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深夜ラジオ

 「雲が押しかかる様に低く空に掛った、物憂い、暗い、そして静まり返った秋の日の終日、私は馬に乗って唯一人不思議な程うら淋しい地方を通り過ぎて行った。そして到頭夕暮の影が迫って来た頃、陰鬱なアッシャー家の見える所までやってきた。」
 エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」の書き出しです。

アッシャァ家の没落 奥付 「アッシャァ家の没落」 (谷崎精二訳、新潮社、大正14年初版)

 彼は、1809年に旅役者をする両親の子としてアメリカのボストンで生まれ、1849年バルティモアの酒場で飲酒がもとで人事不省に陥り世を去りました。
 僕がエドガー・アラン・ポーを積極的に読みだしたのは、高校受験に備えていた頃の深夜ラジオがきっかけでした。
 覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、「高島ヒゲ武の大入りダイヤルまだ宵の口」の番組の中に「キリン夜の図書館」というのがありました。
 そこで「アッシャー家の崩壊」の朗読を聴いた翌日に本屋に走り、エドガー・アラン・ポーの作品集を買い求めました。
 TBSラジオの「夜はともだち」の中にも「夜のミステリー」という同様の番組があり、どちらが面白いかプログラムを比べてよく耳を傾けていました。
 これらの番組で放送された中には、横溝正史の「八墓村」や萩尾望都の「ポーの一族」、艶話版「平家物語」などのラジオドラマなどもあったように記憶しています。
 それらは実写映像よりも落ち着いて鑑賞することができましたし、何よりも「深夜ラジオ」ということが気持ちを惹きつけていたのだろうと思います。

 最近では車の運転中に極稀にしか聴かなくなってしまったラジオですが、今思えば、当時の情報源の多くを深夜ラジオからもらっていた気がします。
 受験勉強などそっちのけで、銀座山野楽器提供の「えみこの長いつきあい」とか、「歌うヘッドライト」など朝が来るまで親の目を気にしながらイヤホンで聴いていました。
 もちろん、たまには勉強に役立つものも聴いていましたよ。「百万人の英語」の中の「Kumiko's open room」は大好きでしたから。
 音楽もラジオが中心でした。
 ヤマハ提供の「コッキー・ポップ」は聴き逃せない番組の一つでしたね。
 深夜ラジオではありませんが、日曜日の不二家提供「歌謡ベストテン」は姉がよく聴いていました。
 クラシックでは、やはりNHK-FMでした。
 「演奏、フィラデルフィア管弦楽団、レオナルド・バーンスタイン指揮。ピアノ、ルドルフ・ゼルキン。ベートーベン・ピアノ協奏曲第1番ハ長調、作品15」などという通ぶった言い方を覚えたのもここでした。

 ラジオから流れてくるキャスターの声は、温かくて優しい、それ自体が音楽のようなリズムをもっていましたね。
 声で忘れられないといえば、城達也さんが堀内茂男さんの散文詩を読み上げ、洋楽を中心として構成されていた「ジェット・ストリーム」です。
 「…夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは遠ざかるに連れ、次第に星の瞬きと区別がつかなくなります。お送りしてますこの音楽が美しくあなたの夢に溶け込んでいきますように。ではまた午前零時にお会いしましょう。おやすみなさい。日本航空がお送りしたジェットストリーム 、そろそろお別れの時刻が近づいてまいりました。皆様のお相手は、私、城達也でした。…」
“ミスター・ロンリー”をバックにして流れる声を今でも思い出します。

 小学校高学年くらいから中学まではSW波、いわゆる短波放送で諸外国の国営放送を受信するのが友達の間で人気がありました。
 放送開始時刻にあわせて、夕暮れに自宅の屋上にラジオを持ち出し座り込んだり、眠い目をこすりながらまだ夜明けやらぬ時間にラジオをチューニングし、「今日はラジオ・オーストラリアの受信に成功した」とか、「また朝鮮放送しかダメだった」とか学校で顔を合わせると話をしていました。
 動物の鳴き声の効果音に乗って流れてくる「This is Radio Australia …」などという放送開始の冒頭をラジオカセットで録音してコレクションし、何ヶ国の放送が集まったかを自慢してみたり。
 とにかく夢中になって、より良いラジオを求めて秋葉原のラジオ・ショップに出入りし、そこの店員と仲良くなり夜中にビルの屋上に集まって皆で周波数を苦心して合わせながら聴いたりもしました。

