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蛭田さんの物語、開幕?

 「どうやら蛭田という男性社員が送り込まれてくるらしい」と言う。
 その季節外れの人事異動は、部内のほぼ全員を震撼させるに充分な影響力を持っていた。
 
 最初に断っておくが僕はこの会社の社員ではない。
 しかしながらこの日は大多数の社員よりも職場に早く着いていた。
 正確には、前日からの企画会議が紛糾し、ついには雑談と化し、摂津、真田、園田各氏と夜明けを迎えたに過ぎない。この実りが全くない不毛な打ち合わせに疲れ果てているところに、先にあげたニュースが飛び込んできた。
 摂津氏曰く、「欠員が生じた訳でもなく、事業を拡大、補強すると言った方針が打ち出されたとの噂も浮上してはいない。はっきり言えばリストラはあっても補充は考えられない部署」である。
 異動の理由は見当もつかない。が、何らかの事情があったことは確かだ。いかに人事部が無責任な「ひとごと」を扱う部署であっても、意味のないことをするとは思えない。それゆえに、部内にいる大多数が戸惑いを感じたのだ。
 蛭田という社員については、直接彼との面識を持たない、部外者である僕でさえも名前は聞いたことがある。何でも劇的な人物らしい。
 摂津氏によれば、「その奇人怪人振りはどこまでが本当なのかわからないが、かなり誇張されて伝わっている、と思う。いや、思いたい。思わせて欲しい。思ったらダメかな?思わせてください」というレベルに達しているらしい。
 始業の予鈴が鳴り、期待(何の期待かは各々異なるが)と不安(こちらは純粋な不安である)の入り混じる中、部長の松田さんから当該人物が紹介された。
 「今日から一緒に仕事をすることになった蛭田君だ。彼にとっては不慣れな部署ではあるが持ち前のバイタリティでこの部の推進力となってくれるだろう。取り敢えずは真田君の班に所属してもらうことになる。共に働く同志として、皆、宜しく頼む。では、蛭田君、自己紹介を。」
 蛭田と言う人物、外見上は特に変わったオプションは見受けられないごく普通の男性社員である。
 彼は颯爽と(この表現以外に思い浮かばない身のこなしで)松田さんの前に立った。
 「諸君!諸君は本当のコミニュケーションを体感したことがありますか?」
 何をか言い出さん哉。
 まずは「蛭田です」じゃないのか?との動揺が職場内に走った。
 部内は鳩が豆鉄砲で気絶させられたように静まり返った。しかし、その驚嘆は序説に過ぎないことを僕たちは直ぐに知ることになる。いっそ気絶してしまえれば幸いだっただろう。
 「私たちは一顧の存在として自身の主義主張を唱え、決して企業の部品となることなく、その生命エネルギーを昇華するために、労働を通じ共通の成果としての喜びを体感するために今ここに存在しているのではありませんか?この部内において真実の人間交流というものがありますか?そこの貴方、そう君です。永嶋さん。君には友と、親友と呼べる人物が部内に、社内に存在しますか?」と彼は良く通る声で、まるで怪しげな新興宗教か、マルチ商法のセミナーでの演説のように声高に話した。
 永嶋君(不幸にも彼が蛭田さんの同期であったことは後で知った)は沈黙した。視線を外し、ただただ沈黙した。それは企業人として正解だったと思う。
 「答えられませんか。そうでしょうね。君は自己の仕事の芸術性を高めるための自己否定というものを知らない。いや、その困難な改革から逃避しているのです。人間は盲目の意識に囚われている苦痛の器であります。」
 (ちょっと待ってくれ、ここでショーペンハウエルをご高説いただかなくとも)と不満を心内に漏らす間も与えず彼は激を飛ばす。
 「我々は自己の利益、エゴイズムと言ったものに執着し個々本来の姿を見失っているのです。自己の利益、欲望、確執と言ったものを全否定し、ひとりひとりが真の人間として芸術家として存在の真価を発揮せねばならないのです。」
 (松田さん、演説を止めないのですか?)と目をやれば、どうしたことか見当たらない。いつの間にか姿を消してしまっている。
 この時になって冷静に思い返すと、松田さんは「彼にとっては云々~宜しく頼む」と言った。
 それは本来なら自己紹介が終わって後の言葉ではなかったか?あの人は初めから僕たちを囮にして退室する算段だったのだ。
 蛭田さんの話は続いている。
 「僕は思うのです。自己否定によってより純粋な認識を生み出し、心の真実を語り合うための会話を、コミニュケーションをしようではありませんか。言葉と言葉、本心と本心を理解しあうため、真心のキャッチボールとするべきなのです。僕はそのための礎石となりましょう」と聴衆?を抱くように両腕を大きく広げるジェスチュアをして、ここで言葉が切れた。
 聞いているだけで疲れた。本当にもうどうでもいい。
 確かに「劇的な人物」ではあるようだ。
 どうせなら、そのまま劇中に収まっていてくれたほうが良かったと思わせるほどに劇的ではあった。
 (終わったの?)そんな戸惑いが部内に蔓延していた。誰も何もリアクションをしない。
 蛭田さんは自から拍手を始めた。それは明らかに僕たちに催促するものであり、仕方なしに憂鬱そうな拍手が遅れて起こった。

 不幸なめぐり合わせは重なるもので、蛭田さんを預かることになった真田さんの仕事を僕は手伝っている。
 彼は改めて名乗り、握手をし、用意されていた(空席になっていた)デスクについた。
 「Tさんはうちの仕事を専属で手伝うんですか?」と蛭田。
 「専属ではないですね。お呼びがかかればという感じです」と僕。
 「そういえば真田さん、真田さんとは以前、社内懇親会で一緒のテーブルについたことがあります」と蛭田。
 「そうでしたか?憶えてないですね、申し訳ない。その頃から蛭田さんは宣伝にいたんですか?」と真田。
 蛭田さんは机の引き出しの中のものを確認しながら、「製図用具が入ってないですね。手配してもらえますか?」と向かいに座る、女子社員の梨木さんにリクエストした。それから続けて「摂津さんはご結婚されているんですか?」と。
 「え?僕ですか?まだ未婚ですけど?」
 急に話題を振られることが苦手な摂津さんは少し慌てる感じで答えた。
 「蛭田さんは確かお子さんがいるんですよね?運動会でお嬢さんと走っていましたね」と攝津。
 蛭田さんは「福島が実家でね。今、大変なんですよ。米農家ですからね。皆さんは米食派?パン食派ですか?」
 真田さんと僕は顔を見合わせて「米かな?」と答えた。
 摂津さんが「蛭田さんはやっぱりお米派でしょうね?」と言うと、彼は「台風の影響で果物農家も収穫に被害がでましたよ。果物食べますか?」と言う。
 「果物は好きですよ」と僕。
 「真田さん、今、抱えている企画のリストってこれだけですか?他に何かありますか?」と蛭田。
 「今朝まで打ち合わせていた企画があるけど、まだ未定だから」と言った後で、「でも見ておいてもらったほうがいいかな」と付け足した。
 梨木さんに企画書のコピーを依頼し、そのコピーを蛭田さんに渡した。
 「これは急ぎの企画ではないけど、やってみたら面白いかなと思って検討してるんですよ。概要は最初のページにあるので目を通してもらえば大体の内容はわかると思います」と真田。
 蛭田さんはその書類を受け取ると無造作に机の書類棚に差し込んだ。
 そして「申し訳ないけど今日の夜は都合が悪いので歓迎会とかには出られませんから」と言った。
 突然の異動で誰もそんな催しの企画などしていないし、さっきから聞いていれば真心のキャッチボールどころか、バッティングセンターのようだぞ、と僕が呆れ果てた顔をしていると、その表情を見て取ったのか真田さんが「それぞれの仕事に戻ろうか」とその場を締めた。

 劇的な男・蛭田さんの物語は始まったばかりだ。
 これからどんな活躍をみせてくれるのか?できれば僕は関わりたくないと心から念じた。

 *人物の名前は仮称で表記させていただきました。 

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ピカデリー7時

          ― オレンジとレモン ―
 
 陽気に鳴らせ、陽気に響け、ロンドン中の鐘の音
 「急所と標的」と鐘を鳴らすよ、セント・マーガレット
 「レンガの弾とタイルの弾」と鐘を鳴らすよ、セント・ジャイルズ

