります。しかし、そこでの生活は極貧ともいえる厳しいものでした。その厳しい中にあっても彼は優れた絵画を収集し、芸術活動を休むことなく、エマーソン・ジュニア・ハイ・スクールなどで4つの壁画(Central Junior High School,Los Angeles 、First Congregational Churchなど)を制作しています。

 hans asndersen 02 hans asndersen 03 hans asndersen 04

 そのエマーソンでの壁画に、良く知られている逸話があります。

 カイが壁画を描いているとき、毎日のようにそれを見ていた少年がいました。その少年はある日、彼にこう言ったのです。
 「もしこの絵に猫が描かれていたら、僕はもっとこの絵が好きになると思うよ。」
 それを聞いてカイは少年に質問しました。
 「君は猫を飼っているのかい?」
 少年は満面の笑みを湛えて「もちろん!」と答えます。
 カイは少年に明日、その猫を連れてくるように言いました。少年は言われたとおりに飼い猫を連れてくると、カイはその壁画の中に白い猫を一匹描きこみました。
 後日、彼はそのことについてこう語っています。
 「本当はもっと写実的に描きたかったんだけど、彼がそれを許してくれなかったんだ。そこで赤煉瓦の中にデフォルメした真っ白な猫を描いたのさ。」

 晩年を貧困に過ごすも彼は決して美術への情熱を失わず、温かな親切心に満ちた稀代の天才カイ・ニールセンは持病であった喘息の悪化から1957年6月21日、71歳で息を引き取りました。

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 彼の死後、作品の散逸を恐れた彼の友人たちの手によって、カイの作品は収集され保存されることになります。
 カイの絵の中に息づく浮世絵を思わせる大きな波濤や風の文様、人物の目の隈取などが、北欧的な色彩と相俟って私たちの目にラッカムやデュラックなどよりも新鮮に映るとともに、日本人には郷愁に似た特別な感情を呼び起こし、それか彼の絵を今日も人気のあるものにしているのかもしれません。

 hans asndersen 08 hans asndersen 09

 今年、最後の記事になります。お付き合いいただきました方々に心より感謝申し上げます。
 本当はもっと早くに終わらせるつもりだったのですが、書いていると欲張りになり「あれもこれも取り上げたい」になってしまいました。が、それもあと3人ほどご紹介して、この挿絵シリーズには区切りをつけたいと思います。

 それでは、Good-Bye 2011 !
 すべての人が笑顔に包まれていますことをお祈りしています。
 皆様、良いお年をお迎えください。


 



 

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C.M.Barker - 20世紀初頭の挿絵 -

 Cicely Mary Barker (1895 - 1973)

 シシリーのプロフィールについては以前に仕掛け絵本のところで書いたので今回は「Flower Fairies of the Spring 」の初期の版と新版との違い、刊記とそれに合わせて別の2冊の本を取り上げたいと思います。

 c m barker 00

 “ Flower Fairies of the Spring ” (1924&1926年頃)

 Flower Fairies of the Spring 1924 (1924年頃)
 (Blackie & Son Ltd.London Glasgow Bombay )
 
 最初に刊記について触れたいと思います。
 「Flower Fairies of the Spring」の初版発行は1923年、新版(New Editin)の発行は1985年になります。この年には、Gale Cengage社からも同じ版で発行されています。
 上に写真を掲載したものにはダスト・ジャケットがありませんので、Publisherの表示から割り出すことになります。
 発行元のBlackie and Son社は非常に伝統のある出版社でして、なおかつ、発行年の記載がないものが多くなっています。その版の判断については表示のバリエイションが多いため複雑で、下に挙げた発行年とPublisherの表示も一例にすぎません。
 
 1900 Blackie & Son (and) Sherratt & Hughes., London& Manchester.
 1910 Blackie And Son Limited London, Glasgow & Bombay
     Blackie And Son Limited London Glasgow Bombay
  ・
  ・
 1924 Blackie And Son Limited London Glasgow Bombay/Printed and bound in Great Britain
 1925 Blackie & Son Ltd.London and Glasgow/Printed in great Britain
 1930 Blackie & Son Ltd., England
     Blackie & Son Ltd.London and Glasgow
 1940 Blackie and Son Ltd, London, United Kingdom,
 1954 Blackie & Sons Ltd., London,U.K.
  ・
  ・
 (1980 Frederick Warne &Co., Ltd,London)
 1985 Blackie & Sons Ltd., Glasgow, Scotland,
    (Gale Cengage,1985/5/30)
 1988 Blackie & Sons Ltd., Glasgow, Scotland,
    (Marks and Spencer Limited)
    (Penguin Books Ltd)
 1990 Frederick Warne Publishers Ltd
    Frederick Warne & Co Ltd, London (New York)

 表示は「 Blackie And Son Limited London Glasgow Bombay」となっており、使われていたのは1910年以後です。さらに印刷所の表示に「Printed and bound in Great Britain」とあります。これは1924年前後のBlackie社の書籍に印刷されています。1925年からは「Blackie & Son Ltd.London and Glasgow/Printed in great Britain」となりますから、この本が出版されたのは1924~1925年頃と思われます。
 補足しておきます。写真の本には緑色の背表紙テープが貼られていますがオリジナルにはありません。テープには「Flower Fairies of the Spring 」と金文字で打ってはありますが、これは補修した時に作られたものだと思います。

 spring 1926
 (Blackie & Son Ltd.London and Glasgow, 1926)

 ダスト・ジャケットが残っていればPublisherの表示と併せてもう少し詳しく調べることができます。ただし初期のものでダスト・ジャケットがあるものは稀です。また非常にレアなケースですが、書店側が高く売ろうとして後の版のものに破損したダスト・ジャケットを着せ替えている場合もありますので注意して内容を確認してください。

 spring eary edtion 00 spring 1926 back (1926年版) 
 
 扉のPublisherの表示は“Blackie & Son Ltd.London and Glasgow Printed in great Britain ”になっていますので1925年以降のものであるらしいことがわかります。
 次に、ダスト・ジャケットの裏面には出版リストが記載されています。1926年版の裏を見て各書籍の出版年と照らし合わせると「Gammon & Spinach」の刊行は1905年、「Mrs.Bunny's Refugee」が発刊されたのは1921年、「Flower Fairies of the Autumn」が1926年です。1927年の「The Book of the Flower Fairies」と「Autumn Songs with Music」が記載されていないのと、シシリーの本が「Flower Fairies of the Spring」から「Flower Fairies of the Autumn」までしか載っていません。大型本の記載が除外されていたと考えても、この本の発行は1926年頃でしょう。

 spring 1985 (Blackie & Sons Ltd., New Editoin,1985)

 次は初期の版と新版の相違点についてですが、もっとも大きな違いは掲載されている妖精が異なるところです。

 spring 1990 (Frederick Warne & Co Ltd, 1990)

 ダスト・ジャケットが「the Larch」から「The Crocus」になり、見返しの絵柄も変更されています。また挿絵の枚数も24枚から21枚になっています。Frederick Warne社版も内容的にはこの新版を踏襲しています。新版から漏れた絵柄は次の5点です。「The Snowdrop」「The Hazel-Catkin」「The Dead-Nattle」「The Groundsel」「The Shepherd's-Purse」です。初期の版には「The Crocus」が載っていません。

 spring eary edtion 02 spring eary edtion 03 spring eary edtion 04

 因みに「Flower Fairies」のシリーズはソング・ブックにもなっています。

 “ Spring Songs with Music ”( Blackie & Son Limited、1925年頃)

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 初版の発行は1923年で「Flower Fairies of the Spring 」とほぼ同時に発行されています。12の妖精の詩にオリーブ・リンネル(Olive Linnell)が曲をつけて、簡単なピアノ伴奏譜も添えてあります。

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 ただこちらの曲ですが、あまり面白味のないメロディです。そのせいかもしれませんが「Flower Fairy」の詩集と比べると以後の増刷は少なくなっています。

 “ A Little Book of Old Rhymes ” (1936年頃)

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 この本の初版発行は1936年です。Publisherの記載は“ Blackie & Son Ltd.London and Glasgow ”ですから1930年以降であることがわかります。更に特定するためにダスト・ジャケット裏面のリストを見てみます。
 「A Flower Fairy Alphabet」が発刊されているのは 1934年です。更に、1937年に発行された「A Little Book of Rhymes New and Old」の記載がないことから、 恐らくこの本の発行年は1936年ということになります。初版か否かは判別できませんが初期のエディションであることは推測できます。

 “ The Lord of the Rushie River ”(1947年頃)

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 初版が発行されたのは1934年です。Publisherは前掲書と同様に“ Blackie & Son Ltd.London and Glasgow ”のみですから1930年代の発行だと思われます。これも裏面の出版リストから絞り込むことになります。
 「A Little Book of Rhymes New and Old」(1937年)の記載があり、かつ、1946年に発行された「Groundsel and Necklaces」が載っています。しかし、1948年発行の「Flower Fairies of the Wayside」、1950年の「Flower Fairies of the Flowers and Trees」が記載されていません。従ってこの本が発行されたのは1946~1948年の間と言うことになり、出版のサイクルから見ると1947年であろうと思います。

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 この本は児童文学者であるシシリーが書き下ろした童話です。
 「船乗りの父親が長い航海に出ている間、ひとり娘のスーザンは家に残されることになりました。父親が頼んだ世話をしてくれるはずの家政婦からひどい目にあわされた彼女は家から逃げ出します。放浪の身となった彼女を救って面倒をみてくれたのは、かつて父親が助けた白鳥でした。スーザンは白鳥たちと幸せな毎日を過ごしますが、いよいよ父親が返ってくるという日が近くなったというのに、彼女の服はボロボロになっていて着てゆく服がありません。途方にくれる彼女のために白鳥はある計画を立てて飛び立ちます…」と言うストーリーで、「白鳥とくらした子」と言うタイトルで翻訳版も出ています(八木田宜子 翻訳、徳間書店、2002年)。