 今日、久々に車の中でNHK-FMをつけ「みなさまからのお便り」を聴いていて懐かしくなり、ここにちょっと書いてみました。



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高橋真琴先生のお姫様の絵 (5) 星の瞳

春の女神 喜寿記念作品「春の女神」 春の女神

 高橋先生の喜寿記念画集「MACOTOPIA」の発刊記念パーティが7月23日、24日両日に渡り、出版記念展覧会会場であるヤマナシヘムスロイド表参道で行われました。
 銀座での個展が終了し、関西での展覧会の準備をされている中でのイベントとなりました。
 会場は画集収録作品の原画を中心として構成され、貴重な高橋先生の自画像(1952年)や高橋先生のデッサン帳、小川未明「赤い蝋燭と人魚」の挿絵、うろこひめの挿絵などが展示されていました。
 また、8月に誕生日をお迎えになられる先生のバースデイパーティもひと足先に併せて開かれました。出席者にはバースデイケーキの代わりに可愛い白鳥のお菓子が供されました。

 ヤマナシヘムスロイド表参道 会場 アニバーサリー・ガトー 白鳥のお菓子 オブジェ オブジェ 

 私は24日のパーティに参加させていただきました。
 当日は、高橋先生のトークショーがあり、先生の描く星の瞳の話をお聞きしました。

 それは先生がこどもの頃にお読みになったフィンランドの童話作家・トベリウスの「星の瞳」に影響を受けたことに由来するようです。

 「星の瞳」とはラップランドの不思議な少女の話です。

 ラップランド人の夫婦が山深い雪道で狼に追われトナカイの橇を必死に走らせておりました。女の人の胸にはしっかりと赤ん坊が括りつけられていましたが、ふとした弾みで雪の中に落としてしまいました。橇を止めようとしましたが狼に狙われ逃げるトナカイを停めることはできず、赤ん坊はひとり取り残されてしまったのです。
 しかし、狼たちは飢えているにもかかわらず赤ん坊を食べようとはしませんでした。その瞳には不思議な力があったのです。
 赤ん坊はたった一人で残され星を見ていました。
 星もその子を見降ろしているうちに温かな友情が生まれ、ひとりぼっちのその子を憐れんだのか星の光をその瞳に宿らせました。
 神様の采配でしょうか。その子はフィンランド人の男性シモンに拾われ、その妻と3人の男の子と暮らすことになりました。
 その子は養母によって「エリザベート」と名付けられましたが、洗礼をほどこした牧師は子供の目が星のように輝くのに驚き「お前は星の瞳とよばれたほうがいい」と言ったほどでした。
 星の瞳は清らかな優しい子に育ちました。
 その間、シモンの家は狼に襲われることもなく羊が増え、お金も入るようになり、すべてが順調になって行きました。
 星の瞳が4歳になった頃のことです。養母はその子が普通ではないことに気付きました。
 彼女は、人の心を見通す瞳をもっていたのです。
 たとえば、難儀した旅人を泊めた時、その男が盗んだ指輪を口の中に隠し持っていたことを言い当てたことがありました。また、養母が牧師へ大小どちらの鮭をあげようか悩んでいる時に、口にも出さず胸に思っていたことを星の瞳は人形遊びのなかで言い当ててしまったりしました。
 養母は星の瞳を地下の蔵の中に閉じ込めることにしました。
 しかし、地下にいても星の瞳は夜空の星を眺めることができましたし、離れた階にいる人々の心を読むこともできました。
 養母はラップランド人が魔法を使うと信じていましたので、星の瞳もきっとそうに違いないと一層薄気味悪く思ったのでした。
 ある日、隣に住むムッラが養母に助言をしました。
「七枚の布で目を隠し、七枚の敷物で床を覆ってしまえばいい。」
 養母はその通りにしました。
 しかし、星の瞳にはまったく無意味だったのです。
 そして、ついに夫の留守中にムッラの差し金により、星の瞳は雪山に捨てられてしまいます。
 「あの子は雪の上から来たんだから雪の上に帰ったまでだ。」
 ムッラはそう言って星の瞳を置き去りにしたのです。
 クリスマスの朝、夫が街から帰ってきました。そして妻に話します。
 「ゆうべ、夢を見た。星がひとつ、そりの毛皮に落ちてこう言ったんだ。『私を拾って大切にしてください。私はお前の家の祝福の徴なのですから』と。さあ、星の瞳はどこだい?会わせてくれないか?」
 妻の代わりに3人の男の子が星の瞳が閉じ込められたことやムッラに捨てられたことを話しました。
 そしてとうとう妻は困り果て、ことの次第をすべて話しました。
 シモンはすぐさまムッラを連れスキーを履いて、星の瞳を捨てた場所へ案内させました。しかし、そこにはもう星の瞳はいませんでした。
 長い間探しましたが見つけることができないまま帰途につく中で、ムッラは狼に襲われ引き裂かれてしまいました。シモンが助けに戻った時にはもう手遅れでした。
 朝になってシモンが帰宅すると妻は、夜のうちに羊がすべて狼に襲われたことを話しました。
 「神様の罰が始まったのだ。」
 シモンはそう呟きました。