 時に退屈は自分でも思いもよらない大胆なことをさせる。

 1972年「すきとおった銀の髪」、そして、1975年「ピカデリー7時」。
 
 僕がそいつを初めて知ったのは少女マンガの中でだった。
 その頃の僕ときたら物を知らないことについて右に出る者がいないくらいに無知だったんだ。
 そう、常識を含めてね。
 やることもないし、何についても飽き始めていた頃だった。少年マンガも読み飽きて、テレビも不自由に思えてた頃。
 特にテレビってやつは邪魔なコマーシャルばかりが入るしね。何よりも見たい番組が終わるまで僕は時間をつきあわせていなくちゃならない。
 いらないシーンは飛ばして欲しかったし、肝心の続きをそこで切るなよって言いたかったね。
 番組は視聴者のためにあるのではなく、企業の宣伝のためにあるんだって気付いたのもその頃だった。
 現在のようにVTRの機械やストリーミング・ソフトが充実していて、Adobe® Premiere搭載PCがあったなら独自に編集しちゃっただろうね。
 やらなければならないことは山ほどあったはずだけど、どういうわけか暇を持て余してたから。
 僕って我儘勝手な性格で、自分の自由にならない時間ってのが窮屈で仕方なかったんだ。そのくせ人の前ではおとなしくしてみせて、いつも返事は「はい」だったけど。
 
 「オレンジあるよ、レモンもね」と鐘を鳴らすよ、セント・クレメント
 「パンケーキとフリッター」と鐘を鳴らすよ、セント・ピーター
 「棒キャンディ2本とリンゴを1個」と鐘を鳴らすよ、ホワイト・チャペル
 
 自分が少女マンガを読むなんて想像もできなかったし、そんなところを想像したくもなかった。
 だって友達にばれてごらん。
 「オンナオトコ」って確実に馬鹿にされる。
 だから別冊少女コミックに載っていた「ポーの一族」を読んだ時、姉貴にも内緒にしておいたんだ。
 どうしてそれを選んだか?って、理由は簡単さ。絵が綺麗だったから、それだけのことだった。
 家族を含め人に見られていないことは当然だったし、読んだことがばれないようにページを捲るのにも気をつけて、置いてあった場所に寸分たがわず戻せるように細心の注意を払った。
 チキンの僕にとってはトイレを覗かれることに匹敵するくらい恥ずかしいことだったからね。
 そいつを読むまで、正直、少女マンガなんて大したことないと見下してた。好きとか嫌いとか、花弁占いみたいな繰り返しばかりで、「どこを切っても金太郎」ってな感じだと思ってたんだ。
 でも、こいつは違った。
 「やられたっ!」て心底思ったね。
 その雑誌が発売された翌日、女の子の話題は「エドガーとアランとマザー・グース」のことで持ちきりさ。
 「僕も知ってるよ」と言いたかったけど、それを少し離れたところで聴きながら言いたいことを押さえてた。さっきも言ったけど、同性の目が気になったし、何よりもそれが怖かったからね。
 ところが、隣のクラスのアホな男が彼女たちのおしゃべりを聞きつけて、得意そうなツラで割り込んでいった。 
 僕はそいつを見て思ったね。
 「なんてみっともないピエロだ。誰もお前に関心なんて払っちゃくれない。彼女たちの迷惑顔がわからないのか?不細工な顔に無駄な陽気さを纏ってみても、気味の悪いお調子者にしか見えないんだよ。明るすぎる便所はグロテスクなものを際立たせる。お前の頭の中はゲロがつまってるのかよ」って。
 でも驚いたことに僕の思惑を大きく外れて、彼女たちは奴を大歓迎。話は大いに盛り上がった。まったく信じられなかったね。

 「ハゲ頭のよぼよぼ神父」と鐘を鳴らすよ、オールド・ゲート
 「白エプロンのメイドさん」と鐘を鳴らすよ、セント・キャサリン

 僕だったらもっと気のきいたことを言えるのに。
 「お前のは話をなぞってるだけだろう」と。
 だからと言って今更、二番煎じで割り込んでみても、やきもち焼きの便乗家にしか見えない。
 僕は機を見るに疎い、チャンスに弱いって、あの時、確信したね。
 話したいことは山ほどあったし、僕は少なくとも話下手ではなかったから、内心、すごくがっかりして後悔もした。
 誤解されると困るけど、僕は女の子たちと話がしたかったわけじゃない。「ポーの一族」と「マザー・グース」について話たかったんだ。
 仮に僕の仲間の間でそんな話ができたとしたなら、それはそれで満足できたと思う。
 しかし、僕のまわりは僕以上に物を知らない奴らばかりでね。そう言う点で彼らは僕の期待を裏切ることは一度も無かった。

 「火かき棒と火かき鋏」と鐘を鳴らすよ、セント・ジョン
 「薬缶とお鍋」と鐘を鳴らすよ、セント・アン

 大袈裟な物言いをすれば、少女マンガとの邂逅。
 自分の少女趣味じみた面を発見して悪寒を覚えたのもそれが最初だったし、何よりも僕が「おしゃべり」だった事に気付かされたのもこの時だった。
 それまで僕は自分のことを「思ったことをその場で口に出すのには向いていない方だ」とばかり信じていたんだ。
 下書きのあるもの以外を流暢に話したり、よしなし事を見切り発車でしゃべるなんて、能力的に出来ないと思ってた。
 ところが僕はかしましい女の子たちよりも話たがりだったんだよ、本質は。
 まるでオカマのひとり漫才みたいにね。

 「半ペンス銅貨とファージング銅貨」と鐘を鳴らすよ、セント・マーチン
 「お前には10シーリングの貸しがあるんだ」と鐘を鳴らすよ、セント・ヘレン
 「いつ返してくれるのさ」と鐘を鳴らすよ、オールド・ベイリー

 僕は不安だった。
 もしかしたら自分は「オカマなんじゃないか?」ってね。
 性同一性障害の種が自分の中にあって、年を重ねるたびに現実から乖離して、ついにはそっちの道に進むのではないかって。
 そしたら整形手術をしなくちゃいけないんだって。
 杞憂だと笑っちゃうよね。
 僕は本気で自分は異常だと思ってたんだよ。
 なのにさ、高校に入ったら僕と同じ「隠れ少女マンガ・ファン」の男って案外多いってことを知った。
 その仲間うちでは大っぴらに話題にできるようになったし、いつの間にかそこに女の子も混じって来て話ができてた。
 言っておくけど「女の子に混じって」じゃないからね。僕は出演したがりのコメディアンじゃない。
 そうして僕は「少女マンガの公然としたファン」になった。
 でも、思い返してみるとそれは必然だった気がする。
 あの時代のマンガのレベルは少女マンガの方が遥かに上だった。
 洗練されたストーリーも、コマ割の複雑さも、キャラクターのデザインも、全てに関して少女マンガ全体が平均を上回っていたのだと思う。もちろん少女マンガ空前の量産時代でもあったけれど。
 少年マンガの殴りあって握手をすれば仲間みたいな、悪の組織と戦うヒーローの一本調子な展開に心理的な機微や深みが見てとれなかったのに対し、微妙な心理描写と虚実を織り込んでのシナリオを史実と錯覚させる巧みさがあの頃の少女マンガには確かにあったと思う。
 「ポーの一族」は僕に「少女マンガ」と「マザー・グース」をくれた。
 それから、行動力のなかった僕に、知的好奇心をもとにして旅に出ることことを教えてくれた。
 ロンドンで古地図をなぞって鐘を渡り歩くことの何と楽しいことか!
 そして僕はピカデリー・サーカスでエドガーとアランを見つける。ポリスター卿が乗りそこなったラットランド・オーカム行きの列車もね。
 「そうだ、丁度、この辺り。じゃあ、ここから汽車に乗ってみよう」ってさ。

 「お金持ちになったらね」と鐘を鳴らすよ、ショーディッチ
 「それはいつのことなのさ」と鐘を鳴らすよ、ステップニー
 「僕にはわからないよ」とボウの立派な鐘が鳴る
 「いつか年をとったらね」と鐘を鳴らすよ、セント・ポール

 でも、忘れちゃいけないね。
 いつまでも高校生気分でそこに留まっていると「少女病」と蔑まれ、社会に首を刎ねられるから。
 「正気」は統計じゃ測れないけど、「異端」や「奇異」は統計から生み出される。
 常識というには、僕は大分年を取り過ぎたからね。

 ベッドまで、君に火をつけにくるよ、蝋燭が
 君の首を、落としに来るよ、首切りが


  ポーの一族 第1巻 ポーの一族 第5巻 「ポーの一族」(萩尾望都)


                       

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ここまでありがとうございました and ここから本編?