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 今回、どんな内容にしようかと思ってぶらぶらとネットを検索していたら、ネット・オークションや一部の古書サイトで刊記が間違っているのではないかと思われるものがわずかながら目につきましたので話題にしてみました。しかし、いつにも増してつまらない話になってしまいましたね。申し訳ありません。


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Henriette Willebeek le Mair - 20世紀初頭の挿絵 -

 Henriette Willebeek le Mair (1889-1966)

 Willebeek le Mair 00

 アンリエット・ウィルビーク・ル・メールは個人的に非常に好きな挿絵画家のひとりです。
 初めて彼女の絵を見たのは18年前のことで、“ THE CHILDREN'S CORNER ”でした。ロンドンの古書店で見つけたスタイリッシュで洗練されたその本の挿絵は80年以上も前に描かれていたのが信じられないほどでした。柔らかなパステルカラーの挿絵は、内側の飾り枠にあわせて切り抜かれて頁に貼り付けられています。
 古書店のご主人にアンリエットのこと、初版とリプリンツの違いなどを説明していただき、少し高価ではありましたが1914年の元版のものを購入しました。その時に同時に勧められたのが初版のダスト・ジャケット付きの“ GRANNIE'S LITTLE RHYME BOOK ”です。
 今回はこの2冊と「くまのプーさん」の著者であるA.A.ミルンの“ A GALLERY OF CHILDREN ”を取り上げます。アンリエットのその他の本については折を見て取り上げたいと思います。

 “ GRANNIE'S LITTLE RHYME BOOK ”
   (Augener Ltd. & David McKay. 1914)
 Willebeek le Mair 01 Willebeek le Mair 02 Willebeek le Mair 03

 アンリエットは、1889年4月23日にオランダのロッテルダムで生まれました。
 彼女の両親は芸術に関心が強く、父親はスケッチを描き、彼女の母親は詩を書くことを日課としていました。
 たとえば彼女の父親は、彼が就寝前のアンリエットたちに童話を話し聞かせている間、聞いている子供たちの姿をスケッチしています。そのスケッチは現在もオランダの美術館に数枚残されています。

 “ THE CHILDREN'S CORNER ”
  (Augener Ltd.& David McKay. 1914)
 Willebeek le Mair 05 Willebeek le Mair 06 Willebeek le Mair 07

 アンリエットは絵画に関して天賦の才を幼少にして発現します。彼女の両親はその才能を認め彼女が5才の時、フランスの挿絵画家モーリス・ブーテ・デ・モンベルに会うために、彼女の両親は彼女をパリへ連れて行きました。そこでアンリエットは解剖学を勉強することと肖像を描くことに取り組むこようにとのアドバイスを受けました。その後、彼女は、2年間をロッテルダム・アカデミーで美術を学び、基本的な技術を身につけます。更にアンリエットを教えていた図画教師の1人は、彼女に対し、円の中で踊っているモデルをスケッチするように指示をだし、それを通して彼女は緩急の表現と動きを捉えることを習得しました。

 Willebeek le Mair 08 Willebeek le Mair 09 Willebeek le Mair 04  
 
 1904年、アンリエットが15歳の時に最初の本「Premières Rondes Enfantines」がフランスで出版されました。翌年、彼女と彼女の母は3冊の本に共同で取り組みます。彼女の母がテキストを書き、アンリエットはそれらに挿絵をつけました。

 “ A GALLERY OF CHILDREN ”
   (Stanley Paul & Co. Ltd. 1925)
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 アンリエットの周囲の環境は彼女が芸術を身につけるために最適とも言えました。彼女の家は保育所を経営しており、それは子供たちを観察する良い機会を与えました。彼女はその子供たちの様子を注意深く、抑えた色と装飾的な線を使用して描きました。またこの時期、彼女はゴーダ製陶社のために「子供用の朝食セット」の食器の装飾とパッケージのデザインなどもしています。

 Willebeek le Mair 14 Willebeek le Mair 15

 アンリエットは両親と共にアラビアを訪れたのを境にして東洋の哲学に大きな関心を抱きます。特に謙抑的な教義を持つイスラム教に強い興味を示しました。1920年にセルース・カーケン(セルース・ケルゲン)男爵と結婚、名前を「サーイダ」と改名(“ A GALLERY OF CHILDREN ”の扉には“SAIDA”と記名しています)し、同時にスーフィー教に改宗します。以後はオランダのハーグに定住し、挿絵を描きながら、夫と共に貧困救済などの慈善活動や保育園の経営を通じて子供の情操教育に尽力しました。
 1969年に77歳で逝去するまで、アンリエットはその生涯において「A Gallery of Children」(A.A.Milne)、「 A Child's Garden of Verse」( Robert Louis Stevenson)を含む14冊の本を出版しています。

 Willebeek le Mair 10 “ THE CHILDREN'S CORNER ”

 現在、アンリエットの絵本の邦訳版は見当たらないようです。下記2点も絶版となっており古書でしか見つけることができません。洋書であれば現行で販売されているものが多く簡単に入手することが可能です。

 「ル・メールのマザーグース・メロディ」(楽譜)谷川 俊太郎訳 偕成社 (1993/02)
 「こどもの情景」 A.A.ミルン (著)、 早川 敦子 (翻訳)、 パピルス (1996/06)

 



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A Child's Garden of Verses (Jessie Willcox Smith) - 20世紀初頭の挿絵 -

 “ A CHILD'S GARDEN OF VERSES ”(1905年)
 (Illustrated by Jessie Willcox Smith)

 A CHILD'S GARDEN OF VERSES(Willcox Smith)00
 (Charles Scribner's Sons, New York, 1905)

 ジェシー・ウィルコックス・スミス(1863 - 1935)は、1863年9月6日 、ペンシルベニア州フィラデルフィア近郊のマウントエアリーで生まれ、1935年5月3日に世を去りました。
 彼女は、ペンシルベニア美術アカデミーでトマス・エイキンズから最初の絵の指導を受け、1888年に卒業しました。その翌年から1893年まで「レディース・ホーム・ジャーナル」に勤務しましたが、画家を目指した彼女はそこを退社し、ドレクセル・インスティテュート・アート・アンド・サイエンスで、当時アメリカで最も著名であった指導者のひとりロバート・パイルに師事しました。
 彼女の才能は急速に認められ「センチュリー・マガジン」「コリアーズ・ウィークリー」「ハーパーズ・マガジン」などで多数の挿絵を描き、1900年代初頭における成功した女流画家のひとりとなりました。
 1958年にソサエティ・オブ・イラストレーションズが「名誉の殿堂」に選出した10名の女性挿絵画家のうち、彼女は2番目に推挙されています。

 ジェシーは生涯独身であり、子供もありませんでしたがその絵の主題は、「A Child's Book of Stories」 (1911)、「Dickens' Children 」(1912)、「 The Everyday Fairy Book」(1915)、「The Water-Babies」(1916)、「 At the Back of the North Wind 」(1919)、「 Boys and Girls of Bookland」 (1923)、「A Child's Book of Modern Stories 」(1920)など残された作品をみるとわかるとおりに「こどもたちの姿」に集中しました。
 彼女の挿絵はこどもに向けたものというよりも、寧ろ感傷的な大人に向けたメッセージが含まれているように受け取れます。懐かしむ、時を悼むという観点からすると「A CHILD'S GARDEN OF VERSES 」は彼女に相応しい題材であったと言えます。

 (Illustrated by Jessie Willcox Smith)01 A CHILD'S GARDEN OF VERSES(Willcox Smith)02

 この「A CHILD'S GARDEN OF VERSES 」は、「宝島」「ジギル氏とハイド氏」の著者であるロバート・ルイス・スティーブンソン(1850-1894)が残した韻律詩です。初版は1885年に発表されて古典詩として大変人気があります。
 初版当時から現在に至るまで、ジェシー・ウイルコックス・スミスのみではなく、イヴ・ガーネット、チャールズ・H・ロビンソン、ターシャ・テューダその他大勢の挿絵画家によって取り上げられています。
 翻訳では1923年(大正11年)に「スティーブンソン子供の詩」(東光閣書店)として福原麟太郎他の共訳で一部が紹介され、全訳版として「童心詩集」(英光社)が刊行されたのは1970年のことです。 

 A CHILD'S GARDEN OF VERSES(Willcox Smith)03 A CHILD'S GARDEN OF VERSES(Willcox Smith)04

 子供の頃のステーブンソンは病弱な体質であまり元気に走り回ることはなかったようです。その幼少時に憧憬を込めて見ていた他のこどもたちの姿やひとり過ごした時のことが30歳を過ぎた彼の心に思い起こされ、アンソロジーとして送り出されました。

 詩集冒頭には、彼の8人目の乳母であったアリソン・カニンガムへの献詩が捧げられています。

 「献辞 - アリソン・カニンガムへ あなたの坊やから」 

 不安と苦しみのなかにあった僕を看病するために、
 寝ずに付き添ってくれた長い夜、
 平坦ではない道行きに手を伸べて、僕を連れて歩いてくれた温かな手、
 読み聞かせてくれたすべての物語、慰めてくれたすべての痛み、
 あなたがかばってくれたすべてに、あなたが運んでくれたすべてに、
 その悲しみも喜びも、あなたとの日々の中にある。
 僕の第二の母、 僕の最初の妻、 幼き日の天使であったばあや
 今では丈夫に育った、当時は病弱だった子から
 この本をあなたに捧げよう。
 