 これが物語の大筋です。

 先生は、この「星の瞳」の前に立った時に心を読まれても恥じないように生きてゆくこと、それから、描いた女の子の瞳が「星の瞳」のようにすべての人を幸福に導いてくれるようにとの思いを込めたそうです。
 
 星の瞳 「星の瞳」(萬澤まき訳、1946年・初版)

 先生のお話を聞き、画集「MACOTOPIA」を見ていますと、先生が思い描く幸せな世界がそこに展開します。
 緑と花に溢れ、多くの動物に囲まれ、そこでは争いや差別などなく、すべてが等しく生きている世界。
 高橋先生は最後に「次は米寿、それから100歳まで頑張ります。ユートピアならぬマコトピアを精いっぱい描いていきたい」とおっしゃっていました。

 会場で高橋先生は「ひとりでも多くの人と話し、そこからパワーをもらっている」と言われましたが、私は先生の絵から限りない希望をいただいております。
 社交辞令ではなく、心より先生のご健康をお祈りさせていただきます。

 最後にトベリウスが物語に書き添えた一文をご紹介します。

 「小さな星の瞳よ、私はいつかあなたに会ったことがあります。何処でとは言いません。でも、あなたは私をみて、私の考えを読み取り、私があなたを愛していることを見抜きました。誰があなたを愛さずにいられるでしょう。輝く瞳の中に星を宿している優しいこどもを!」

 
 MACOTOPIA 「MACOTOPIA」 記念品 パーティ来場記念品

 



 
 

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明治33年のライトノベル

 台風が去った後、川の淀みに小さな白い花が敷物のように散り広がっていました。
 「水面の花を恋に譬えた物語があったような…」とそれを見ながら考えていましたが、一向に思い出せません。
 思い出せないというのは気持ちが悪いものです。まるで風邪薬のカプセルが上部食道括約筋あたりでつっかえている少し焼けるような異物感。或いは、内臓が痒い気がして掻いてみるものの筋肉越しでは効果がないような、そんな感じ。
 一度、思い出そうとしたものをそのまま放置するというのは難しいもので、頭からつかず離れずで、ちょっとした合間にも「思い出せないものか」と探ってみたりするものです。
 帰宅後に本棚や床に置き去られた本の背表紙を眺めまわして「どれだっけかな?」と当てにならない記憶を頼りに手探り。
 午前2時をまわったところで、ようやく記憶違いに気付き、当該書籍を発見して一件落着、スッキリとしました。
 それは物語そのものではなく、江見水蔭(忠功)の小説集「戀」の序文に引用された一節だったのです。

 「花はみな藤も櫻も山吹も かへらぬ水の上にちりつつ
  朧夜の花のもとにて夢みてん むかしの戀のかげや見ゆると」(田山花袋)
 
 この「戀」は、恋愛に纏わる短編を集めたものです。
 ほろりとさせられる純愛もの、コミカルな失恋もの、ちょっと蔭残な話まで様々に取りそろえた恋愛のオムニバス。
 恋愛小説など、うけない、売れない、くだらないと言われた硬派な明治文学隆盛の時分に、水蔭が強いて発表した大衆向け娯楽小説集です。
 結果としては売れました。特に若い方に支持されたみたいです。
 言うなれば、明治33年に発行されたライトノベルですね。

 戀(表紙) 表紙 戀(扉)戀(奥付) 奥付

 水蔭はこの小説集の中で「恋は人に限らず」という姿勢をもって臨んでいます。人に限らずといっても相手が物の怪というわけではありません。
 この集中に「花守の戀」という短編があります。粗筋を簡単に述べれば次のとおりです。
 