 このブログを始めたのは知人の強い勧めがあったためなのですが、当初、何を書くべきか迷っていました。今もそれは変わってはいなのですが。
 しかし、始めるにあたって決めていたことがあって、それは1000アクセスを越えるまでは個人的主張を極力避けた、僕自身の沿革的な情報の提供(つまり、長い長い自己紹介)に努めようと言うことでした。
 ブログのカテゴリを最初に設置したのも、そのつもりがあったからです(まだ2個ほどカテゴリに触れた記事を書いてはいませんけど)。
 アクセスは自分を含めず、同日内の重複アクセスもカウントしないようにして、純粋に「どれくらいの方がアクセウスしていただけるのか?」を数えることにしました(ただ、携帯のカウントのやり方がわからなくてPCのみでのカウンターになっています)。
 それがいつの間にか(教えてくださった初島さん、ありがとうございます)1000を超えていました。感謝に堪えません。
 特に役に立つ情報があるわけでもなく、面白可笑しい文が綴られているわけでもありません。むしろ、お読みいただくのが申し訳ないと正直感じています。
 僕自身、第三者に向けて文を書くのは24年振りとなることもあって、リハビリ的な意図もありました。
 もちろん、仕事で取材や報告書は作成しますので、そう言った意味では文は書いていますが、性質が全く異なります。
 ここまで37もの記事を費やして自己紹介をしてきたわけです。
 高校時代までは学校嫌いで勉強嫌い、高橋真琴先生のファンであり、読書好きが否かは置いておくとして(新刊、古書を問わず)書籍を集めるのが趣味で、どうやら外国へ出かける仕事もあるらしいとか、アニメ関係にも少し顔を突っ込んでいる(当然、アニメ好き)みたいで、理屈っぽいようだがWikiなどを平気でコピー&ペーストしたり、必要な説明を省略したりする面倒くさがりの横着者。
 それが少しわかっていただければ充分すぎると言うものです。
 さて、ここからは僕のスタイルで記事を書いていこうと思います。

 ここまでお読みいただきました皆さまに心から感謝致します。
 ありがとうございます。

 明日以降は、本来の「おしゃべり」として書いて行きたいと思っています。


 ≪関係者各位へ≫

 仕事上の秘密は厳守しますのでご安心ください。
 作品の批判なども致しますが、戯言半分なのでお受け流しください。
 営業上に影響のある中傷、並びに、個人の中傷は致しません。
 その他、差し障りがあると思われることは事前にご了解を得るように(なるべく)努力致します。
 有名希望の方は、僕にこっそり耳打ちしてください。ある事ない事、創作を交えてお名前を活用させていただきます。
 陰口は言いません。
 褒めるときは大袈裟に褒め、悪口を言う時には現実味が無くなるくらいにもっと大袈裟に言います。
 表現に配慮は致しますが、もともと毒舌なので多少の事は諦めてください。

 以上、お気づきの点がございましたら本社カスタマーセンターまでお問い合わせください(嘘です)。

 

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シュタインズ・ゲート、終わっちゃいましたね

 「シュタインズ・ゲート」は、2009年に5pb/Nitoro+から発売された同名のアドベンチャーゲームを原作にしたSFアニメ作品。
 アニメーション制作はWhite Fox、監督は佐藤卓哉&浜崎博嗣、シリーズ構成は花田十輝となっています。
 余談ですが花田十輝さんの父親は、岡本太郎や安部公房に影響を与えたわが国の文学におけるアバンギャルドの旗手、花田清輝です。「小説平家」「鳥獣戯話」「アバンギャルド芸術」など名作を残しています。

 アニメ本編は、記憶をタイムリープさせ、過去改変することのできるマシン「電話レンジ(仮)」を偶然組み上げてしまった中2病に浸食されきっている自称「マッド・サイエンティスト」岡部倫太郎を主人公とし、彼が作った「未来ガジェット研究所」を中心に展開する仮想科学アニメ。
 こういう傾向の作品に関して5pb/Nitoro+は巧みです。「カオス・ヘッド」も良くできた作品でした。
 こちらのテーマは「妄想科学」。ゲーム、アニメ共に良く練られた作品です。
 オフィシャル・サイトからストーリーをお借りしますと「現代の東京・渋谷で俗に『ニュージェネレーションの狂気』と呼ばれる不可解で猟奇的な事件が連続して発生する中、渋谷在住の高校生で引きこもり寸前の生活を送るオタク少年、西條拓巳はインターネットのチャットで『将軍』と名乗る人物が掲載した次のニュージェネの事件を顕示させるような残酷な画像を目撃する。翌日、拓巳はその『将軍』の発言通りの凄惨な現場に遭遇。以後、事件に関わりのある少女達が次々と拓巳の前に現れ、渋谷で起こる数々の猟奇事件に巻き込まれてゆく…」と言うものです。
 「カオス・ヘッド」は、原案・5pb/Nitoro+/RED FLAGSHIP、アニメーション制作・マッドハウス、監督・石山タカ明、シリーズ構成・井上敏樹でした。
 主題歌は2作品とも、志倉千代丸が手掛け、いとうかなこが熱唱しています。

 、カオス・ヘッド 「カオス・ヘッド」
 
 両作品ともに、事実や実際の理論を取り混ぜて進行します。
 「シュタインズ・ゲート」は、時間における未来と過去は同じように不確定であり、ある特定の状態を通過する時間軸上の過去は、直線外の一点を通って、その直線に平行な直線が無数にあり、特定の一地点で改変・分岐された時間軸は他の平行な時間軸に移る、或いは、新たに構築されるという時間理論をもとにしています。 
 更に、ジョン・タイターを巡る実話などを使って作品の雰囲気を盛り上げています。虚実のアレンジが上手いです。
 その筋では有名な話ですが、2000年11月2日、アメリカのネット掲示板に、2036年からやってきたと自称する男性が書き込みを行いました。
 その男性がジョン・タイターと名乗り、掲示板やチャットを通じ、タイムトラベルの理論や自身のいた2036年までに関する状況、未来人である証拠などを提示していきました。
 そして彼は、最初の書き込みから約4か月後の2001年3月に「予定の任務を完了した」との言葉を残し消息を絶ちます。
 2003年にこれらのタイターの発言をまとめた書籍「JOHN TITOR A TIME TRAVELER'S TALE」が刊行され、そこにはタイターの母親と名乗る人物の手紙や、彼女からタイターに関する全資料を受け取ったとされる弁護士の話などが掲載されています。
 この本の中で、自称、彼の母親は「ジョンに関する一連の騒動に巻き込まれるのを避け、静かな生活を送りたい」とジョン・タイタイーとの関係を一切断ちたいと語っています。

 John Titor 「A Time Traveler's Tale 」(Instantpublisher,Co、2003年)

 マックス出版から「未来人ジョン・タイターの大予言―2036年からのタイムトラベラー 」と言う書籍も出ていますので、買わないまでも図書館などで借りて目を通すと面白いです。

 セルン(CERN)の扱いも(少し気の毒でしたが)効果的でした。
 CERNは、欧州原子核研究機構の別称で、スイスのジュネーヴ郊外メイランとフランス側ブレバサンとに主要施設を置く世界最大規模の素粒子物理学研究所のことです。
 陽子線を7TeVまで加速し、正面衝突させることによって高エネルギーの素粒子反応を起こす物理実験を目的とした、世界最大の衝突型円型加速器であるLHC(大型ハドロン衝突型加速器 )を開発保有し、アニメ作品中でもキーのひとつになっています。
 ただ惜しむらくは、もう少し組織としての裏の顔的な演出が欲しかったところです。未来において世界を掌握する組織としては作品中の行動は単純すぎたかな、とも思います。

 ところで、先ほど取り上げた時間理論をもとに極論をすると、自分がいた元の時間軸に帰りたいと思わなければ過去は何度改変しても良いということになります。
 小説家の小松左京さんはこの考え方をベースにしてSFルポ「地図の思想」を書いています。

 地図の思想 「地図の思想」(講談社、1965年初版) 小松左京献呈署名 高橋和巳宛献呈署名

 さて、あっちこっちへ話が飛んでしまいましたが、アニメ「シュタインズ・ゲート」が、ついに最終回でしたね。
 23話、24話が少し性急な感もありましたが、間延びさせずに終わらせた点は良かったかもしれません。花田十輝さんの脚本が冴えていました。
 各話とも印象に残るシーンが多いのですが、僕としてはオープニングのフェイリスが幾何学模様の中に溶け込むシーンが好きです。
 あの感じ、「ああ、シュタインズ・ゲートだな」(意味不明ですね…)と感心して見ていました。