 神よ、この本を読む人すべてが、良い乳母と出会えますように
 明るく輝く炉辺や保育室で、この本の歌に耳を傾ける子供すべてが 
 僕の幼い日を喜びで満たしてくれたのと同じように、
 あの優しい声で歌ってもらえますことを。

 (Illustrated by Jessie Willcox Smith)05

 この「A CHILD'S GARDEN OF VERSES」については無刊記のものが多いですが、初版については扉の裏に、“ Copyright 1905 by Charles Scribner's Sons for the United States of America - Printed by The Scribner Press New York,U.S.A "の記載があります。

 このほかの彼女の特筆すべき作品としては「グッド・ハウスキーピング」誌のカバーイラスト(1917年12月から1933年3月)や、チャールズ・キングズリーの「ウォーター・ベイビィ」(Hodder and Stoughton,, London,1916)のイラストレーションあります。特に後者の出来は素晴らしく、彼女の死後、原画はアメリカ議会図書館に寄贈されました。
 
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 The Water Baby(Hodder and Stoughton for Boots, London)

 


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“ The Snow Queen ”(Honor Charlotte Appleton) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Honor Charlotte Appleton (1879 - 1951)

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 "The Bad Mrs Ginger" (Grant Richards, UK,1902)

 オナー・シャーロット・アップルトンは、1879年2月4日にブライトンで生まれました。
 彼女はケンジントン・スクールで美術の基礎を学びました。その後、フランク・カルデロンの動物画スクールで生き物の描き方を学び、最後にロイヤル・カレッジ・オブ・アートで水彩と油彩の技法を習得しました。
 ロイヤル・カレッジ・オブ・アートにまだ在学中だった1902年、彼女はオリジナルの絵本である「Bad Mrs Ginger」を発表しています。

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 "The Bad Mrs Ginger"(Grant Richards, UK, 1902)

 それは、獰猛で狡猾な猫のミセス・ジンジャーから小動物を助け出すために苦心する背丈6インチしかないこびとの女の子アンの話です。
 小さなアンは、ミセス・ジンジャーに狙われた友人である小さな動物たち(ネズミや小鳥など)を逃がしたために彼女に追い詰められます。しかし、その危機一髪のところを妖精に助けられてフェアリー・ランドに迎え入れられると言う単純なストーリーの幼児向けの絵本でした。
 この本の出版を皮切りにして、以後、彼女は150冊以上の絵本を世に送り出すことになります。

 Babies Three 00 "Babies Three " josephine and her dolls "Josephine and Her Dolls "

 代表作としては、「Fairy Tales」(Simpkin Marshall, UK, 1913)、「Children in Verse」(Duckworth & Co,1913)、「Fairy Tales(H.C.Andersen)」((Thomas Nelson, London,1920)、「Josephine and Her Dolls 」(Blackie & Son London,1916 )などの“JOSEPHINE” シリーズ、「Babies Three 」(Thomas Nelson, London,1921)などがあります。

 THE BLUE BABY and other whimsical stories “THE BLUE BABY and other whimsical stories”
 (London George Harrap & Co. Ltd,1931)

 1952年、イースト・サセックスにあるホーブ公立図書館においてロイヤル・カレッジ・オブ・アート収蔵の彼女の作品による個展が開催されることになりましたが、アップルトンはその個展を見ることなく開催直前に逝去しました。

  “ The Snow Queen ”(1920年頃)

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 (Thomas Nelson and Sons, London, Edinburgh, and New York)

 多作家であった彼女の絵本の中から、1920年頃に刊行された「The Snow Queen」を取り上げます。
 本文は子供向けシェークスピアなどを手掛けたローウィ・クリスホルムが再話しており、アップルトンが非常に繊細な挿絵を施しています。

 the snow queen02 the snow queen03 

 Thomas Nelson社の書籍については刊記が表記されていませんので正確な発行年月日は不明です。ただ原画自体は1918年に描かれていることはわかっており、1920年に入ってからすぐに発刊されているようです。
 他にもう少し情報はないかと思いロンドンの老舗古書店の店主に問い合わせたところ、「初版以後の増刷されたという記録は見あたら無いようなので、おそらく初版のみの発行だったのではないかと思う」とのことでした。
 ほぼ同時期に同社から発行されたアンデルセン童話集「Fairy Tales」の方が人気があったため、そちらの陰に埋もれてしまったのかもしれません(こちらは何度も復刻再版されています)。
 しかしながら、北の地の空気感までを捕らえたかのような繊細で優雅な挿絵は、埋もれさせておくには非常にもったいないと思って取り出してきました。

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 アップルトンは水彩を主として扱い、その絵本は子供たちが純真に遊ぶ姿や冒険、そして生命や物の大切さといったものをテーマにしていました。
 彼女の初期の絵にはケイト・グリーナウェイやウォルター・クレインの影響(特にグリーナウェイ)が顕著に見られます。1920年代後半以後の作品には、色彩やスペースの使い方、柔らかく細やかな線による表現にアーサー・ラッカムやチャールズ&ウィリアム・H・ロビンソンの影響が見られます。
 アップルトンの挿絵(彩色画、ドローイング)は、一冊の本の中にもその他の著名な画家の構図や技法を随時取り入れ変化に富んだ世界を作り上げています。そこから彼女が非常に柔軟な考えの持ち主だったことが想像できます。

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 彼女の繊細な水彩画は息の長い人気を保っており、昨年は「アンデルセン童話集(Fairy Tales by Hans Christian Andersen )」が、2011年に入ってから「ペロー童話集(Perrault's Fairy Tales )」が Pook Press社からニューエディションのハードカバーで発刊されています。残念ながら日本語翻訳版は発行されていないようです。 

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“THE TAILOR OF GLOUCESTER ” (Beatrix Potter ) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Helen Beatrix Potter (1866 - 1943 )

 「ピーター・ラビット」であまりにも有名なイギリスの児童文学者であり、ナショナル・トラストの創設に貢献したヘレン・ビアトリクス・ポターは、1866年7月28日、サウスケンジントンで生まれました。
 彼女の両親であるルパート・W・ポター(陶芸家、弁護士)、ヘレン・ポターはともに裕福な家庭に育ち、その両家の資産で生活をしていました。ビアトリクスも当時の富裕層の子女と同じく傍付きのメイド(ナース)とカヴァネスと呼ばれる専任の家庭教師によって育てられました。
 彼女が作品を生み出したイマジネーションには、毎夏を過ごしたパースシア、スコットランド、ウィンダミアなどの避暑地での生活が大きく関わっています。彼女はそこで小動物を観察するとともに、植生に関する探究心を呼び起こされました。特にあげられるのは地衣類が菌類と藻類の共生関係にあることを発見したことであり、それについての論文も書きました。しかし、当時、生物学界の頂点にあったリンネ協会(カール・フォン・リンネの功績を讃えて設立され、アルフレッド・ウォレスやダーウィンが所属していたことでも知られる)は女性の進出を認めず、ビアトリクスの論文は正式に採用されることもなく黙殺されることになります(1997年のリンネ協会の総会においてビアトリクスに対して正式に謝罪を表明)。また英国国立植物園(キューガーデン)への推薦を受けたこともありますが、やはり女性であったため採用されることはありませんでした。

 Peter Rabbit 00 Peter Rabbit 02
 (Privately Published / Printed By Strangeways, London, 1902)

 1900年前後から子ウサギ(ビアトリクスのペットであった)を主人公とした物語を書き始め、周囲からは出版を勧められ請負先を探しますが見つからず、初期の作品は自費(privately issue)で発表されることになります。ですが彼女の生み出した子ウサギの物語は年齢を問わず世界中の人々から支持され、1902年「ピーター・ラビットのおはなし」から1930年に発表された最後の本である「こぶたのロビンソンのおはなし」まで23作が刊行され、今日まで愛読されています。

 Peter Rabbit 01 (Privately Published, 1902)

 晩年、イギリスの湖水地方で牧羊場を経営していた彼女は、自然保護活動の重要さを提唱していた牧師・キヤノン・ハードウィックの影響を受け、地元の土地4000エーカー(16km²)を買い、その管理をキヤノン・ハードウィックとその後継者に託しました。これがナショナル・トラスト運動の第一歩となります。
 ビアトリクスが所有していた土地は、現在、湖水地方の国立公園(ウィンダミア)の一部になっています。また彼女が晩年に生活していた自宅は「ヒル・トップ」と名づけられて一般に公開されています。
 執筆活動と自然保護活動に尽力したビアトリクス・ポターは1943年12月22日、ランカシャー州ニア・ソーリー(現在のカンブリア州)で永眠しました。。

 THE TAILOR OF GLOUCESTER (Privately Printed) “ The Tailor of Gloucester ” 
 (Privately Published / Printed By Strangeways, London, 1902)

 “My Dear Freda Because you are found of fairy tales, and have been ill, I have made you a story all for yourself - a new one that nobody has read before.”で始まる「グロースターの仕立て屋」。
 その最初の出版はビアトリクス・ポターの個人出版でした。1902年に発刊されたそれは500部限定であり、ピンクのダスト・ジャケットがついていました。そしてその翌年、1903年にFrederick Warne 社から正式に刊行されます。  

 “ The Tailor of Gloucester ” (1903年)

 The Tailor of Gloucester 00 The Tailor of Gloucester 01 The Tailor of Gloucester 02
 (London and New York, Frederick Warne and Co., 1903) 
 
