偕誠「つかれた」

 僕の意味のないブログによくお立ちより下さる偕誠さんという詩人がいらして、その方が管理している "Office K"というブログがあり、3月14日に次のような詩が書かれてあります。

 「つかれた」 偕誠

 布団にこもって聴覚を殺し、顔を殴る、救いはない。
 雨の夜道をのそのそ歩く、救いはない。
 何本も煙草に火をつけては消す、救いはない。
 結局のところ、おれはひとりだ。
 だれにもおれの苦しみはわからないのだ。
 おれはだいぶん、世の中のことがわかってきたぞ、と思う。
 それから、おれの寿命も。
 もう長くない、それは間違いない。
 死ぬ時もひとりで死ぬだろう。

 ああ、おれがそもそも間違っていたのかもしれない。
 旧友よ、孤独よ
 いつでもおまえがおれのそばにぴったりくっついて。
 おれを救ってくれていたのかな。

 飛びだしたい!
 妻の眠るこの家から
 町内をさえない顔でうろうろして
 凍えて帰ってくるのではなくて。
 もうなにもかも棄てちまって
 誰にももう迷惑はかけませんから
 ひとりでゆくのだ。
 書き散らして死ぬ。それだけの人生ぢゃないか。
 いつのまにか、何者かになったような、この驕慢。

 聞こえる雨音に混じった罵倒。
 見えてる死角にうごめくくそったれども。
 おれを一体どうしたいのだ。

 近いうちに死のう。
 そうだ、いま作りかけの詩集、
 あれが完成したら死のう。
 悲しいのもそれまで。
 こんなに苦しむのもそれまで、だ。
 どうだ、少しは希望がわいてきたか。
 もともと、今生に未練もなし。

 ああ、ひとりだ。
 今夜はかみしめるようにひとりだ。
 ひとりだ。
 ひとりだ。

 おれがなにしたって言うんだ。
 まあ。
 いいさ。
 もう死ぬんだからね。

 
 偕誠さんが書かれたこの詩に何かコメントをしようと思ったのですが、空欄をどう埋めてよいのかわからず、ただ次のような詩が頭を過りました。
 関連があるわけではないですし、並べることによって意味が成立することもありません。
 このふたつには50年以上の時の隔たりだけがあって他には何もないはずですが、僕の中で自然と結びついたのです。
 ブログにコメントを入れる代わりにここに置いていきます。

 
 「血」 吉原幸子

 たたきつぶす
 小さな虫を
 大きすぎる力で
 すると 小さな血のしみになる

 ほらみろ ひとの血を吸ってる
 いいきみだ つぶれて

 でもだれの血
 わたしではない 覚えがない
 それならだれの血
 ここにはわたししかいないのに

 突然 
 おそろしい考へが わたしをよぎる
 この虫の この虫自身の血が
 このように赤いのではなかったか

 こんなに とびちってゐるわたしを
 かきあつめられない
 わたしによってつぶれた
 赤い血をした小さな虫
 そして この虫こそが
 わたしだった と

  (吉原幸子「幼年連祷」から)

 
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ジャンル : 日記

車塵

…いつであったか、芥川龍之介が、
 「極楽へ行くのは見合わせた方がいいね」
と云ひだした。あまりに唐突なのでその眞意をはかりかねて、その顔を見ると、彼はあのきれ長い美しい目に一種の茶目つ気を漂はせながら、言葉をつづけて、
 「この間、西方浄土に関するお経文をみたらあの浄土には季節の變化はないらしい。どれほど人體に快適であろうともいつも一つの季節で四時のうつり變りがないとすれば楽しくないにあるまいから、以後あそこの住民になることは見合わせたくなつた」といふ意味を説明した。…