 そう、終わって欲しくないアニメというのがあります。このアニメがそれでした。
 どのアニメとは言いませんが、プラナリアのようにどこを切っても同じような展開で続く長寿アニメを無駄に見ている時間はありませんが、この「シュタインズ・ゲート」のような緊張感をもって、興味を惹き入れられてしまう作品は終わらせるのが惜しい気がします。
 終わらないと駄作に陥ってしまうのが宿命ですので、完結することで余韻を残すのが名作とも言えます。だから、何度も繰り返して見られます。
 キャラクターやそのシュチュエイション、場面に感情移入して、なおプラスαの興味を引き出す。
 作品がきっかけでその外郭設定にあったものに関心を抱き、将来の進路を決めるなどもありえないことではありません。(「アタックNo.1」を見てバレーボールの選手を目指したり「、キャプテン翼」に憧れてサッカーを始めたりとか、「もやしもん」の影響で農業大学に進学しようと思ったり、「けいおん」の影響でロックを始めたなどですね。)

 「シュタインズ・ゲート」の登場人物はそれぞれに個性があり魅力的なのですが、特に岡部倫太郎っていいキャラですね。カッコいいです。
 根は繊細な神経を持ちながら、自身と仲間のために中2病キャラを演じ尽くす。
 「未来の57億人には興味がない!」と言いきって、ラボのメンバー一人を助けるために命をかけるあたりが、口汚しの正義感で彩られた某々アニメより潔いと言わざるを得ません。
 また、第10話中で「(ラボを開いたのは)友達が欲しかっただけなのかもしれない」との呟きに共感させられるものがありました。
 ネタバレや先入観のインプリントになると差し障りが出てきますので作品の詳細は書きませんが、アニメ制作の企画立案からドラマCDでのテスト、そして完成までの膨大な時間を無駄にしない秀作です。
 アニメ最終回放映後に劇場版の制作も発表されていますが、本編で解決されたストーリーをどうやって再構築するのか興味が尽きないところです。

 シュタインズ・ゲート

 今更ながらですが、秀逸なアニメ作品は声優も素晴らしいです。
 主役CVの宮野真守さん。
 デスノートの夜神月でマッドに磨きをかけ、今作の岡部倫太郎で中2病の行きついたところがありますね。
 成り切って演じた姿(私生活そのまんまとの噂もありましたが)は、まったくもって見事でした。

 制作スッタフの皆さま、劇場版に期待しております。



 *へびの足コーナー*

 高橋和巳 … 1931年8月31日生まれ、1971年5月3日に結腸癌のため39歳で夭折。小説家で中国文学者。その著述に関して左翼的な思想が強い。相対性理論に造詣が深かったことでも有名。代表作は「悲の器」「散華」「邪宗門」など。

 高橋和巳「悲の器」 「悲の器」(河出書房新社、1962年初版)


 

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Magical Doors

 シシリー・メアリー・バーカーの仕掛け絵本についてはこれでひと区切りにします。

 ところで、何故に突然、シシリーの仕掛け絵本をとりあげたのか?ですが、今、仕事でちょっとシシリーのことを調べていまして、そのついでにご紹介しておこうかと思った次第です。
 本当は鎌倉の記事(これも仕事の取材で行ったものなのですけど)を続けるつもりだったのです。円応寺のことも中途半端になっていますが、それはまた後ほど。

 今回は「Magical Secret Garden」と「Flower Fairies Magical Doors 」の2冊です。どちらも童話仕立ての仕掛け絵本です。
  
 「Magical Secret Garden」

  Magical Secret Garden Magical Secret Garden (Fredrick Warne&Co、2010) 
 
 妖精の国についたばかりのリリーが、一枚の葉(この葉は外せるようになっています)に書かれた詩を頼りに妖精たちを訪ね歩き、最後に秘密の庭を見つけるというストーリー。
 途中に蝶やポピーの妖精などのポップアップがあり、最後に秘密の庭の入り口の扉と庭のポップアップがあります。
 国内版では、最後のポップアップにある星が小さなライトになっていて点滅するようになっています。

 secret02.jpg secret03.jpg

 「Flower Fairies Magical Doors 」

 Flower Fairies Magical Doors Flower Fairies Magical Doors (Fredrick Warne&Co、2009)

 「私はイヴィの友達のグレースです。イヴィから魔法の扉のことを聞きましたが、とても信じられませんでした。イヴィの家の中を何時間も探しましたが扉なんてどこにも見つからなかったのです。でも、それから数週間して、私をドキドキさせるものを見つけたのです…」

 magical01.jpg

 イヴィが見つけたという魔法の扉をめぐって展開される童話仕立ての物語です。
 見開きのドアを開くと妖精の足だけ見えたり、木の幹にある窓を開けると滑り台で遊ぶ妖精がいたりします。
 最後のドアの向こうでは妖精たちの舞踏会がポップアップで見られるようになっています。特に動くギミックなどがあるわけではありませんが、扉から引き出される舞踏会の広がり方は見事です。
 こちらの本は、鎌倉にある葉祥明美術館の絵本コレクションのコーナーにも展示されていました。

 magical03.jpg magical02.jpg

 今回、ご紹介しました2冊は、文字がデザイン化されているわけではありませんので、絵本として読むということに重点をおけば翻訳本の方が良いかもしれません。
 ただし、価格は洋書の約1.5~2倍になっています。製本や流通コスト、翻訳にかかる費用などを考えれば仕方ないのかな?とは思いますが、もう少し手の届きやすい価格にしてくれれば、と思います。

 シシリーの絵本はこれ以外に数冊出版されていますので、書店などでお見かけになられたら開いてみてください。詩画集とはまた違った世界があります。

 フラワー・フェアリーズリリーと秘密の手紙 (みましょうこ・訳、大日本絵画、2011)
 フラワー・フェアリーズ 魔法のとびら(みましょうこ・訳、大日本絵画、2010)

 ≪葉祥明美術館≫ 神奈川県鎌倉市山ノ内318-4

 葉祥明美術館

 すみません、ここのところ体調が思わしくなく、何か手抜き記事になってしまいました。言葉足らずの部分は、できれば日を改めて少しずつ補筆などしたいと思っています。
 また、シシリーの彩色挿絵入りの絵本「THE LORD OF THE RUSHIE RIVER」(1936年)のご紹介もしたいのですが、現在、貸出しておりますので、そちらも戻ってきましたら、他の本と併せて掲載する予定です。


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Fairyoplis … 妖精の棲む場所

 Fairyoplis Fairyopolis (Fredrick Warne & Co、2005) oplis1-07.jpg

 前回に続いて、シシリー・メアリー・バーカーの仕掛け絵本を取り上げたいと思います。
 と言うのは、今回ご紹介する「Fairyopolis」と「Return to Fairyopolis」は詩画集とは異なり、彼女の手紙や資料がアレンジされています。
 子供向けですので省略してあったり、書き加えられたりしてますから全てが手記としての事実ということではありません。しかし、シシリーの妖精についての見方、感じ方を知る手掛かりにはなります。

Fairyopolis  

 「Fairyoplis」にはポップアップの仕掛けはありません。
 各ページに貼りつけられた手紙、ノート、切符、メッセージカードや本を開きながらシシリーの足跡を辿る感覚で作られています。
 この本は、1923年4月3日の日記から始まっています。
 1923年は、彼女の初めての妖精詩画集「Flower Fairies of the Spring 」が発刊された年にあたります。
 書き出しには、バートンにあるエディスと言う友人の家に滞在し、2,3か月の間、絵を書くことと静かに考えることに没頭したいとあり、彼女が自然の小さな音や動き、花、昆虫などに妖精の姿を重ねていく姿が綴られています。

 「日々の過ぎるのは早すぎます。私は、ほとんど毎日、スケッチをし、日記を書いています。
 けれども、書き留めておく最も大切なことは、説明できない不思議な出来事のことです。
 昨日の午後、休んでいる時に歌声を聴きました。それは何と言う綺麗な音だったでしょう!すごく小さな鈴が鳴るような澄んだ音でした。魅惑的な音で、エディスの庭の端っこから聞こえてきました。
 私は音のする庭の端にそっと近づきました。けれども、私がそばまでよった途端に歌うのを止めてしまい、そこには誰もいず、何も見つけられなかったのです。(5月11日)」

 Return to Fairyopolis Return to Fairyopolis(Fredrick Warne & Co、2008)

 「Return to Fairyopolis」も全く同じコンセプトで編集されています。
 前作から10年が経過した1933年、友人のダルシー(Dulcie)が妖精の存在ついて悩みはじめ、迷いを感じ始めた時期に、シシリーに宛てた手紙を出したことがきっかけとなって構成されています。