 グロースターに住む貧しい仕立て屋はクリスマスの朝までに市長が結婚式で着る典礼用のコートを作らなければなりませんでした。しかし、連日の疲れからうたた寝をして風邪をひいて寝込んでしまいます。病気から快復したときには既にクリスマス当日、「もう到底間に合うわけがない」と諦めて仕事場に来てみると、どうしたことか見事な刺繍が施されたコートが出来上がっていました。たったひとつのボタン・ポールのかがりを除いては。そしてそこには針で小さなメモ紙が留めてありました。そのメモには「穴糸が足りない」と書かれてありました。
 その見事なコートは、日ごろから仕立て屋の家に住まわせてもらい、猫のシンプキンから助けてもらったネズミ達の恩返しだったのです。

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 ビアトリクス・ポターは、グロースター郊外に住んでいた従妹キャロライン・ハットンを訪ねた折、そこで不思議な話を彼女から聞きます。それがこの絵本の物語の元になりました。
 それは「仕立て屋が急ぎの仕事を受けたものの病気で伏せって、期日であるクリスマスまでに仕上げることができなかったのです。ところがクリスマス朝に仕事場に来てみるとボタンホール一つを除いて見事に仕上がっていました」と言うものでした。ビアトリクスはこれをネズミの仕業と想像し、この物語を書きあげました。

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 グロースターはイングランド・グロースターシャーの州都であり、セント・ピーター修道院(グロースター大聖堂、Cathedral Church of St Peter and the Holy and Undivided Trinity)を中心とした街です。その街の名前の由来である「輝く川の上の砦」が示す通りに、川による商業交易で栄えたところでした。グロースターからやや東に向かうとコッツウォルズがあります。

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 僕がこの街を訪れたのは20年以上も前のことになります。現在はどういう風に変わっているのかわかりませんが、その頃の街並みはビアトリクスが描いた挿絵そのままの風情を残していました。小さな横道にそれて路地裏に入り込むと「あの仕立て屋」を探してしまうくらい時間の動きを忘れさせてくれる場所でした。 

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 猫のシンプキンがネズミに締め出されて雪の街を仕方なくうろつく様を想像して、「あの二階家のベランダがちょっと似ている」とか、飲み屋の裏にある地下倉を覗き込んでは酔っ払いネズミの大宴会の醜態を思い浮かべたりしました。
 ついでに「24人の仕立て屋さん、カタツムリを捕まえに。角だしゃ怖いぞ、カタツムリ。仕立て屋さん、みんな逃げ出したよ…」なんて歌いながら店先の小さなウィンドウを覗き込めば、刺繍に精を出すネズミの姿が見えそうな、本当にそんな街でした。

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 ビアトリクス・ポターの描く世界は非常に独特なものです。ただ単に動物を擬人化するのではなく、彼らは彼等の世界で生きています。人が入り込む時はそれは異次元の扉、幻想の世界のごとく、夢うつつの狭間のように描かれます。そうたとえばティギー・ウィンクルに出会ったルーシーのように。
 余談ですが「ティギーおばさんのおはなし」に登場する洗濯屋のティギー・ウィンクルにもスコットランドに住んでいたキティ・マクドナルドという実際の人物のモデルがいます。

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 今回はクリスマスが近いのでそれに因んでというのもありますが、それとは別に、頑張っている人への応援の気持ちを込めて取り上げてみました。
 実は僕は自分が文章を書くよりも誰かが書いたものを読むほうが圧倒的に好きです。ここ最近はあるブログで連載されている小説を読んでいます。書いている方は学生さんなのでしょう。アルバイトに卒業論文、いろいろと忙しい中で書かれているようです。寒気が降りてくる中、無理をして体調を崩さないようにしてくださいと祈るばかりです。

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 今年はいろいろなことがあり過ぎました。
 日々の生活では嬉しいことよりも嫌なことのことが多い気がしたり、良いことや幸運は努力してもなかなかやってきてはくれませんが、不運や悲しいことは何もしなくても向こうから近づいてくる気がします。でも、努力をした人はやはりそれなりの幸せをつかむものなのです。ただかなえられた望みや夢といったものは、見落としてしまいがちに小さかったりするものですから、気づかずに通り過ぎてしまうのです。けれども、それがどんなに小さくても願いは確かにかなっているのです。
 現実では土壇場でネズミさんが手助けをしてくれたり、眠っている間にこびとさんがあらわれて代わりに仕事をしてはくれませんが、すべては自分の心が知っていてくれます。ですから、深刻にならず、肩ひじを張らず、できることをその瞬間に精一杯やりましょう。後悔が小さくすむように。

 それでは素敵なクリスマスをお迎えください。


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“ The Fairy Book ” (Warwick Goble) - 20世紀初頭の挿絵 -

  “ The Fairy Book ” (1913年)
  ( Illustrated by Warwick Goble )

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 (Macmillan & Co.,Limited St.Martin's Street,London 1913)

 ワーウィック・ゴーブル(1862 - 1943)は、1890年代から1900年代初頭にかけて活躍した画家の中で、特筆すべき広範な分野で挿絵を手がけた画家です。その洗練されたデザインと流麗なダンスやバレエを思わせる動きをとらえた挿絵は、今日でも最高峰の作品群のうちに挙げられています。彼が残した「The Water Babies」(1909)、「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」(1910)、「The Fairy Book」はその足跡を代表する作品です。
 「The Water Babies」と「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」は後日改めてご紹介することにして、1913年に刊行された「The Fairy Book 」を取り上げます。
 初版は1913年に発行されました。1923年には表紙の装丁を赤のクロス張りに変え、挿絵を16枚に減らして再版されています。

 the fairy book 1923 reprint (Macmillan & Co. Ltd, London,1923) goble fairy book 12

 初版に綴じこまれている挿絵は口絵(赤ずきん)を含めて32枚です。収録されている童話1話ごとに1枚の挿絵となっています。各挿絵には薄い保護紙があり、そこにはその描かれている場面に対するキャプションが付されています。

 goble fairy book 02 "The Sleeping Beauty in the Wood"

 上の絵には、"A young girl of wonderful beauty lay asleep on a embroidered bed"(この世のものとは思えない美しい少女が飾り付けられたベッドで眠っていました)と言うキャプションが添えられています。

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 ゴーブルは日本やインドの美術、文化に早くから興味を持ち研究をしていました。従ってその挿絵もそれまでの一般的な挿絵のようにヨーロッパ的ではなく、どことなく東洋趣味が感じられるエキゾチックな雰囲気を持っているところに特徴があり、彼自身も積極的にそういった題材を扱っていました。ほぼ同時期か、やや遅れて登場するアーサー・ラッカムやエドマン・デユラックはゴーブルの影響を多分に受けています。

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 ワーウィック・ゴーブルは1862年10月22日、ロンドン北部のダルストンで生まれました。彼の父親は地方回りのセールスマンでした。
 ゴーブルはシティ・オブ・ロンドン・スクールに通う傍ら、ウエストミンスター・スクール・オブ・アートで美術を学びました。卒業後、彼は多色刷石版画を専門としている印刷会社に勤めます。そこで基本的な版画技法と商業デザインを実践において修得し、1890年代に入ってからはポール・モール・ガゼット、ウエストミンスター・ガゼットの発行に携わります。
 1893年、彼はハーフ・トーンのイラストをいくつかの月刊誌(ストランド・マガジン、ピアソンズ・マガジン、ボーイズ・オウン・ペーパーなど)に掲載しました。1896年にはロイヤル・アカデミーで開かれた展覧会に作品を出展しています。彼はそれを契機にして挿絵本の依頼を受けるようになります。1898年、 H・G・ウェルズの「宇宙戦争」の初めての挿絵本を手掛け、挿絵画家として好評を得ました。

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 1909年にはマクミラン社が発行するギフト・ブックの主任画家となり、「The Water Babies」(1909)、「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」(1910))、「Stories from the Pentamerone」(1911)、「The Complete Poetical Works of Geoffrey Chaucer」(1912)などの挿絵を製作しました。
 出版業界が一時停滞していた第一次世界大戦中、彼はウルリッチ・アーセナル・ドローイング・オフィスに雇われ、フランスで赤十字を支援するヴォランティアにも志願しています。またこの時期、彼はニューヨーク・マクミラン社の要請を受けて、スティーブンソンの「宝島」の発行にも協力していました。
 20世紀初頭の挿絵画家の中で最も器用な画風を持ち、広範な仕事をこなしたゴーブルでしたが、1943年1月22日、自宅であるサリー・ホームで80歳の生涯を閉じました。

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“ UNDINE ” ( Arthur Rackham ) - 20世紀初頭の挿絵 -

 Arthur Rackham (1867 - 1939 )

 1867年9月19日、ラッカムは12人兄弟の4番目として生まれました。1879年、ロンドン市内の学校に入学。1884年、療養のため一時、オーストラリアへ渡りますが、同年秋、再びロンドンへ戻り、ウェストミンスター火災保険会社で保険員として働きながらランベス美術学校で絵画の基礎を学びました。保険会社を退職したあと、1892年、創刊したばかりのウェストミンスター・ヴァジェット誌で挿絵を担当し、その後、彼の絵の才能を惜しんだ父親の勧めもあり画家として歩むことを決意します。そして1893年、A.ホープの「The Dolly Dialogues」で本格的な挿絵を担当し、市場に参入しました。
 1898年には「The Ingoldsby Legends, Or Mirth and Marvels 」(J.M. Dent & Co., London)でカラーイラスト(12枚)を描き注目を集め、1900年の「The Fairy tales of the Brothers Grimm 」(Freemantle & Co, London /Lippincott Co., Philadelphia)で画家としての地位を確立しました。

 Grimm 1900 「The Fairy tales of the Brothers Grimm 」(1900年)