 これは佐藤春夫の「季節ーあとがきにかへて」に述べられているエピソードです。
 人にとって真に快適な環境とはどういったものなのでしょうか。不快なものをすべて取り除いた場所なのでしょうか。
 美しいものには心惹かれますし、癒しにもなります。けれど美しいものばかりに囲まれていては金箔緋毛氈の上に更に錦を飾り立てるようなもので目がちかちかして疲れます。
 人は刺激を受けて生きているのです。美しいものからも醜いものからも。
 身に感じる季節もきっと同じこと。
 常春の国はパタリロにでも任せておけばいい。もっとも彼ほど性格と容姿に起伏のある人物が身近にいれば飽きることはないでしょうけど。

 好き嫌いは時々で反転します。
 耳障りな打突音が、ある時は生活を伝える音楽のように聞えることもあります。
 僕たちは足りない、欠けていると思うから補うものを探して歩き、時に同一のものを心の裡で反転置換するのです。
 それはものであったり、場所であったり、人であったり。

 求めるから生きていると言うのは事実です。それを欲と言う一字で括りたくはありませんが、それらが僕たちの推進力になっているのは紛れもないことなのです。

…思ひあふれて歌はざらめや
 饑をおぼえて食はざらめや
 たそがれひとり戸に倚りて立ち
 切なく君をしたはざらめや …

 佐藤春夫「車塵集」に収められている「思ひあふれて」と題された漢詩の訳文です。 
 何かに焦がれること、手の届かないものに憧れ悶々と嘆くことも確かに幸せの形のひとつなのでしょう。
 辛いことも、哀しいことも、苦しいことも、孤独であることも、それらは人に与えられた生きている幸福のひとつなのです。
 見つめ合うだけで交歓するなどと言う高尚なプラトニックな愛に触れたこともなければ、それを身に着けることもないであろう僕は、欠けていること、求める気持ちを抱え続けることを大事にしたいと思っています。
 寧ろひと目みただけで心のなにもかもを見透かし交わせるなどという世界はまっぴらご免です。不便極まりないとも思えます。そこに充足感などあろうはずもないと考えてしまうのは、僕が矮小雑多な煩悩に侵されているからなのでしょうけれど。

 優れた香水は綺麗な匂いばかりを集めたものではありません。必ずアクセントとして悪臭が含まれています。美麗な風景も同じです。
 僕たちの世界は美醜混合だから美しいと思えるものを拾い出せるのです。アラベスクの中に絡め取られた日常はたぶんそれだけで美しい。けれど僕たちにはそれをひとつひとつ拾い上げているゆとりがない。
 ささやかなものは失われやすいので、どうしても大きなもの、目立つものに目を奪われて、自分が欲しているものを無意識に摩り替えてしまいます。そしてそれは過分な欲を生み出し、過分なそれは不幸を産み落とす。自覚がないことがさらに拍車をかけて行くのです。

 どこまで便利になれば人の不便はなくなるのでしょうね。
 すべてが便利になった世界こそが僕にとっては不便極まりない場所に思えてしまいます。

 冬の寒さは嫌いだと言う人、好きだと言う人。
 それぞれが季節を感じているから次を待てるのです。
 たぶん、生きるということは次を待ち続けることなのだろうと、ふと思いました。

 今年もあとわずかです。
 皆様がご無事に過ごされますことを心から願っています。

 早すぎる挨拶かもしれませんが、「次」に対する約束がもてないのでどうかご寛容ください。


 