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 最初のページにダルシーの手記が載せられています。

 「私は、旧友シシリーの素晴らしい本を読み返しました。その全ては花の妖精たちの見つけ方について書かれています。彼らはとても内気な小さな生き物で、実際に存在します。シシリーの本を読んで以来、私はそうとしか思えませんでした。私は少女のまま彼女と同じ世界に留まり、妖精たちは私にその存在を示していたのです。
 けれど、私はもう長いこと妖精たちを見ていなかったので信じられなくなってきました。私は、シシリーが何か大切なことを教えてくれると思い、彼女に手紙を書いたのです。彼女は、かつて私のおしゃべりを何時間も聴いてくれたものでした。
 私は次の誕生日がくれば16歳になり、もう大人です。私はもう妖精に会えません。私は妖精の友人たちに会うことを愛しんでいます。そして、私はそうなれるようにあらゆる手を尽くしたいのです。(1933年3月1日)」

 隣のページには、それに対するシシリーの返信の手紙が貼りつけられています。

 「親愛なるダルシーへ。私は今朝、あなたからの手紙を受け取り、大変喜んでいます。お互いに交わした最後の手紙から随分と月日が経ってしまいましたね。 
 私はあなたが子共の頃に出会った妖精を覚えていることがとても嬉しいです。
 あなたはあの夏の日、妖精たちのことについて話してくれました。今からもう大分前のことなので、私自身の記憶を確かめるためノートやメモを取り出して見返しました。
 愛すべきダルシー、近々、あなたをお茶にお呼びするかもしれません。シシリーより。(1933年3月7日)」
 
 この後、ダルシーの手紙に対するシシリーの返信、思い出話などで妖精のことが綴られ、信じることの大切さとは何かについて綴られています。
 サセックスの地図なども添えられているので目で追うのも楽しいものです。

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 こちらには最終ページにポップアップの仕掛けがあります。

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 この2冊、とても良い本なのですが、現在、翻訳されたものは出ていないようです。Amazonなどで探したのですけど見つかりませんでした。僕自身も洋書でしか持っていません。
 国内版を販売する場合、雰囲気を壊さないよう付録として本文を和訳した別冊子をつけてくれると助かるのですけどね。

 次で、シシリーの仕掛け絵本については最後にしたいと思います。

 

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仕掛け絵本『妖精のみつけ方』(C.M. Barker)

妖精の本 扉 “ Complete Book ”  山査子の妖精 「山査子(サンザシ)の妖精」
 
 シシリー・メアリー・バーカー(Cicely Mary Barker)と言うイギリスの女性画家を御存じでしょうか?
 少し年配の方なら「森永ハイクラウン・チョコレート」に妖精のカードが封入されていたのを覚えているかもしれません。
 僕が小学2年生~5,6年生くらいまでだったのでしょうか?確かなことは思い出せませんけれど。
 表はシシリー・メアリー・バーカーの妖精の絵がプリントされていて、裏面には詩が書かれていました。また裏面については詩ではなく、詩集申し込み券、フェアリー・フォトフレーム申し込み券などもありました。
 そういえば(いつも)個人的なことですが、詩集申し込み券を送ったけれど、ついに現品が送られてこなかったのを思い出しました。
 「母さん、僕のあの詩集どうしたんでしょうね。そうあのハイクラウンで申し込んだ妖精の詩集ですよ。あの時、必死で買い集めて申し込んだのに、切手だってきちんと貼ったのに、ついに届かなかったあの詩集です…」的な思い出です。

 糸沙参の妖精 「糸沙参の妖精」 糸沙参 

 話を進めましょう。

 上は、シシリーの最初の妖精詩画集「Flower Fairies of the Spring」の中にある「糸沙参(イトシャジン)の妖精」です(隣の画像は実際の糸沙参)。

 シシリー・メアリー・バーカーは、1895年6月28日、イングランド南東部サリー州クロイドンで生まれ、1973年2月16日に亡くなりました。享年77歳。
 クロイドンとは「野生サフランの咲く谷」を意味しています。なだらかな丘陵地帯であり、かつては英国の玄関となっていたクロイドン国際空港(1915年開港、1959年閉鎖)がありました。
 またサリー州と言えば、古くは1215年マグナ・カルタの批准地であるラニーミードがあり、三国同盟締結(1668年)に奔走し晩年は造園家となったウィリアム・テンプルが造りあげた名庭園ムア・パークがあります。そして、近年有名になった「ハリー・ポッター」の家がある場所としても知られています。
 シシリーが生まれた頃のクロイドンは、工業的発展段階にあった新興都市として開発されていた最中でありました。
 シシリーは小さな頃から体が弱く学校に通うことが出来ず、そのほとんどを家庭教師に頼っていました。
 彼女は絵については、最初、父である版画技師のウォルターの指導のもとで学び、その後、クロイドン美術学校の夜間コースに通い着実に力をつけて行きます。
 1912年にウォルターが41歳で早世した後、独学により絵画と詩の技量を高め、それらを生計の糧とします。
 1917年頃から自然と子どもの関わりあいを主題とした「妖精画」を描き始め、まとまった絵本として出版することを決意します。しかしながら、持ち込む先での出版社から良い返事はもらえず、ようやくのことでブラッキー社が25ポンドで版権を買い取り、第一詩画集「Flower Fairies of the Spring」が1923年に発刊されました。
 この詩画集はベストセラーとなり、以後、夏、秋の妖精、庭の妖精、道端の妖精、アルファベット、木の妖精とシリーズ化されて行きます。彼女の死後に未出版稿を集め「冬の妖精」も出版されました。

 彼女の詩画集については目にする機会も多いと思いますので、後ほどご紹介することにして、今回は仕掛け絵本を取り上げます。

 仕掛け絵本は、ローター・メッゲンドルファー(1847~1925年)が、1878年に自分の子どもへのプレゼントとして「Lebende Bilder(生きている本)」を作ったのが起源とされています。
 アニメ「ダンタリアンの書架」の中でも少し紹介されていましたが、彼の作った「インターナショナルサーカス」は、仕掛け絵本の最高傑作で、1つのタブを引くだけで複数の仕掛けが同時に動いたそうです。この本の仕掛けを超えるものは今もってないといわれています。
 同時代に活躍した仕掛け絵本作家には、他にアーネスト・ニスター(1842~1909年)がいます。

 How to Find Flower Fairy “ How to Find Flower Fairies ” ( Fredrick Warne & Co、2007)

 今回、取り上げた本は原題が「How to Find Flower Fairies (花の妖精のみつけ方)」とタイトルされている本です。
 これはシシリーの死後、彼女の描いた妖精の絵をもとにコラージュした仕掛け絵本です。
 彼女の絵を利用した仕掛け絵本としては最も大掛かりなものとなっています。
 最初に見ていただくのは表紙ですが、表紙の中央に木の洞がありますね。この部分に3Dシールが貼られていて角度を変えると妖精が顔を出します。

 妖精の探し方01-2 木の洞 ⇒ 妖精の探し方01 妖精

 見開きの最初のページの左には1930年に書かれた手紙、右には妖精が写っている小さな古いアルバムが添付されています。
 このアルバム、6ページほどですがちゃんと開けるようになっています。

 アルバム
 
 次のページからポップアップ絵本として仕掛けが施されており、「木の上」「木の根元」「庭」「道端」「沼地」と続き、それぞれのページの仕掛けがあり、その木々の合間、草むらの分け目、水際の岸辺を覗き込むと、そこで生活している妖精の姿を見つけられます。

 妖精の探し方03 「道端」 妖精の探し方04 「沼地」

 最後のページには“ THE SUSSEX HERALD紙 ”の紙面がデザインされ、そこに大見出しで「地元の妖精写真をめぐる論争」と記されています。
 その隣にクラシカルな蛇腹式大判カメラの仕掛けがあり、カメラのシャッター近くには妖精がいます。レンズの先にいるモデルも、もちろん、妖精です。

 妖精の探し方05  妖精の探し方06

 日本語の翻訳版も出ていますが、英語の字体そのものがデザインと一体化していますので、眺めて楽しむと言う意味で洋書版のほうが雰囲気が出ていると思います。

 妖精の探し方07「フラワー・フェアリーズのお話」(上野和子・訳、大日本絵画、2008) 

 今年7月に仕掛け絵本ではありませんが、シシリーの妖精の詩画集をコンプリートした本が出版されました。これにはシシリーの描いた8冊の本の全ての妖精が掲載されています。
 エディション(当てにはなりませんが)入りの限定版ということで装丁も綺麗で、中の絵も1ページに1枚の絵が割り当てられ、見開きで絵の途中に切れ目ができるようなこともなく非常に見やすく配置されています。
 価格が高すぎるのが難点(英国で£100)ですが保存版としてはお勧めできます。
 
 妖精画集 函 箱 妖精画集 エディション エディション 妖精画集 セット内容 

 その他のシシリー・メアリー・バーカーの本については何回かにわけて御紹介したいと思っています。

  