 以後、「Peter Pan in Kensington Gardens」(1906年)、「Alice's Adventures in Wonderland」「The Ingoldsby Legends, Or Mirth and Marvels (New Edition) 」(1907年)、「A Midsummer-Night's Dream 」(1908年)、「Undine」(1909年)、「The Rhinegold and the Valkyrie」(1910年)、「Siegfried and The Twilight of the Gods」(1911年) などの名作を次々と世に送り出し、1939年9月6日、癌のためリンプスフィールドの自宅で死去しました。

 「ニーベルングの指輪」「真夏の夜の夢」「ケンジントン公園のピーター・パン」など何を取り上げようか迷ったあげく、今回はフケー原作「ウンディーネ」にしました。 

 “ UNDINE "(1909年)

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 ( London : William Heinemann , New York, Doubleday, Page & Co, 1909 )

 「ウンディーネ」は、ドイツ・ロマン派の詩人であるフリードリヒ・バロン・ド・ラ・モット・フケー(1777-1843)が1811年に発表した水の精と騎士の悲恋をテーマにしたファンタジーです。
 フケーはドイツ軍人の家系に生まれ、彼自身も軍籍に身を置いたのちに作家活動に入りました。その著作は戯曲から小説まで多岐に渡りましたが、今日まで親しまれているのはわずかにこの「ウンディーネ」のみとなっています。

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 精霊は魂を持たない心のみの存在であり、人間との間に真の愛が生じることによってその魂を授かります。「人間に愛されれば魂を授かるウンディーネ」については、近代医療の父とも言えるパラケルススが16世紀に記したその著作の中で超自然的な存在として触れています。それ以外にもドイツには古い伝説「シュタウフェンベルクの騎士」「ローレライ」をはじめ水の精にまつわる話が多く存在します。
 この物語はそういった伝説を総括したものと言えそうです。
 粗筋としては、魔の森の奥にすむ貧しい漁師に育てられた美しい(水の精)ウンディーネが、騎士フルトブラントと出会って恋におち、その愛によって魂を授かります。しかし、フルトブラントは元来が人間とは異なるウンディーネに対し次第に冷たくなり、他の女性を愛するようになり、ついにはウンディーネを捨ててその女性と結婚することになります。そのためウンディーネは水の精霊の掟に従い、騎士の命を奪うというものです。

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 王子を愛し、その恋に破れて海の泡と消え、海を渡る風になって王子を見守るというアンデルセンの人魚姫とは悲劇としての共通点はあるものの、結果としては対極にある物語です。
 フケーは物語前半においてはウンディーネを奔放で他人の心を気遣うことをしない我儘な精霊(妖精)的な性格を強調した描写をしています。騎士との婚礼によって魂を授かったのちは性格ががらりと変わり、慈悲深く遠慮深い淑女として彼女を扱い、理不尽に虐げられてもフルトブラントを献身的に愛し続け、「私はあの方を涙で殺しました」というエンディングに向けて読者に彼女の悲壮感を募らせる階段を用意していきます。
 そして、ラッカムの挿絵はラストの悲劇を終始暗示するかのように不安げに描かれています。
 
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 この見事な挿絵を生みだしたのは、もちろんラッカムですが、彼自身だけでは挿絵として命を吹き込むことはできませんでした。彼の挿絵に我々を引き込むために最も貢献したのは印刷技術に他なりません。
 クレイン、グリーナウェイ、コルデコットのような木版画や石版画、グリゼ、クルックシャンクのような銅版画では、いかに彩色技術を駆使しようともラッカムの世界は表現できなかったでしょう。
 ラッカムの登場は四色平版印刷、いわゆるオフセット印刷の華々しい登場とともにあったのです。

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 当時のオフセット印刷は製本にも大きな影響を与えました。それは挿絵の別刷りと言う形で現れます。
 つまり挿絵を光沢のあるアート紙に印刷し、台紙に貼り込み(マウント)をして製本しました。したがって台紙が挿入できない初期の小型本のピーター・ラビット・シリーズなどの挿絵の裏は白紙のまま綴じこまれたのです。大型本に関しては、上面だけを糊付けしたものや枠通りにカッティングして全面を貼り付けたものなど装丁によって貼り方の差異はあります。
 この「ウンディーネ」の挿絵についても台紙の枠取りがされており、その枠の中に上方だけ糊付けした挿絵が貼り込まれています。

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 水彩画の質感を損なうことなく再現できるオフセット印刷の登場は挿絵の世界に革新をもたらし、カイ・ニールセン、エドマン・デュラック、ハリー・クラークなど数えきれないアーティストを生み出す土壌となりました。19世紀末の挿絵と20世紀初頭の挿絵との最大の分岐点がここに現れたのです。

 ラッカムの挿絵を利用した「ウンディーネ」の翻訳本をご紹介しておきます。
 
 美しき水の精(三笠書房、1965) 「美しき水の精」(三笠書房、1965年初版)

 三笠書房刊は、「ウンディーネ」の初邦訳を手掛けた矢崎源九郎さんが改めて翻訳をしています。前半(田舎娘的)と後半(貴婦人的)でウンディーネの言葉づかいを使い分け、その性格の変化をわかりやすくしています。挿絵はカラー口絵を一枚、それ以外は白黒で掲載されています。

 ウンディーネ(新書館、1980) 「ウンディーネ」(新書館、1980年初版)

 新書館のペーパームーン叢書でおなじみの岸田理生さんが翻訳を担当し、15枚の挿絵を前後半に分けて、巻頭、中間にカラーで綴じこんでいます。挿絵の裏には原本についていた各挿絵カバーのキャプションを再現しています。

 ところで、漫画やアニメ、ファンタジーの中では、人間と精霊(或いは、妖精、宇宙人、アンドロイドなどなど)との恋愛が成立するパターンは多いですが、現実にそういったシュチュエイションが存在したらどうなのでしょう?彼女(彼)を愛せますか?人はやはり人しか愛せないのでしょうか?他の異質な存在とは一時的な恋愛しか成立しないのでしょうか?
 もっとも同じ人間同士でも永遠の愛などとは行かないでしょうから結果は同じことなのかもしれませんね。違う点があるとしたら、誤魔化して耐え続けることができるか否かなのでしょう。

 物語はこうして締めくくられています。

 … 埋葬を終え、みんなが再び立ちあがった時には女の姿は消えていた。女の跪いていたところには銀色の明るい水を湛えた小さな泉が湧き、それは静かに流れ出て騎士の墓をぐるりと回り、更に流れ流れて墓地の先にある小さな池に注ぎ込んでいた。村人たちはこの泉を指して、哀れなウンディーネが捨てられながらもこうしていつまでも涸れることなく優しい腕に恋人を抱きしめているのだと信じたという。



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レディ・ジェーン・グレイのこと

 ランカスター家の悲劇の女王、レディ・ジェーン・グレイ。
 以前に少し日記でとりあげたのですが「何か良い資料があれば教えてください」とのご質問を数人の方からいただきました。
 ブログ拍手のメッセージに対する返信のやりかたがわかりませんので、こちらで返事をさせていただきます。

 国内でジェーン・グレイを取り扱った書籍は非常に少ないです。恐らくもう皆さんがご存知の書籍になってしまいますが3冊ほど挙げておきます。

 次の2冊は現在、販売されており、「英国王室史話」については中央公論社から上下刊で文庫化もされています。ただし、いずれもごく短い章中での取り扱いになります。

 英国王室史話 「英国王室史話」(森 護、大修館書店、1986年)

 薔薇の王朝 「薔薇の王朝」(石井美樹子、NTT出版、1996年)

 こども向けではありますが「九日間の女王さま」は本文295頁に及ぶ物語になっています(表紙の絵はどことなくアラブ風で僕としてはあまり好きではないです)。著者のカーリン・ブラッドフォードは英国王室史などの研究家であり、レディ・ジェーンに関する論文も発表しています。ただし、こちらの本はあくまでも史実をもとにしたフィクションです。忠実な部分もありますが、物語としての起伏をつけるために作者がイメージで話を創作している部分もありますし、処刑のシーンはドラローシュが描いたシーンをそのまま言葉に載せ替えています。

 九日間の女王さま 「九日間の女王さま」
 (カーリン・ブラッドフォード著、石井美樹子訳、すぐ書房、1991年)

 資料というよりもエピソードになりますが、夏目漱石の「倫敦塔」の中にも取り上げられています。

 倫敦塔 「倫敦塔」(小型本、大正四年、東京堂、鈴木三重吉編)
 

 僕が利用(所持)している外国の古書文献は次の通りです。
 
 LADY JANE GRAY. Bound with: TAMERLANE; JANE SHORE; THE FAIR PENITENT(John Bell., London 1791)

 Lady Jane Grey, a tale, in two books; with miscellaneous poems, in English and Latin.(London: printed by T. Bensley, for J. Mackinlay, 1809)
 
 Lady Jane Grey, And Her Times(London: Printed For Sherwood, Neely, And Jones, 1822)

 The Literary Remains of Lady Jane Grey with a memoir of Her Life (Harding, Triphook, and Lepard 1825)

 PORTRAITS OF ILLUSTRIOUS PERSONAGES OF GREAT BRITAIN Engraved from Authentic Pictures in the Galleries of the Nobility and the Public Collections of the Country. With Biographical and Historical Memoirs of their Lives and Actions.Twelve Volumes(Printed for Harding and Lepard, London: 1835. by the Printed by Willian Nicol at Shakspear Press 1835)

 FINE PROOF ETCHING BY GEORGE CRUIKSHANK, WITH HIS PRESENTATION INSCRIPTION.( Most probably an illustration from W. H. Ainsworth's The Tower of London 1840)

 The Signing of the Death Warrant of Lady Jane Grey(Publisher:Unknown,1848)

 LADIES OF THE REFORMATION Memoirs of distinguished female characters, belonging to the period of The Reformation of the Sixteeneth Century (Blackie & Son: London, Glasgow, & Edinburgh, 1857 & 1858)