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洗剤のある風景

 郷愁とは生まれ育った風景のなかだけに感じるものではありません。
 自分とは直接は無関係な風景や何かのきっかけに対し締め付けられるような郷愁が沸き起こってくることがあるのです。
 珈琲に溶けて行くクリームの白く細い帯の渦や、焼き立てのスコーンとダージリンの香りのなかにも、道端に落ちているテニスボールの所在なさや、残照にシルエットになった子供と手を繋いでゆく母親の姿に、大都会のビルの屋上で揺れるクレーンの影や、薄暗い地下歩道の壁の染みのなかにも、それはあります。
 それが過去の自分のどこにリンクしているのかは判然としませんし、そもそもが突き詰める術もない、理由など必要ない心の動きの発現なのです。
 営みが紡いでゆく時間の先に何があるのかはわかりません。
 またなぜ故に先に進まねばならないのかの理由もわかりません。
 しかし生きて行く理由が見当たらないとしても、死ねない言い訳くらいは持っているものなのです。
 たとえばこんな風に。
 「死ぬだけの理由が見当たらないので生きています。」
 大義名分など後から見つければ好いし、見つからなければそれでも好いのです。
 とりあえずは死ねない言い訳を大事にして、逃れられない昨日を引きずりながら明日を迎えて行くということも、生きると言うことの真実に近いものだと僕は思うのです。
 そう、多分、それがどんな過去であろうとも、それらを忘れないために死ねないだけなのかもしれません。
 そして、時折感じる不可解な既視感のなかで浮かんでくる郷愁も、生きているからこその実感で、本当はそれだけで充分なのです。



 「洗剤のある風景」  石垣りん

 夕暮れの日本海は曇天の下
 目いっぱいの広がりで
 陸地へと押し寄せていた。
 列車は北へ向かって走っていた。
 ふと速度が落ち
 線路脇に建つ家の裏手をかすめる。
 台所らしい部屋のあかり
 窓際に洗剤が一本
 小さな灯台のように立っていた。
 大波が来たら家もろとも
 たちまちさらわれそうな岸辺に
 何というはるかな景色だったろう。
 ―あそこに人間の暮らしがある。
 乳白色のさびしい容器を遠目に
 私はその先の旅を続ける。



 
 石垣りん新詩集「やさしい言葉」(花神社刊、1984年初版)から抜き出しました。
 寒気が押し寄せてきます。
 今週末には天気は荒れて雪になりそうです。
 事故のないように、風邪をひかないように。
 ささやかな日常の願いごとです。
 

 

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七月十九日 土曜日 曇りのち雨

 夏草はどうしてあんなにもいい匂いがするのでしょう。
 少し湿った空気の中で緑の濃い匂いがしてくると、郷愁めいた遊覧を禁じ得ないのは年老いてきた証拠なのでしょうか。
 きっとあの夏も同じ匂いがしていたのだろうと思います。

 ここ最近、あまり体調がよくありません。
 体調が優れないとどうしても気持ちが折れてしまいがちで、こうして書き綴っていても愚痴っぽくなってしまいます。
 弱さが連れてくる連想ゲームのタペストリーのような回想録は、波打ち際のルフランのように終章を知りません。
 少しづつ終わらせていきたいと思っていながら、ちょうど片付けの途中でひっぱりだしてきた物で遊び始めてしまうような心持に似ています。
 片付くはずもありません。

 そんな中、ふっと仕事の手を休めて、詩人の平岡淳子さん主催の「詩から生まれた六つの絵物語」という作品展にいってきました。
 石川ゆかり、さいとうかこみ、椎木彩子、はるみるく、やまもとゆか、YUKOの各イラストレイターが詩や短歌などを題材に作品を描いた小さな展覧会でした。
 狭いギャラリーではありますがテーマが2つに分かれていて、ひとつは各イラストレイターが自分の好きな詩や短歌を題材にして描いた作品パート。もうひとつは平岡さんの新作の詩に合わせて描かれた作品パートです。
 単純に題名をつけられた絵をみるよりも、詩という複雑な、そして、単純化された言葉の世界に寄り添ったものを鑑賞するほうがより作品に近づける気がしてきます。
 詩から受けるインスピレーションは様々で、絵そのものが詩の内容をそのまま表したものもありますし、絵のなかの登場人物の心のなかで唱えられているようなものもあります。
 そういった印象を感じ取りながら自分の心にピンと響いた作品を見つけられたら喜ばしい限りでしょう。
 