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鬼手仏心ー北鎌倉・圓應寺 

 仏経典の中に「鬼手仏心」という言葉があるそうです。
 その意味は、「仏心を以って敢えて鬼となり衆生を救う、誰かを救うために自身を鬼と化して行動を起こさねばならないとしても、心の真は仏の慈悲を以ってなさねばならない」ことです。
 外科手術において、「手術は鬼の仕業の如く体を切り開き一見残酷に見えるが、その手は患者を救おうとする仏の慈悲心に基づいて揮われねばならない」と言う意味に転換され外科医の座右の銘とされることもあるようです。
 最近、読み返す機会があった横溝正史の作品。彼がこの言葉を好んで使っていました。
 小説中の彼の鬼手は「推理」(或いは「探偵」)であり、仏心は真実を見出すことによって加害者、被害者、その周囲の人間を救うことにありました。
 犯罪への報復、応報として暴くのではなく、救うために暴く。しかし、その慈悲心が通じることは少なく、事件の結末は常に悲しみしか残しません。

 夜歩く 「夜歩く」(東京文藝社、昭和32年初版)

 角川の商業戦略の渦中で精力的に驚異的な執筆量をこなしていた横溝正史。
 「犬神家の一族」「八つ墓村」などの実写化、元の小説のヒットの中で、彼は「赤くならぬ ほほずき哀れ 我に似て」という句を残しています。
 作家としての鬼手は小説。
 自身納得づくの作家活動の中で、青いままに終わる酸漿の報われなさの悲哀、落胆の真意はどこにあったのでしょう。
 ファッションとして流行のうちに読まれ、読み取られずに終わる物語の真意に対する我々読者への失望なのでしょうか。
 それとも作家としての仏心を伝えきれずに終わるかもしれない彼自身の小説家としての生き様だったのでしょうか。
 鎌倉へ向かう総武本線の車中で、彼の文庫を手にしながら、今改めてそんなことを思い浮かべていました。

 一年振りの鎌倉行きとなるこの日、東慶寺、圓應寺、建長寺、海蔵寺、長谷寺、報国寺とまわる予定。
 何度も足を運んでいるお馴染の場所ではありますが、その時々心境によって感じ方が異なります。特に今回は圓應寺の閻魔様をご拝顔したいという気持ちが強くありました。冒頭にあげた「鬼手仏心」という言葉と閻魔様が重なり僕に足を向けさせたのです。

 八つ墓村/犬神家の一族 「八つ墓村/犬神家の一族」(大日本雄辦会講談社、昭和26年初版)

 圓應寺の縁起などについては旅行ガイドや趣味のサイトなどにあげられているので重複することは避けたいと思います。
 しかし、何も書かないのでは不親切過ぎるという気持ちもあるので、同寺のリーフレットから抜粋させていただきます。

 宗派は臨済宗建長寺派。山号を新居山・圓應寺。本尊は閻魔大王。智覚禅師により建長2年(1250年)に創建。
 閻魔堂には、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔大王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王の十王が鎮座し、その他、智覚禅師像、奪衣婆、地蔵菩薩が安置されています。本尊・閻魔大王像は、鎌倉時代の仏師・運慶の作とされ、国の重要文化財に指定。
 ここの閻魔大王像についての逸話は、様々なところで紹介されていますが書き添えておきます。
 運慶が頓死して閻魔大王の前に引き出された折、「もし汝が我が姿を彫像し、その像を見た人が悪行を為さず、善縁に趣くのであれば娑婆に戻そう」との慈悲から現世に返され、その後に彫像したと言われています。
 運慶は蘇生した喜びから笑いながら彫刻した為、本尊・閻魔大王像の顔もどことなく笑っているように見えることから「笑い閻魔」と古来から呼ばれているとのことです。
 堂内の説明書き、並びに、リーフレットには十王の裁判についての詳細がありますので、お立ち寄りの際は是非目をお通しください。

 この圓應寺を初めて訪れたのは30年程前の初夏の事。
 高校生活が何となくしっくり行かず、勉学ともに身が入らずの頃、乗り継ぐ当ても、目的もないまま降り立っていた駅が北鎌倉でした。
 僕にとっての初めて鎌倉がこの瞬間だったのです。
 円覚寺、東慶寺、淨智寺、明月院、長寿寺、建長寺と街道筋の古刹を回っていて、ふらっと立ち寄ったのが圓應寺です。
 当時は拝観料はなく、急傾斜の階段を登って解放された小さな山門をくぐり、真っ直ぐにある堂へと向かいました。
 紫陽花も終わり、平日の北鎌倉は道行く人も多くはありませんでしたが、それでも建長寺などは賑わっていました。
 圓應寺は他の観光名所となっている大寺とは異なり参詣する人の姿も更にすくなく、それだけで僕には充分でしたし、とにかく人目につかずに休める場所だけで良かったのです。
 暑い初夏の日差しを避けて閻魔堂に入り、中に置かれた床几台に腰かけ、じっと座っていました。
 堂を入って直ぐ左手の奪衣婆像の印象的な醜い姿がさっと目に入った他は、正面に据えられたユーモラスに見える閻魔大王像の赤ら顔。
 その頃は、安置されている像の説明などもありませんでしたから、どの像が何を意味しているのかもわかりませんでした(辛うじて十王の名前のみ書いた手書きの紙が、置かれた像の前に貼られていました)から、正直に言えば、最初の印象はそれのみだったのです。
 お寺の名前さえ覚えてはいませんでした。
 それが日数が経つうちに「あの閻魔様のお寺はどこだっけかな?」と気にかかり、再度、足を運びましたが、実を言うと建長寺の近くであったことも忘れていました。
 右だったか左だったか、とにかく歩きまわり、その日は見つけられませんでした。
 数日後、再度、鎌倉に足を運び北鎌倉駅から建長寺へ辿り直し、もっと先だったかな?という印象を頼りに建長寺側とは反対へと通りを渡った時、ブロックで固められた急斜面の間にある階段を見て「ここかも?」という思いで入りました。
 まだ昼前だったと思います。やっと着いたという安堵感もあって、堂の床几に腰かけぼーっとしていました。
 学生服で、分厚い皮鞄をもった僕の姿を訝しく思ったのでしょう。
 「今日は修学旅行か、遠足かい?」と庭を掃き清めていたお寺の方に声をかけられました。
 僕は正直に「いえ、さぼっています」と答えました。
 説教でもされるかな、とも思いましたが、その時はその時で立ち去ればいいと考えていたのです。
 しかし、お寺の方はそれ以上問うこともなく、「人は死んだ後、7日毎に裁判を受け、七・七・四十九日後には全ての人は生まれ変われるって聞いたことあるかい?」と話しかけてきました。
 僕は仏教の教えなど興味も知識もありませんでしたから、極めて素っ気なく「知りません」と答え、次に何を言い出すのかをじっと待っていました。
 それから彼は、頼まれもしないのに「秦広王」から「五道転輪王」の説明を始めたのです。その親しげな口調と誇張のない淡々とした話は、僕の興味を引きつけました。
 いつの間にか、二人で床几に腰かけ、閻魔様のこと、運慶の逸話、北鎌倉の話など気がつけば長話になっていました。
 お昼も大分過ぎた時分になって、ようやく僕も腰をあげ、男性にお礼を述べてそこをあとにしました。
 それが圓應寺と僕の関わりはじめであり、地獄の思想との関わりの最初でした。

 十王御朱印 十王御朱印

 地獄の思想について書き始めると蘊蓄めいた僕の悪い癖がでますので、ちょっぴりだけ閻魔様の話をしましょう。
 人を裁くのは最大の罪、地獄での審判の全ての責を負い閻魔大王はその浄罪を行います。天帝の元へ赴き、自らの罪を贖うのです。
 閻魔大王自身、1日3度、大銅钁(だいどうかく)により、焼けた鉄板の上に寝かせられ、それまで大王に従って居た牛頭馬頭を初め獄卒や亡者に押さえ付けられ、熔けた銅を口に流し込まれます。その苦痛のため閻魔大王の顔はいつも赤いと言われています。
 少し教えとしては臨済宗とは異なりますが天台に「忘己利他」というのがあります。
 自分のためにではなく、人のために利することを為す、という教えです。
 仏経というのは底辺に「自分のためにではなく人のために為す。それが浄土への道」というものがあります。
 これを当てはめた時に、「人は自分が地獄に落ちるのを恐れ罪をなさないようにするのではなく、閻魔様が私たちの犯した罪のためにお苦しみになる様を哀れに思い、閻魔様の苦痛を少しでも軽くするために罪を犯さないようにしましょう」という流れが見えてくる気がします。
 自分が地獄に落ちるのを恐れているうちは「利己」なのです。無欲で人のためにしたことが自分にかえることではじめて「利他」となります。
 「あなたが悪いことをすると閻魔様がすごく痛い思いをするの。可哀想でしょう。だから、悪いことをしないようにしましょうね。」
 地獄の恐怖を植え付けるよりも、やさしさを諭すほうがどれほど有意義なことでしょうか。