 Pictures and Royal Portraits illustrated of English and Scottish History, from the introduction of christianity to the present time( London Glasgow Edinburgh Dublin, Blackie & Son ca. 1880)

 History of Lady Jane Grey( Glen Falls Printing Co., Glen Falls, NY 1896)

 The Nine Days' Queen: Lady Jane Grey and Her Times (Methuen & Co., London 1909)

 各書籍の発刊年代をご覧いただければ推察できると思いますが、1833年にドラローシュが描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が一大ブームを巻き起こしたことは想像に難くありません。
 各々にジェーン・グレイの肖像銅版画や木版、エピソード、伝記などの資料が散らばっているような状態です。これといった決め手になるような研究書は今のところありません。どれも同じようなことを書いているのが実際です。
 それはレディ・ジェーン自身が(聡明ではありましたが)あまり社交的な性格ではなく、教会の奉仕活動以外ではどちらかと言えば家にいることの方が多かったため行動の記録が少ないこと、その肖像画が確認されていないということが挙げられます。
 彼女は当時としては世間的にも知られた才女でしたので日記などがある程度残っていても良いはずですが、それもほとんど確認されていません。ですから彼女の裁判記録以外では、他者の日記や献詩などの記述(当時のものはそれほど多くはありません)、口伝えでの人柄や思い出話が中心となります。伝聞によるものは後世の作り話的なものが多く含まれています。他には彼女の直筆と写しの書簡がわずかに残されているのみです(写しに関しては後年の偽作の可能性もあります)。他の王室関係者に比べて残されているものが多くないため、真贋の取捨選択が困難であることは事実です。
 肖像画については、イギリスのナショナル・ギャラリーに隣接する王室ポートレイト・ギャラリーにあった「レディ・グレイの肖像」とされていたもの(現在、書籍などに掲載されているのはほとんどこの絵です)は、近年の研究(贈られた宝石類の記録と肖像画が身に着けている装飾具)からどうやら「ジェーン・シーモア」であるらしいです(キャサリン・パーの可能性も主張されてはいますが)。各地にある他の肖像画もこの絵をもとに描かれていたり、ジェーンの死後に彼女の母フランシーズの若いころの肖像画を元にして描かれています。それ以外では、彼女の処刑から数十年後に遺族(遠い縁戚者)の証言をもとにモンタージュ的に復元されたものとか、画家が自分のイメージで描いたものが大多数です。ダドリー家(?)の家系末にあるどちらかの公爵が肖像画を保有しているらしいですが門外不出のため実際には確認されてはいません(見た人はいるようですが画像の公表はされていません)。
 なぜこういった状況になったのかと言うと、レディ・ジェーンはクーデター、反逆罪に問われ斬首されていますので、彼女の肖像画や日記など遺品を所持するということ自体が反逆とみなされる可能性があったことが18世紀19世紀の論文中に挙げられています(ただし、この時点では先の王室ポートレイト・ギャラリーの絵はジェーン・グレイだと思われていました)。特にダドリー家に対する諮問はかなり厳しいものであったようです。ジェーンの相手がダドリーでさえなければ助命嘆願が受け入れられた可能性は大きかったとも言われています。
 さらに、イギリス王室は(当時を含め近代まで)彼女を正式の女王とは認めてはいませんでした(現在は正式に認知されています)。ですから「女王の肖像画」として描かれる(保存される)ことはなかったのです。
 しかし彼女の悲劇的な物語は、後年、民間の人気となり多数の複製画が描かれ、一部富裕層の間で高値で取引されることになります。中には古い肖像画に後から「Lady Jane」とキャプションを描きこんでジェーン・グレイの肖像として転売されたものも数えきれません。そういったことから彼女は「見えない女王」になってしまっているのです。

 洋書の方はそのうち折を見て読み返しながら整理をし、重要な部分は翻訳を交えながらブログ上でご紹介したいとは思っています。いつになるかはわかりませんが…。

 ご質問の答えになっていませんがお許しを。体調が良くないのでここまでで申し訳ありません。

 


 
 

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Walter Crane (3) - 19世紀末の挿絵 -

 Walter Crane (1845 - 1915)

 ウオルター・クレインは1845年8月15日、イギリスのリヴァプールで生まれました。
 肖像画家であり、すぐれたミニアチュール画家でもあった父、トーマスから絵や版画について手ほどきを受けました。
 1859年から1962年までの間、彼は木版彫刻家のウィリアム・J・リントンの工房に徒弟として入ります。ここでダンテ・G・ロセッティやジョン・E・ミレーの作品の彫版に携わり、その美術デザインのセンスや技法を実践を通して学びました。クレインはここでの3年間について「デザイン、素材、製作法との必然的な関係について理解し修得することができた」と後述しています。
 1864年から1876年にかけはエドムンド・エヴァンズとルートリッジ&サンと組んでトイ・ブックスを刊行し大きな成功を収めます。この時期の彼の絵には、「カエルの王子さま」(1874年)に見られるように、その平面構成やデフォルメの仕方には浮世絵の影響が強く現れています。
 その後、社会主義運動に関わり、さらに美術家同盟(Art Workers Guild)やクレインが設立したアーツ・アンド・クラフツ展示協会のために精力的に活動しました。
 クレインは「装飾芸術家はできるだけ自然から離れて、自身の経験によって選び抜かれた形態を学ぶべきだ」とフランス的なアール・ヌーヴォに対する批判を踏まえた主張と実践をし、1889年には王立芸術大学の学長に就任しています。

 「カエルの王子様」や「The First of May: A Fairy Masque 」については後日ご紹介することにして、今回は「PAN-PIPES」と「A Flower Wedding」「Flowers From Shakespeare's Garden」を取り上げます。

 “PAN-PIPES. A book of old songs” (1883年)
 (George Routledge and Sons, 1883)

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 初版は1880年に発行されています。
 大判のこの本の中には52枚のカラー挿絵で飾られた楽譜があり、装飾的に非常に凝ったものになっています。
 1877年に出版された子供向け音楽譜集「Baby's Opera」のやや大人向けにあたります。

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 クレインは楽譜を装飾の中に織り込むことでまるでタペスリーの様に仕上げています。
 
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 “A Flower wedding” (1905年)
 (Cassell & Company, London, 1905)

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 「A Flower wedding」には、口絵を含む40枚のカラー挿絵が入っています。
 これは1888年の「Flower Feast」以来、クレインが取り組んできたデザイン構成の一連の作品のひとつです。
 花の3部作というと「Flower Feast」、「Queen Summer」(1889)、「Flowers From Shakespeare's Garden」が挙げられ,、見落とされがちになりますが、もう少し注目されても良い作品だと思います。

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 ここではトイブック・シリーズや「PAN-PIPES」で見られたような装飾は控えられて極めて簡素になり、言葉少なに語るような構成になっています。添えられたキャプションもクレインによるごく短い言葉のみで、後は読者側の歴史や文学などの知識と関心、それから想像力に委ねられた感があります。

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 ところで、アール・ヌーヴォと言えばフランスやユーゲントシュティールに代表されるオーストリアやチェコなどがあげられますが、その発祥はイギリスの新芸術の思想にありました。
 クレインにとってアール・ヌーヴォとは何だったのでしょう。なぜ、クレインはフランス的アール・ヌーヴォを批判したのでしょうか? 
 その答えの一部はこの作品の中に垣間見られます。
 アール・ヌーヴォは自然の曲線や自然物を取り入れることで装飾における自然回帰を促し、絵画や建築などを席巻した芸術運動ですが、イギリスにとってのアール・ヌーヴォの思想の原点は平面上の装飾、二次元の芸術ではなく、立体、特に建築を主眼に置いた三次元の芸術でした。
 フランス的アール・ヌーヴォに見られる無理に取り入れられた不自然な曲線は華麗にも見え目新しさを提供はしましたが、基本的な安定性に欠けていたのです。
 またクレインの目指す実践的な装飾芸術とは、美術としてばかりではなく実用性と耐用性をも具備していなくてはならないものでした。ですから絵本においても、文字、装飾を含めるのは当然として、そこに読者をも有機的に関連付けられるものでなくてはならなかったのだろうと思います。それ故の単純化、簡素化でした。
 そしてそのクレインの狙いは「Flowers From Shakespeare's Garden」で一応の集約を見たと言えます。


 “Flowers From Shakespeare's Garden” (1906年)
 (Cassell & Company, London, 1906)

 shakespere's garden  shakespere's garden 01

 「Flowers From Shakespeare's Garden」は次の献辞で始まっています。
 「ワーウィック侯爵夫人に捧げる。夫人の美しいイーストン・ロッジのイングリッシュ・ガーデンで、この本の想像力に満ちた構想が生まれたことに感謝を込めて。」

 shakspeare's garden 02-04 shakespere's garden 02&04  

 登場する花々の妖精は直接にはシェークスピアの物語に登場するわけではありません。
 シェークスピアの戯曲の中に隠喩として使用された花(或いは、花言葉)を重ね合わせることでクレインは独自の花の妖精の世界を創り上げました。
 本の構成も一連のストーリーがあってのものではなく、15の戯曲の場面をオムニバスで取り上げています。
 たとえば一番最初の絵は「ペルセポネの略奪」です。これは「冬物語」のワンシーン。
 19頁は「ハムレット」から、髪を乱して花に包まれたオフィーリアです。
 
 shakespere's garden 31&36 shakespere's garden 37&40

 31頁に描かれているのは麦撫子。「恋の骨折り損」第4幕第3場からとなっています。キャプションは「さあ、行きましょう!麦撫子を撒いても麦は収穫できません。」
 36頁は「ヘンリー五世」から「苺はイラクサの下で良く育つ。上等な果実は下等なものと植えると良く育ち、実も熟す。」
 37頁は「ヘンリー六世」、最後の40頁目は「トロイダスとクレシダ」です。