 僕は、この外苑前にある小さなギャラリー「DAZZLE」で、あの夏の匂いがする絵を見つけました。
 ひとつは、はるみるくさんの作品で田中ましろの短歌が添えられていたもの。
 もうひとつは、さいとうかこみさんの作品で若山牧水の「白鳥はかなしからずや…」の短歌が添えられていたのものです。
 どちらも高校生が描かれている作品でした。
 漂うような不安定感に、ときめきと眩暈を感じ、時の流れに緩慢さを覚えていた頃。
 言葉にあふれ、言葉に溺れていた頃、です。
 僕の高校時代がその絵のなかに描かれている青春に劣るとは思いません。
 けれども絵のなかの彼等が眩しいと感じてしまうのは、その世界に留まることを許された彼等への嫉妬であり、自分自身がやり残したものに気づいた告悔からなのでしょう。
 肝心なことはいつも後回しで、見えるものだけを追いかけていた罰ともとれます。
 こうして道草ばかりで日が暮れて、気づけば、何もしていないのに疲れだけが体を支配してしまって、眠る日を夢見ていたりします。
 僕に都合の良い夢を見、その世界で留まり続けていられれば理想なのかもしれません。

 会場に平岡さんの「眠る」という詩が掲げられていました。
 そこにあるのは僕の眠りより遥かに前向きな眠りです。


  「眠る」  平岡淳子

 わたしの中から
 ことばを追い出して
 ゆっくり眠る

 寝言すらも云えない
 からっぽのこころで
 色だけの夢を
 
 
 言葉から解放され、時間から解放され、次を思うこともない世界。
 僕もやがて眠りにつきます。
 友もなく、自分もないけれど、敵すらもない、そんな世界。
 


 

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"Halcion" の夢

 いつからだか忘れたけれど、もう随分昔から寝ずに朝を迎えることが多くなっている。
 医者から睡眠障害だといわれてハルシオンを処方された。
 けれどそれらは壜底に落ちて行く澱のように机の引き出しの中に蓄積されていく。

 ハルシオンを飲んだ日は夢を見ない。
 あれを飲んで自然に目覚めた朝は夢を見た記憶があまりない。
 目が覚める直前の夢以外、覚えていない。
 一度目覚めてから再び眠りについたあとの夢は思い出すことができる。

 そんな簡単なことに、ある日突然気が付いた。

 医者にそう話してみたところ、彼はモニターから目を逸らさずに事務的にこう答えた。

 「脳というものはね、夢を見てから8~10分ほどしかその夢を覚えていられないんですよ。ですから、夢を見てすぐに目覚めた時は割と鮮明に思い出すことができるんです。しかし、ハルシオンはね、その記憶の部分に働きかけて、知覚させないようにしてしまうんです。つまり覚えていられないようにしてしまうんです。記憶を欠落させて眠りの状態へ誘うのがハルシオンなんですよ。ですから神経症、欝病、心身症からくる不眠症には効果があるんです。」
 
 ハルシオンの青は空の色でも、水の色でもない。
 もっとくすんだ灰青色。

 もし"oblivious"という言葉を色で表すとしたならハルシオンの色は相応しいかもしれない。

 覚えていられない。
 或いは、気づかない。

 春紫苑

 こう漢字で示せばまったく別のものになるのに。

 でも、やはり同じか。
 あの花たちは目についても関心を払われることが少ない。雑草だから。
 かつては園芸品種としてもてはやされたこともあるのに。

 覚えられていない。
 気づかれていない。

 どちらも「視線」に戻ってくる。

 "perspective"

 欠けている僕には "Halcion" は似つかわしいのだろう。

 超短期作用型ベンゾジアゼピン系薬物。

 夢は覚えているべきではない。

 忘れっぽいのを薬のせいにして、それをいつか自慢にできる日が来ることを祈って。

 おはようございます。

 朝です。

 
 


 

 

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