 ある良家の庭には、良く手入れされた目にも美しき撫子が一面に咲き、中央にはベンチと大理石の獅子の彫像が置かれていました。
 その家には十四、五になる令嬢がひとり。
 ある日、彼女が艶やかに着飾った姿でベンチに掛けようか、掛けまいかを思案している最中、突然に物陰から躍り出たものがありました。それは花守をしている男だったのですが、彼女は獅子に似た醜男が現れたことに驚き、大層憤慨して彼を責めます。
 驚かすつもりはなかったと平身低頭して謝る男に「お前が急に現れて驚いたので熱が出てきた。琴の稽古を休む」と言いがかりをつけ、父に申し出て男を庭に入れないようにすると言うのです。
 男は「自分は花守だから庭に入れないということは放逐されるということなので困る」と泣いて許しを懇願します。
 しかし、彼女は「私はお前が大嫌い。お前のような汚い男がここにいると恥ずかしくて友達も呼べない。お前がいないほうが花園は綺麗だ」と追い打ちをかけ、更に「先の持ち主の令嬢はお前を可愛がったか知らないが、私はお前が大嫌い」と言い捨てて立ち去ろうとします。
 それを引きとめようと男は彼女の手を取りますが誤って二人とも植え込みに倒れ伏してしまい、彼女は男に襲われたと大声をあげ、それを聞きつけてきた召使に取り押さえられ、結果、放逐されることとなりました。
 明くる日、家人が庭で目にしたものは無残にも狼藉の限りに蹂躙された撫子の花。そして、彫像の下には花鋏で喉を掻き切った男の死骸。その血は獅子の像に飛び散り、泉の水を鮮血に変えていました。
 水蔭はこの物語を次の一文で締めくくります。
 「物凄き此死状に、一点の美を留めたは、折れぬ撫子の花一輪、死しては誰一人手向ける者の無いを悟ってか、斃れたる前に立ててあった。」

 恋とは「するもの」ではなく、もっと不可抗力的な「してしまうもの」なのかもしれないですね。「恋に落ちる」とはよく言い当てたものだと思います。
 心を奪うものは何も人に限らないのです。気づいたら絵の中の少女や花や蝶、時には思い出にさえ本気で恋焦がれてしまう。
 古典で「愛しい」を「かなしい」と読むように、純粋に美しすぎるものは哀しいのです。
 愛を満たす心の器には許容量のようなものがあり、それに収まりきらず溢れだした思いは憎悪にさえ変わります。受け止められなかったのは自分なのか、相手なのか、それは永遠にわかりません。
 愛と欲とは同義語だと言う人もいますが、愛の同義語は憎であり、反意後が欲なのだと言う人もあります。どちらなのかは果てまで落ちてみなければわからないことです。
   
 

 


 

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ほおずき、蚊帳、花氷

 「桜の木の下には死体が埋まっている」とは梶井基次郎の小説。
 こう暑いと、葉を茂らせる桜の下で涼んでいるうちに行き倒れになりそうです。みなさん、水分と塩分は充分に取りましょう。脳の水分が不足すると非常に危険です。まあ、水分が不足しなくても危険な人は多そうですけどね、別の意味で。
 この夏はクーラーの使用を限界まで我慢する気で頑張ってはいますが、どこまでもつかは自信がありません。
 ところで、関東地方の梅雨が明けた先週9日の土曜日、台東区浅草寺のほおずき市に足を運びました。
 水をかけられて緑を濃くした葉、艶を増すほおずきを眺め、涼を打つ風鈴の音を楽しんできました。しかし、それらの涼を感じさせる風物が意味をなさないほどの暑さ。救われたのは人出があまり多くなかったことでしょう。仲見世は相応の混雑をみせていましたが、例年のように歩けない、進まないというようなことはありませんでした。
 今年は節電対策で夜間の市は自粛し、やや趣の失われたほうずき市ではありました。それを知らず夜に参詣する人も多かったのではないかと思います。
 ほおずき市と言えば、アセチレンランプに照らされて橙に映えるほおずきや一列に吊り下がっている風鈴の絵模様、露を含んだ釣り忍、海ほおずき、それから水の中で浮き沈みする色とりどりのスーパーボール、金魚すくい、綿菓子、あんず飴などの屋台の毳々しい色を照らし出す光の眩しさ。やはり夜の市の印象が強く残っています。
 アセチレンも焚かなくなり電球に代わってもう随分と経ちます。海ほうずきもすっかり見かけなくなりましたね。
 ほおずき市に限らず、縁日など夜の祭屋台のどこか異世界めいた不思議な明るさは、懐かしさと憧れと、ときめきに似た不安を投げかけてきます。
 この日、帰りがけにほおずきを一鉢買い求めました。