 仏教の目的のひとつである「安心(あんじん)」は、欲を滅し、自らの罪を懺悔し、真実の自己に目覚めたのちに得られるとしています。
 閻魔大王は、私たち各々が自己の存在、他者の存在に真実の価値を見出し、その日その日の罪を反省懺悔し、個々が救われ「安心」を得られるよう、大きな慈悲の心を以って大王自身を鬼手としていると僕は思うのです。
 
 圓應寺山門  圓應寺山門   

≪圓應寺(円応寺)… 神奈川県鎌倉市山ノ内1543 ≫

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「虫の知らせ」の話

 銀座の交詢社ビルがその重厚で陰鬱な、趣のある姿を残していた頃、遠藤周作先生と一階にあるカフェでご一緒したことがある。
 交詢社は、明治13年に福澤諭吉の提唱により結成されたわが国初の実業家の社交クラブであり、「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」と言う名目がその名の由来であったと先生からお聞きした。
 遠藤先生は珈琲を啜りながら、突然、こんなことをおっしゃられた。
 「君は面白い文を書くよね。ルポやエッセイのような文しか僕は読んだことがないけれど、特徴は生かせていると思うな。でも、君には変な癖がある。」
 「変な癖ですか?僕は文筆を職業としているわけではありませんから、先生のような方にご批評を仰ぐと言う段階にも達していません。稚拙であることは痛感しています。」
 僕がそう言うと、いたずらっぽい笑顔を見せて。
 「いやいや、そんなことじゃないんだよ。君は記事に関しては普通に、と言うか、気を遣って書いているよね。それは読んでいればわかる。でも、手紙、君がくれた手紙ね。あれに変な癖がある。」
 「何かお気に障りましたか?」
 「気に障るとかじゃなく、過去形で最後を締めるでしょう、君は。手紙だとそれが目につく。過去形の手紙。お礼にしろ、予定にしろ、最後は過去形で締めくくる。あれはやめたほうがいい。」
 「はあ…。」
 「というのもね、君に何か事が起きたら遺書みたいでしょう?」
 「遺書ですか?」
 「そう遺書。たとえばさ、君がある日交通事故で死ぬとする。嫌な喩え話だけと怒らないでね」と穏やかな笑みを眼もとに浮かべて話を続けられた。
 「そうすると僕は家に帰って君が先日送ってよこした手紙を開いたとするでしょう。そこに過去形で締めくくられた君の言葉を発見して、こう思うんだよ。『虫の知らせだったのかな』とね。」
 先生はさも愉快そうに笑った。
 僕も面白い譬えだなと思ったので、そのままを先生に伝えた。
 「人はね。常にドラマ、感動的な逸話を求めているんだよ。最後に会った時にこんなことを話していたとか、手紙がどうだったとか、そんなことを引っ張り出しては感動的な話を作り出すんだ。実際にあったことだし、本人がそう思っているのだから、切な思いは充分すぎるほど溢れている。だから聴いている方も釣られて感動するわけだね。まぁ、立派な小説家だな。」
 「確かにそんなところもありますね。亡くなる前日に故人が衣服を片付けていたとか。」
 「片づけは日常のことで、何もその日が特別だったわけではないかもしれないでしょう。それでも外部からは目に付いた。いや、目についたことにしてしまえるんですよ、人間は。」
 「してしまえる、と言うと、思いこみってことですね。」
 「うん、そうだね。人はさぁ、自分に特別なことがある、あったと思いたがっているものなのだよ。だから、少しでも何かあれば、それを結び付けようとする。誰かが話せば、それに対抗して、自分にもこういうことがあったと無理にでもこじつけて話し出す。それが美談になることもあるし、笑い話であることもある。時には涙を誘うこともあるでしょうな。で、そう言う材料と言うのは、得てして無意識に発生する。遺書や当てつけでもない限りはね。しかし、当人はそんなつもりは毛頭ないはず。誰だって生きたいと思って生きているわけで、明日、死ぬんだと確信、或いは、危惧を意識して生きているわけではない。死ぬ可能性は無いというわけではないから危惧はあるのだけれども、意識して行動したりはしないね、普通の人はね。だから、亡くなった人に対して虫の知らせなどと言うことを押しつけること自体、実は失礼だと僕は思うんだよね。」
 「言われてみれば、そうですね。後日談のネタにされるわけですから、当人にとっては気持ちの良いことばかりではないでしょうね。言われて嬉しいことも少なくはないとも思いますけれど。」
 「忘れられているより余程ましかもしれないね。何も話が出てこないのでは、空気のごとくで味気ないからね。まぁ、故人となった身では関知のしようもないでしょうけどな。今日ここでこんな話をして別れた後、どちらかが事故か何かで死んだとする。そうすると今の話は逸話になるね。」
 そう言って先生は愉快そうに珈琲を口に運ばれた。
 幸いにして、これは死亡後日談の逸話にはならなかった。僕は僕で今日まで平平凡凡に生きているし、先生もその後、平成8年の9月にお亡くなりになるまで活力を絶やすことなく執筆活動をお続けになられた。
 ふと今日、これを書きだしていて「ひょっとしたらこれが最後の記事で『虫の知らせ』になるかもと思ったら、あの時の先生の無邪気な笑顔を思いだして笑ってしまった。

 青い小さな葡萄 「青い小さな葡萄」(新潮社、昭和31年初版)
 
遠藤周作「青い小さな葡萄」
 「青い小さな葡萄」は、雑誌「文學界」に掲載された先生の長編小説の処女作。表題作の他に「コウリッジ館」、雑誌「群像」に発表された論文「有色人種と白色人種」が収められている。装丁は、山田申吾。



 

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パラケルスス ~ ダンタリアンの書架 ~

ダンタリアンの書架 「ダンタリアンの書架」(三雲 岳斗、角川スニーカー文庫)

 三雲 岳斗のライトノベル「ダンタリアンの書架」は、少女ダリアンと幻書を巡って展開するホラーミステリーです。
 物語の舞台・時代背景はクリミア戦争(1853年~1856年)を経て第1次世界大戦(1914年~1918年)後のイギリス・ロンドンとその郊外です。
 主人公のヒュー・アンソニー・ディスワードは、蒐書狂であった祖父から悪魔の叡智、魔導書「幻書」を封じた壷中天「ダンタリアンの書架」とその「守り人の鍵」を相続したと言う初期設定で展開して行きます。
 この物語中には個人的にも興味深い設定がいくつかあります。
 たとえばダンタリアンの名を冠したこと。
 ベリトやアシュタロトにしなかったところに原作者のセンスの良さが見える気がします。
 ダンタリアンは、ソロモン王により封印された72柱71番目の悪魔の侯爵であり、招喚時には無数の人間の男女の顔を纏った姿で現れ、あらゆる芸術、科学を収めた叡智の書物を持っているとされています。
 原作は現在も継続執筆中で、巻を増すごとに楽しく読ませていただいております。
 アニメも今年7月から放送が開始され、GAINAXを中心にブレインズ・ベース、童夢、Silver Link、Deenなど日本の主だったアニメ制作会社が協力し2011年前半のアニメとしては出色の出来です。
 アニメ自体は原作と始まりを異にし、原作の第四話「仕掛け絵本 Episode 00」を第1話に持ってきています。
 アニメを含め物語の詳細についてはファンも多く、様々なサイトで情報が交換されているのでそちらにお任せして、その中に使われた「パラケルスス」について少し懐かしくなったので書くことにしました。

パラケルスス 「パラケルスス」(スティルマン 著、原光雄 訳、創元社、昭和18年初版)

 僕が「パラケルスス」について調べていたのは1997年冬~2001年の春頃までだったと記憶しています。
 知人の研究に協力して書籍を国内外から収集し、生地であるスイス・アインジーデルンを初めロンドン、フィレンツェ、プラハ、ブダペスト、バーゼル、ザルツブルクなどにも足を運びました。
 調べていくうちに日本国内では認知度の低い人物ですが、ドイツ、アメリカではかなり研究が進み、医療化学の起源として位置付けている研究者もいるほどの影響を与えていることを知りました。
 「ダンタリアンの書架」中では「錬金術師、パラケルスス」として紹介されていますが、それは少し誤謬があると思います。