 これら一連のクレインの作品と表現は、チャールズ・H・ロビンソン、カイ・ニールセン、ウィルビーク・ル・メールなどに大きな影響を与えました。その影響は今日まで続いていると言っても決して過言ではありません。

 すみません、体調が悪く、かなりあっさりした回になってしまいました。
 とりあえずここで19世紀末の挿絵には区切りをつけます。クレインについては別の本を取り上げるときに改めて補足したいと思います。

 2006年にマール社から刊行された「シェイクスピアの花園」は原本の魅力を損なわない配慮がなされていて良い本だと思います。巻末に収録されている作品解説やクレインに関する説明も非常にわかりやすいです。
 シェイクスピアの花園(マール社)
 「シェイクスピアの花園」(マール社)

 

 



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Walter Crane (2) - 19世紀末の挿絵 -

 <クレインとグリーナウェイ>

 ウォルター・クレインとケイト・グリーナウェイの挿絵って似てると思ったことはありませんか?
 初めて二人の絵のを目にする方だと一目で判別するのは難しいかもしれません。
 この二人、画風の相似の如何は別として、その活動は似て非なるものでした。
 絵本ばかりではなく、ウィリアム・モリスの芸術運動に参加し、フランス的アール・ヌーヴォに異を唱えイギリス的アール・ヌーヴォを主張しつづけた生粋の芸術家であるクレイン。
 彼がその芸術活動に没頭している間に、子供の絵本を通じて巷のポピュラリティを一気に独占したグリーナウェイ。
 その因縁めいた二人ですが、共著による作品もいくつかあります。そのひとつを取り上げてみます。

 “ THE QUIVER OF LOVE (1876年) ” 
 (Illustrated by Walter Crane & Kate Greenaway)
 THE QUIVER OF LOVE  1876 THE QUIVER OF LOVE 00 THE QUIVER OF LOVE 01 
 (London Marcus Ward & Co,. 1876)

 “THE QUIVER OF LOVE A Collection of Valentines”と題されたこの本はヴァレンタイン用のギフトブックとして恋愛の詩を編んだものです。
 出版記録によるとクレインとグリーナウェイが中のカラープレートを4枚づつ手がけているようです。
 ラピス色の非常に爽やかな装丁に、金や銀がほどこされた多色刷石版画の挿絵という大変贅沢な作りになっています。カラープレート以外にも全頁に天使などをモチーフにしたカットが描かれています。

 THE QUIVER OF LOVE(The little bird) THE QUIVER OF LOVE 02 THE QUIVER OF LOVE 03

 当時、クレインがアンチ・グリーナウェイであったことは有名です。
 その二人が仲良く共著を承諾したのかどうかは興味のつきないところですよね。
 クレインのグリーナウェイ嫌いの端緒がどこにあるのか、ちょっと見てみましょう。
 一般に言われているそのきっかけとなった事件は、グリーナウェイの「Under The Window」の出版でした。

 海野弘さんが著書「世紀末のイラストレーター達」(美術出版社、1976年)に詳しく書いておりますので、それを引用させていただきます。

 「1876年に出版された『赤ん坊のオペラ』は子供の本としては大変な成功を収めた。クレインは子供の本を続けて頼まれていたが、忙しくて伸ばしていたところ、1877年のクリスマスに『赤ん坊のオペラ』の姉妹編というキャッチフレーズでケイト・グリーナウェイの『窓の下』がルートリッジから出され、クレインをびっくりさせた。クレインの抗議で、このキャッチフレーズはひっこめられたのだが、グリーナウェイはクレインの本に似せた本を次々と出す。クレインは『一人の芸術家の回想』の中でそのことを皮肉な言い方で語っている。『彼女は日の照っているうちに。私よりもたくさん刈り取った。太陽は今のところ彼女に充分明るく輝いている。それはあまり長く照ってはいないかもしれないにしても。』・・・(以下、略)」

 THE QUIVER OF LOVE 04 THE QUIVER OF LOVE 05 THE QUIVER OF LOVE 06

 この本の挿絵にあたっても出版記録とは別に「8枚のカラー挿絵はすべてクレインの手によるもので、中のカットをグリーナウェイが担当した」と言う意見もあるようです。
 出版社としては、目下売出し中の人気挿絵画家二人のコラボレーションにより衆目を集め、販売実績に結びつける意図があるのは今も昔も同じことです。
 しかし、クレインとしては自分一人でも手がけられる仕事を彼女と二分することにプライドを傷つけられたため条件を付したと言う推測がそこに働いているようです。
 ですが当時は二人とも、まだ押しも押されぬといった実績を積むにいたっておりませんので、あまり反目する部分だけを取り上げるのは余計なこととも言えそうです。
 挿絵中にサインは入っていませんので絵をみて判断するしかないですね。

 THE QUIVER OF LOVE 07 THE QUIVER OF LOVE 08
 
 参考までに1875年に刊行されたグリーナウェイの“ Melcomb Manor, A Family Chronicle ”を載せておきます。じっくり見比べてみてください。
 8枚中、何枚がクレインなのでしょうか?やはり半分づつでしょうか?
 判断材料のひとつはクレインの描く目の特徴です。
 他にもありますが自分で探してみるというそれも楽しみの一つだと思います。

 “ Melcomb Manor, A Family Chronicle (1875年)”
  (Illustrated by Kate Greenaway)
 MELCOMB MANOR A Family Chronicle 1875 00 MELCOMB MANOR A Family Chronicle 1875 01 
 (London. Belfast Marcus Ward & Co. Royal Ulster Works.)

 寝込みそうな予感がするのでそうなる前に一気呵成にクレインの記事を書いてしまおうかと思っています。
 次は「Flowers from Shakespeare's garden」周辺を取り上げてクレインに一区切りをつける予定です。

 MELCOMB MANOR  00


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The Sensitive Plant ( Laurence Housman) - 19世紀末の挿絵 -

 Laurence Housman (1865 - 1959)

 「19世紀末の挿絵」のラストは、リッケッツ、ビアズリーと共にイギリスのアール・ヌーヴォを代表するローレンス・ハウスマンを取り上げることにしました。

 Laurence Housman arabian night  1907 Arabian Nights(Hodder&Stoughton,1907)

 ローレンス・ハウスマンは、1865年7月18日にブロムズグローヴ(ウースターシャー)で生まれました。彼の父、エドワード・ハウスマン(1831–1894))は、非常に保守的で厳格な事務弁護士でした。母親はローレンスが5歳の時に死別しています。以後、彼は他の兄弟(アルフレッド・エドワード・ハウスマン、ロバート、バジル、ハーバート、クレメンス、ケイト)と共に父親に育てられます。
 ローレンスは美術をランベス美術学校と王立アート・カレッジで学びました。
 絵画のみではない彼の多岐に渡る才能はベイリー・ギャラリー、新英国芸術クラブなどで早くから示されました。
 彼が手がけた挿絵としては「Goblin Market」」(1893)、「The Sensitive Plant」(1898)、妹クレメンスが書いた小説「The Were-Wolf」(1886)などが挙げられます。
 文筆方面では2冊の詩「Green Arras」(1896)、「Spikenard」(1898)を発表しました。
 1900年に「An Englishwoman's Love-Letters 」を発表した時は大きな物議を引き起こします。それは商業的にも非常に成功し、著作権使用料で£2,000以上の報酬を受けたと言われています。更に、この時期にはマンチェスター・ガーディアンのための芸術批評家としても働いていました。
 1906年、ハウスマンは、劇「プルーネラ」を制作するために、H・グランビル・バーカーの活動に加わりました。
 1907年には婦人参政権運動のために、献身的な社会主義者であり平和主義者であったヘンリー・ネヴィンソンとヘンリー・ブレールスフォードと交友を深めます。これは彼の活動に大きな変化をもたらしました。
 彼の伝記作者キャサリン・クッキンは「ロレンスとクレメンスは、ケンジントンのエドワーズ・スクエア・ペンブルックシア・コテージへ引っ越し、これは社会主義者の活動本部(Suffrage Atelier)のための拠点となった」と述べています。
 第一次世界大戦の間、彼はシルヴィア・パンカーストと協力して彼女の新聞(The Workers' Dreadnought)に寄稿しました。
 1916年には、彼は国際連盟を支持し巡回講演に随行してアメリカ合衆国を訪問しています。また彼は性的心理学と独立労働党の研究のための英国協会のメンバーでもありました。
 視力が衰え始めた1920年代からは挿絵などの制作を止め、脚本などの文筆業と社会主義活動に専心します。1937年に彼は自叙伝を発表しました。
 ローレンスは 平和誓約共同体(the Peace Pledge Union)の強力な支持者でした。1945年、組合はロンドン・シャフツベリー通りにHousmans Bookshopを開き、それは平和主義に関する情報発信の主要拠点となりました。
 彼は、婦人参政権に反対し性差別を容認する保守的な人々をひどく嫌悪したと言われています。
 1955年、芸術と政治運動の両面で彼をサポートし続けたクレメンスが死去し、ローレンスを悲嘆の底に落とします。そして、ローレンス・ハウスマンは1959年2月20日にサマセット・グラストンベリーのバトレイ病院で亡くなりました。

 Princess Badoura Princess Badoura London 00 Princess Badoura 01
 Princess Badoura (London Hodder and Stoughton 1913 ) 

 ローレンスは自己の詩集や小説などの他に「アラビアン・ナイト」の翻訳や再話を手がけてもいます。
 1913年に刊行された“ Princess Badoura ”はその美装も見事ですが、エドマン・デュラックが素晴らしい挿絵をつけています。