 夏と言えば、かつてはどこの家庭でも蚊帳というものがありました。薄い紗幕の正方形のテント状の蚊避けです。子供のころはその綱を張るのが好きで、隠れ家のような楽しさがありました。
 蚊帳の中で姉と巫山戯ていて破ったことも何度かあります。えらい怒られましたね。うちはそのころお世辞にも豊かとは言えなかったので蚊帳ひと張りにしても貴重でした。破れたところを母が縫い合わせていたのを思い出します。その蚊帳も昭和40年代半ばくらいまででしょうか?それ以後は見かけなくなりました。今でも売っているのかな?あればひと張り手に入れたいものです。
 かつての夏の風物で見かけなくなったものは他にもありますね。「花氷」と言うのをご存知ですか?
 大きなスーパーやデパートなどに行きますと天井に扇風機が取りつけらていて、その下に必ずと言って良いほど巨大な氷の塊が置いてありました。その氷の中には、様々な花や花びらが閉じ込められていて、思わず足を止めて見とれるほどでした。
 その花氷もクーラーの普及と共に姿を消し、今では婚礼の席か、高級料亭にでも行かなければ目にする機会もなくなりましたね。
 桶から手で掬って水を撒く打水の光景もあまり見かけなくなったようです。今では如露やホースで撒くことの方が多いのでしょう。ホースなどで散水するのは打水ではなくて「水撒き」と言います。手で掬うから「打つ」と言うのです。
 でも、ホースでの水撒きもあれはあれで楽しめます。先端をすぼめて霧状にして撒くときにできる小さな虹を見つけるのも面白いものです。撒き手も、もっと上手く虹を作ろうとか思ったりして。
 
 僕の知らないもので実用性の喪失と共に失われた風物も多いことでしょう。知らないことが多すぎますね、きっと。こんな時代だからこそ見直されるべきものもあると思うのに。
 便利さに慣れるというのは不便なことです。応用が利かないと言うか、耐える術が身につかないと言うのか、一面では不幸なことでもあります。恩恵は恩恵として受けるにしても、過度に頼らないようにしたいものです。

 

 

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川端康成

 紫陽花 
 七夕、笹の葉、千羽鶴。
 織女、牽牛、天の川。
 いずれの言葉で始めても何か書けそうな気がします。
 今日は七夕。
 予報では蒸し暑い一日になりそうです。 
           
 上野公園を過ぎて不忍通りをぐるっと回るように進み、池の端ホテルを越え、もう少し行くと左手に本郷へと向かう小さな坂道があります。森鴎外の「雁」にも登場し、池内淳子主演のテレビドラマの主題歌で有名にもなりました「無縁坂」です。
 僕がこの坂を初めて通ったのは小学校に入る前の事であったでしょう。当時、東大病院に入院していた妹の見舞いに連れられた帰り道。母と姉と共に不忍池、上野広小路へと下ったことを記憶しています。
 東大は大学紛争の名残と新たな争議の最中であったのか、60年安保に関する抗議看板と病院職員の待遇改善を要望する貼り紙などが混在していました。子供の目にはその意味すらわからず物珍しく眺めたものでした。
 東大病院にはいくつかのアーチ状通路がつくられており、そこを通り抜けるようにして入院棟に入ります。その通路の1つに天井画、壁画が描かれていました。漆喰は幾分煤けて、ところどころ経年により剥離していました。しかしながら、天女の絵は鮮やかに観てとれ、薄衣を纏い舞う姿は幻想的で、それゆえに僕にある種の怯えさえ生じさせました。殊に雨の日や曇りの日には、ぼうっと照らし出されたその絵が尚更に恐ろしく見え、走り抜けたものです。
 今なら笑い話になりますが、東大病棟内の階段に置かれたブロンズ像も僕を大層怖がらせました。僕にとって東大病院はそのまま幽霊屋敷のようなものだったのです。唯一、三四郎池を除いては。
 病院棟を野球場の方へと周り、風化した煉瓦塀の階下にある生協の前を行きすぎると木が生い茂った林のようなものが見えてきます。三四郎池はその奥にありました。夏目漱石の「三四郎」ゆかりの池ということで名付けられたと聞いています。僕が亀やタイコウチを初めて捕まえたのもこの池でした。
 また大学構内には銀杏が多く、そのどれもが子供にはひと抱え以上もある立派な木立でした。秋には見事な大粒の黄金色の実がなりました。僕はそのぎんなんを拾って持ちかえり、貴重なおやつにもしました。
 その頃の僕にとって、東大病院はお見舞いの場と同時に、小旅行にも似た場所だったのです。