 パラケルスス、本名をテオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイム。
 1493年スイスのアインジーデルンで生まれ、1541年オーストリアのザルツブルクで没しています。
 当時の著述家がキリシア語、或いは、ラテン語名を使うと言う慣例に従い「ホーエンハイム」をラテン語化した「パラケルスス」を著書によって使い分けていました。
 この名の由来については、彼の父親(同じく医者をしていた)がローマの伝説的名医ケルススを凌ぐと言う意味から名付けたとの説がありますが、今日では一般的に支持されてはいません。
 「彼は何を為した人なのか?」と言う論議においては、その評価と共に今なお混沌の中にあるとも言えますが、職業は医者(医学博士)であり、その著書の大多数は医術に関するものでした。
 基本的に彼は、医術に錬金術(化学)を用いようと試みた医療化学時代への橋渡しをした開拓者の一人なのです。
 それが何故に神秘主義の錬金術師のように扱われるのかについては彼の生まれた時代背景をもとに考えると僅かながら見えてくる気がします。

 パラケルススとその周辺 (A.コイレ著、鶴岡賀雄訳、白馬書房、1987年初版)

 彼が生まれた年はコロンブスがアメリカ大陸を発見した翌年です。その5年後にはバスコダガマがインド喜望峰航路を発見するなど世界は大航海時代を迎えていました。また宗教においては、フスの火刑、ルターの宗教改革などもこの時期でした。
 同時代の著名人をあげるならば、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、マキャベッリ、コペルニクス、トマス・モア、エラスムス、アグリッパなど枚挙に暇がありません。
 経済、文化、芸術はルネサンスの機運に押され大きく変動を迎える時期であったのです。
 しかし、W.Windelbandが「自然は教会が封印をした閉ざされた書物であった」と言うように自然科学においては大きく立ち遅れ、哲学(医術を含む)においては新プラトン学派(カバラ数秘術の影響を取り込んだ)が主流をなしていました。
 新プラトン学派の考えについては、アグリッパの「自然魔法」での著述を例にあげておきます。
 「世界は元素、星、精神の3元素から成り立っており、下の世界のものは上の世界に支配されている。宇宙の創造主と原型は、自己の全能の諸力を天使、天、星、諸元素、動植物、鉱物等を通じて人間に流入させる。」
 彼はアリストテレスの四元素(火土水気)からあらゆる物質は成り立っているとの考えを主に置き、宇宙の事物の本性に関する知識である物理学。自然の知識と天体軌道の観測法を基礎とする数学。神、霊魂、悪魔などについての知識である神学を科学の中心においていました。
 これはアグリッパのみならず当時の科学者(哲学者、錬金術師、医者)の通説であり、鉄則に近いものでもあったのです。
 星、天使、悪魔、精霊などの影響は一般的に信じられており、虚構と迷信の領域に留まる想像上のものを自然現象一般として捕えていました。これらは特別な神秘主義にはあたらない常識の範疇にあった時代でした。
 かつ、宇宙世界は、地球を中心に各天体が回っているというのがキリスト教世界においてはまだ大多数の真理だったのです。
 パラケルススも当然、この新プラトン学派を基底にして自己の哲学を展開していました。その一部に改変を加えていたと言った方が適当かもしれません。このことが彼の著述、言動に矛盾を与え、後世の我々にとって理解しにくくしたのは否めません。彼は哲学者としては手抜かりだったと言えます。
 たとえば「星の影響」という神秘的な考えを「天体は地上に秘密の影響を生じせしめる神秘的な性質を少しも持っていない」と拒否したかと思うと、「星の効力を理解せよ。星も天性と性質をもっており、変化をも行う。(-中略-)有毒な星はその毒で空気を汚染し、それらの星の性質ももった病気が地上に出現する」と述べたりもしています。
 彼は経験則と実験を重視し実効性のある医療化学を目指すには突出した実績と能力をもっていましたが、哲学に関しては借り物に手を加える程度に留まっていたのです。
 彼の意識の中心においては哲学自体への関心が希薄だったと言えます。
 これは1527年バーゼル大学に告示された彼の医学講義の予告掲示で「自分は古い書物を教えるのではなく、自然についての自分の知識と試練を経た長い経験によって医術を教えるであろう」との明言からも察せられます。
 パラケルススの医術に対する姿勢は、エラスムスやアグリッパが「常に占星術に従って薬を調合し、患者にあらゆる種類の護符をぶらさげ、高価な外国産の薬を用い、それらを無駄に混合し、互いの作用を打ち消しあい、人間の英知をもってはその効果を予測できない」と辛辣に評した当時の医師(ガレノス派、アウエロス派等)から反感を買うものでした。
 ここでパラケルススが提唱した「アルカエウス」という精霊、或いは、分別能力と「天賦の力」について簡単に述べておきます。
 「食物中には栄養分と毒物とがあり、これらは体内で分別され、毒物は排除されなければならない。この分離は『アルカエウス』という指導的な力、精霊によって行われている。また肉、血管、身体、骨などの本性の中には傷その種のものを治癒する『天賦の力』がある。従って外科医は治癒を行うのは自分ではなく、身体内の力であることを知らねばならない」というものです。これは中世においては非常に画期的な考えであると同時に、宗教社会そのものに挑戦する提唱でもありました。
 さらに彼は、当時、医学の講義は「ラテン語でなされなければならない」という暗黙の(絶対的)了解を無視し、「医術はごく一部の特権的知識人のものに非ず」という信念、並びに、自己の説を一般に広めるため(支持者を得るため理解しやすいよう)にドイツ語で講義を行いました。これは反感に反感を買うことになったのです。
 事実、彼は間もなくバーゼルでの暮らしに身の危険を感じ取り、夜陰に紛れて脱出しています。
 
 パラケルスス 自然と啓示 (K.ゴルトアンマー著、柴田健策他訳、みすず書房、1986年初版) 

 こうした状況が彼の死後、ガレノス派と一世紀以上に及ぶ苛烈な対立を生みました。それが彼の評価を混沌ならしめたものなのです。
 つまりパラケルススの軽信的で愚劣な一部の支持者、追従者は、彼のカリスマ的ステータスを民衆中に高めるため不可思議千万な奇跡話や伝説を流布し、書物として刊行しました。
 一方、反目する学派側も敵意と悪意を以ってパラケルススの性格と生涯を毀損するために異端神秘主義的(黒魔術的、怪奇的)伝説を捏造し広めたのです。
 「なんという徒労、馬鹿なことを!」とお思いの方もいるでしょう。しかし、当時のもっとも有効な見解の相違の解決法は、過去の哲学者や神学者の著名な言葉による弁証法的議論と嘲笑、悪罵、揶揄によって貶め社会的評価を弱めることにあったのです。(ルーアンにおけるジャンヌ・ダルクの諮問を思い浮かべていただければ想像しやすいかと思います。)
 バルトロイモス・ジョービンガーの1576年4月付けの手紙が残っているので紹介しておきます。
 「私はテオフラストゥスを良く知っていた。彼は亡くなった私の義兄(ザンクト・カルレン市長クリスティアン・シュツーダー)の家に27週間住んでいた。彼は一部分は神秘的な、そして一部分では彼自身も信じてはいなかった、或いは、理解していなかったことに関して多くの著述を残した。彼自身の言葉であると同時に、単なる他者の書物からの抜き書きも混在していた。(-中略-) 現在、テオフラストゥスが見たこともなければ、書いたこともない書物が数限りなく彼の名のもとに印刷されている。私がそう言うのは、私は彼の字体、文体と彼の慣用的な書き方を良く知っているからである。」
 ヨハネス・フーザーは公私のコレクションの中から利用しうる全てのメモ、論文、著書を収集照査し、その出典を明らかにすべく生涯を費やしました。その労力の甲斐あって、かなり正確に分別していると評価され、以後のパラケルススの研究における功績は特筆すべきものがあるでしょう。
 
 わが国でパラケルススが神秘主義者の最右翼と認識されるようになったのは種村季弘氏の著書による影響が大きいと見られます。
 これが間違っていると非難否定するものではありません。
 興味を抱く分野は多岐に亘るべきですし、こういった余裕というか、ある種の「ゆとり」として解釈を楽しむのも良いのではないかと思います。
 視点を変えることで理解のありかたや創作的発想が見えることもあるでしょう。(「ダンタリアンの書架」や「鋼の錬金術師」のように作品構想の端緒、材料ともなります。)
 しかし、ただ面白いからと言って一説に傾倒し、一方向的、盲信的な知識で捕えると事実の認識には偏りが生じ、思考そのものが閉塞する危険性があります。それは常に僕自身においても肝に銘じておく必要はあると思っています。

(あ~、長かった…。こんなになるつもりはなかったのに…。読んでくださった方、お疲れさまでした。ありがとうございます。)


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