  “ The Sensitive Plant ” (1899年)

 Sensitive Plant 1899 Sensitive Plant 1899 00
 New York:E.P. Dutton&Co,1899

  邦題「ねむりぐさ(含羞草)」は「プロミーシウスの解縛」と共に出版されたシェリ(Percy Bysshe Shelley)の九篇の詩のひとつです。ローレンスはこの詩集のために11枚の挿絵を描き、その木版は妹クレメンスの手によって彫版されています。

 Sensitive Plant 01-02 Sensitive Plant 6&23

 「園に一株の眠り草、清冽な風は銀の露を伴う。光によって目覚める葉の扇、そして彼らは夜の口づけでそっと閉じてゆく。」(“The Sinsitive Plant” 第一部第一節)

 パーシー・ビッシュ・シェリ(1792-1822)は徹底した無神論者でした。
 マルクスは彼を指して「シェリが不運な事故で命を落とさなければ、彼はイギリスの社会主義運動の偉大な先駆者になったであろう」と述べています。
 ローレンスが、イギリスの労働者階級にもっとも影響を与えた詩人として稀有な存在であるシェリの作品を選んだのは単なる偶然であるはずがありません。
 その背景を少しだけでもお伝えできればと思い、前述でややくどくローレンスの社会主義活動のご紹介をしました。その詳細については数多くの専門書がでておりますのでご興味があればご一読いただければと思います。またシェリについては別の機会に触れることがあるかと思いますのでここではスキップさせていただきます。 

 Sensitive Plant 24&36 second part 29 36

 「薔薇は今しも水浴の身支度を済ませた妖精のごとくに、彼女の沸き立つ胸の奥まで顕かにした。衰え行く空気にたえまなく折り重なり、彼女の美と愛の魂を露わにした。」(“The Sinsitive Plant”第一部第八節)

 シェリの詩は現実感や官能性といったものからは遠く、ロマンティックな青年の熱情と清潔さに溢れています。ローレンスの挿絵はその青年の愛に対する憧憬と苦悩とを微細な線で美しく描きだしています。それはシェリとローレンスの理想世界の実現に対する情熱が共鳴し生みだしたと言えるかもしれません。   

 second part 40 51

 最後に神保菘さんの翻訳による“The Sinsitive Plant”の結びをご紹介します。

 「ねむりぐさ」や、その外形が朽ちる前に、その枝の中に「精」のように座っていた者が、今この変化を感じたかどうかは私にはわからない。
 あの「貴婦人」の優しい心が、星が光をふりまくように愛をふりまいた。
 あの姿とはもう結びついていないのか、喜びを置いていったあところに悲しみをみたかどうか、私には推測できない。
 だがこの誤りと無知と争いの世、つまり、実在するものがなく、すべてはらしく見えるものばかり、我々はみな夢の亡霊。
 そういう世では死そのものが、他のすべて同様贋物にちがいないと認めることが適当な信条で、考えてみれば楽しい信条ではないか。
 あの楽しい庭、あの美しい貴婦人、それにあそこのあらゆる楽しい姿と香りは、実は決して死んではいない。
 変わったのは我々、我々のもので、彼等ではないのだ。
 愛や美や喜びに死も変化もないから。
 彼らの力は我々の諸機関に勝る。
 これらは存在が不確かゆえに光が射すとたまらない。

 対訳 ねむりぐさ
 (神保菘「対訳ねむりぐさ」大阪教育図書、2002年初版)  

 次はウォルター・クレインを再度取り上げて20世紀初頭の挿絵に入りたいと思っています。が、最近、体調が思わしくないため少し間を置かせていただくかもしれません。


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Henry.H. Emmerson -19世紀末の挿絵 -

 Henry Hetherington Emmerson (1831-95)

 1888  Laing Art Gallery 1888年( Laing Art Gallery )

 あまり知名度の無いと言うか、むしろ日本では無名に近い画家かもしれません。
 画風だけを見るとグリーナウェイの真似のようにも見えますが、実は彼の方が油彩や水彩画家としては先達なのです。
 まとまった挿絵を伴う絵本は極めて少ないですが、晩年、子供用のトイブックなどを少し手がけており、それを通じて彼の挿絵に触れることができます。

 H.H.Emmersonについてご紹介します。

 HHE1882 (1882年、Laing Art Gallery) H_H_Emmerson_jh (1888年、John Hammond)

 エマーソンは1831年にイギリスのサウスシールズで生まれ、そして、ユニオン・イングリッシュ・スクールに通います。海岸にほど近かった学校に通う間、彼は海の風景を熱心に描き続けます。
 学校を卒業後、極めて短い期間ではありましたが彼はパイロットの職につきました。
 しかし、画家になることを目指した彼はニューカッスルにあるロイヤル・デザイン・スクールを受験することを決め職を去り、そして、絵画技法の勉強するためにパリへと渡りました。
 彼はアカデミックで古典的なきっちりとした絵よりも、より淡彩に近い画風を好み、それを作品に生かしました。
 美術学校を出た後も彼はパリで仕事を得て生活を続けました。現存するパリ時代の作品の大部分は田園風景と航海を題材とした水彩画です。
 イギリスに戻った後、本格的に油彩作品を手がけると共に、いくつかの挿絵本に取り組みました。
 彼は印象派に組したわけではありませんが、彼の残した肖像画は当時の型にはまらない独創的なものでした。
 
 今回は“ The May Blossom Painting Book”と“ Afternoon Tea ”をとりあげてみます。

 “ The May Blossom Painting Book”
  ( Frederick Warne and Co., 1881 )

 may blossom 00 may blossom 01

 塗り絵の歴史がどれくらいのものなのか僕は知りません。
 以前に、こども用の塗り絵はそれほど古いものでありませんが、花鳥風月画などの練習用としては宋代(960~1279年)あたりからあったようなことをうかがったことがあります。
 いつか調べてみようと思ったものの、ものぐさな性格がいつものように邪魔をして未だに調べていません。
 ですから起源については全くわかりませんが、19世紀末に多色刷石版による印刷がポピュラーになったこの時期に多くの「Painting Book」が発行されたのは知っています。
 ウォルター・クレインやコルデコットも同時期に何冊かの Painting Book を出しています。

 may blossom 02

 すべての絵にというわけではありませんが、彩色済みの見本が綴じられています。それ以外は二色刷になっています。現在のものと構成はかわっていないと言うことですね。
 現在と異なっているのは当時、多色刷石版による書籍が高価であったことです。少なくともすべての子供たちが手に取れるようなものではありませんでした。絵を描くのが好きな子供たちからみれば、憧れの一冊ということになります。

 may blossom 03 may blossom 04 may blossom 05

 今見ていると見本の石版画が非常に美しいです。贅沢というのはこういうことなのかとも思えます。塗り絵本というより画集として成立しています。
 彩色版画だけを切り取って額装すればインテリア絵画としても充分に通じます。もっとも僕は形になっているものを崩す趣味はないので、いくら古びてもこのまま保管しますけど。

 ここで多色刷石版画(クロモリトグラフ・Chromolithograph)について少し説明をしておきます。

 これは1798年にドイツで発明された版画技法です。
 石板上に油性チョークで絵を描いた後に、その版面を水に漬けると油性部分の線は水をはじきます。これに同じく油性塗料を塗ると線部分のみにインクが付着する性質を利用して、図柄を紙に転写するものです。
 この石版印刷により、画家が製版作業を直接に手がけることが可能となりました。そのことは、従来の銅版画や木版画のように彫版師にまかせるよりも原画の再現性が向上します。
 ルドゥーテなどの植物画の植物学的な正確さをより忠実に再現するのには非常に適していたのです。また木版画と異なり光沢のある画質が非常に鮮明で高級感を与えています。
 ただし、初期の石版画は色彩が強くですぎる傾向があり淡彩色には不向きな面がありました。しかし19世紀半ばに油性塗料の品質の向上により濃淡の再現性が広がり彩色本の中心となり、1850年~1900年頃に最盛期を迎えました。 

 “ Afternoon Tea ”
 ( Frederick Warne and Co. 1880, London ) 
 
 afternoon tea 1880 afternoontea00

「Afternoon Tea」は、 J.G. SowerbyとH.H. Emmerson の共著になっています。

 afternoon tea01 afternoon tea02 afternoon tea03

 George Routledge and Sons社から発行されたグリーナウェイの「Under The Window」「Marigold Gaerden」の反響は大きなものでした。
 そこで Frederick Warne社は、田園風景を得意とし、画風がグリーナウェイに近かったエマーソンに「ケイト風の絵をつけた本」の依頼をしました。
 この本は確かに販売部数を伸ばしました。ただし、それはあくまで「ケイト風(グリーナウェイ風)」に徹したことによるケイト・グリーナウェイの人気の再確認に他ならなかったのです。 

 afternoon tea04 afternoon tea06 afternoon tea07

 僕はひねくれ者ですので「売れているもの」に対して抵抗感が強く、「タイタニック」が上映している時も「人気のあるうちは絶対に見ない」と無意味に我を張った経験があります。
 この「Afternoon tea」も人気のあったグリーナウェイの模倣、二番煎じ的な本として嫌う面があり、あまり見直す機会がなかったのですが、今回、こうして手にとってみますと決してグリーナウェイに屈したものではないと思うようになりました。
 エマーソンの抒情性は画面のそこかしこに溢れていて、グリーナウェイには描けない暖かさに満ちています。
 彼はモチーフとして、一人病床で誕生日を過ごす子どもへのお見舞いや弟妹を寝かしつける姉などを幾度も取り上げています。
 寂しさを一番感じる時に温もりを与える視線こそがエマーソンの絵の優しさなのだろうと思います。
 

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