 こんな思い出話を。

 昭和45年頃なのか、その翌年だったのか、季節も春だったのか、秋であったのかも覚えてはいませんが、陰鬱な病棟から出てひとり銀杏の下で遊んでおりました。
 膝を抱え銀杏の根元にある蟻の巣から幹に沿って続く、その果てもないような飴色の行列を眺めていました。
 すると男性が近づき話かけてきたのです。
 「何を見てるのかな?」
 僕は不意をつかれた戸惑いと恥ずかしさから顔をあげることもせず答えました。
 「アリ、アリを見てる。」
 「蟻ね」と少し言葉を区切った後、「近所の子?お見舞いかな?」
 「妹のお見舞いに来た」と答えて僕は顔を上げました。
 男性は濃いグレーの背広を着ており、白髪混じりのやや乱れたような髪、そして、ぎょろっとした目で僕を見降ろしていました。
 「蟻は面白いかい?」
 「うん。」
 「どこが面白いのかな?」
 「行列をして働いてるとこ。」
 男性は、僕の隣にしゃがみこんで一緒に蟻の行列を覗き込みました。
 「行列はどこまで続くと思うかい?」
 「夜まで、ずっと。木を登り続けて、帰って来ないアリもいるんだよ。死んじゃうまで続いてる。」
 僕は、恐らく男性の質問にどう答えて良いかわからなかったのだろうと思います。本心からの返答であったのか、照れ隠しのようなものであったのか、いずれにしろ曖昧に答えようとしたのです。
 男性は、僕を見て、蟻を眺めて、再び、僕の方を見て言いました。
 「そうかもしれないね。」
 その時、少し離れた先に一台の黒い車、ハイヤーが停まり、若い男性が彼の元へ急ぎ走りきて「先生、お車のご用意ができました」と告げました。
 彼は「わかった」と短く答え、立ち上がると僕に向かってこう言ったのです。
 「蟻は帰ってくるために働いているのかもしれないよ。」
 僕はその意味が全くわからず、その不思議な男性の後ろ姿をただ見送りました。

 その男性が川端康成であることを知ったのは、昭和47年 4月16日の彼の自殺のニュースによってです。
 「蟻は帰ってくるために働いているのかもしれないよ。」
 単純に帰巣をさしたのか、別の意味があったのか、彼の言葉の意味は今も僕にはわかりません。そこに意味などなかったのかもしれません。
 不確かな記憶の中で、一言が色彩を強めていつまでも心に残ることがあります。この一言が僕にとってそのひとつであったことは確かです。

 伊豆の踊子 署名


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ネタの種

 7月になりましたね。夏が過ぎてしまえば一年なんて、あっという間に終わってしまいます。
 半年が経過し、なにひとつ達成できていない自分を改めて反省し、残る半年で何とかしようと決意を固めた次第です。いくら固めようとも、コーヒーゼリーほどの固さしかないのですけどね…。

 先日、物書きをしている知人が上京しまして、それほど親しい仲ではありませんが久しぶりに会うことになりました。
 前にあったのはいつのことだったかな?と思い探ってみますと、もう7年も前のこと。その前に会ったのは、更にそこから9年も前になります。ここ16年で2度ほどしか会っていなかったことに今更に驚きました。
 再会での開口一番。「やぁ、老けたね」とお互いに同じ台詞。それを耳にし、また同じように苦笑したりして。
 日産ショールーム前で待ち合わせ、「銀のぶどう」でゆっくりしましょうとなりました。

  注文を決めて、彼はコーヒー、僕は紅茶をすすりながら話をはじめました。

 「今日は東京まで仕事ですか?」
 「はい、出版社に原稿のことできました。」
 「入稿ですか?わざわざ持参するのは珍しいですね。」
 「いえ、原稿はないです…。」
 「それでは、連載の打ち合わせとか?」
 「いえ、違います。」
 と言ってから、彼はちょっと照れたような笑顔で、「締め切りの延長をお願いにきました。」
 「締め切りですか?それって電話とかで済まないのですか?」
 「あはははは、実はですね、もう3週間も遅れていまして、その前にも2週間延ばしてもらってて。」
 「…。」
 「それで今度はひと月ほど待っていただけないかとお願いにきたんですよ。書きおろしで良かったと胸を撫で下ろしています。これが連載だったらと思うと怖いですね。」
 相変わらず無邪気な人だなと感心していると。
 「ネタがね。ネタに行き詰っているんですよ。」
 「はあ…。」
 「僕は、純文学を書けるほど深い思索などできません。たとえるなら、ネタで食いつなぐコメディアンのようなものです。ネタが切れたらそれまで。日々、ネタ探し。ネタメモが命の次にくる、そんな悲しい職業なんですよ。」
 それから彼は延々とネタ話を語りはじめた。
 「ライトノベル作家なんて、あ、自分のことなんですけどね。ネタが寿命そのものなんですよ。切れたら終わり。しかも、この終わりは突然やってきます。いえ、やってくる予感がします。ある朝、目覚めると文章がなにひとつ浮かばない。一行も書けない日が来るかもしれない。そう思うと寝ることも怖くなります。」
 「確かに、徐々に書けなくなるというわけではないですからね。書けない時には、どんなことしても書けないですよね。」
 「そうなんです。ですから、目を光らせ、耳を欹ててネタハンターと化すわけです。路傍に石があれば、ひっくり返してダンゴムシにネタはないかと尋ね。朽木があれば足で蹴って転がしハサミムシをつまみ上げて『ネタはどこ?』と訊問する。空を見てはネタが降って来ないかと目を見開いて雨を受け止め。海に向かって『ネタよ、来い!』と叫ぶ。花を見ても、魚を見ても、風が吹くさまにもネタ、ネタ、ネタと。耳を澄まして、息を止めて、針音のような会話にも神経を集中する。たとえ変質者に間違われようともネタ探しに明け暮れるんです。わかりますか?その苦しさと寂しさ。そうしてやっと出来上がったものを、『これなん?焼き直しやないの。ぜんぜんおもろないわ。ほかしたろ』と言われた日には、大リーグボール1号を花形満に打たれた星飛雄馬もかくやと思われる傷心の有り様ですよ。」
 と彼は肩を落とした。
 私は一呼吸置いてから、「大分以前ですけど、司馬遼太郎さんが『小説を書くということは、空気を握りしめて一滴の水を絞り出すようなものだ』とおっしゃっていましたね。」
 「それ、それ、わかります。司馬さんのような大作家ではないですけど苦労は同じなんですよ。いやぁ、さすがだなぁ、司馬さんは。ほんと、わかります…。」
(あの~、泣きが入って目が潤んでますよ?)
 彼は出てきたクレープシュゼットを一切れ切り分けて口に運び、また話を続けた。
 「眠るのも、原稿に向かうのも不安だらけで冷や汗がでてくるんです。それで居た堪れなくなって、気がつくと手に汗握りしめてゲームコントローラーを持ってるんです。Lvも上がってたりするんですけど。」
(それ、ダメじゃん…、現実逃避でしょ…。)
 「本編よりも先に後書きが出来上がってたり、それで後書きに凝り始めて、後書きに苦しめられたりするんですよ。もう二度と後書きなんて書くものかって思ったりするんです。」
 (いや、それは本末転倒と言わずして何というのでしょう。)
 以後も、彼は散々にネタの苦しみを訴えた挙句に、「Tさん、ネタありませんか?ありますよね?あるでしょ?無いなんて言わないですよね?ブログに書く前にネタください!」
 「蒔けば芽が出るネタの種があるといいですよね…。」
 「はい、もし見つけたら僕に下さい。栽培してほかの人に売りつけます。」
 (自分が使うんじゃないの…?それに、ネタは咲いたら終わりだし…。)
 そして、彼は最後のシュゼットの一切れを食べ終えると、メモ帳を取り出して書き入れた。
 「ネタの種。」

 

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