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恋には無縁の彼岸花

 連休中は天候に恵まれ英気を養った方も多いでしょう。
 僕は仕事の区切りを見て息抜きに近場へドライブに出かけました。

 麻賀多神社に以前来たのはいつだったでしょうか。
 誰かと一緒だったような気もするし、ひとりであったような気もします。恐らくどちらの記憶も正しいのでしょう。いずれが先だったかが判然としないだけで。
 寒蝉がしきりに鳴いている林の中は少しだけひんやりとはしているけれど、額に軽く滲む汗を引かせるほどではありませんでした。

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 ここにはご神木である樹齢1300年余の杉があります。東日本一の大杉とされています。その高さ約40m、幹の太さ約9m。
 麻賀多神社というのは近隣十八社を総じてのことで、ここがその総社(本宮)となっているとどこかの説明で読んだ気がします。延喜式神名帳では国幣社として記載されたというような覚えもあります。
 かつて神社には格と言うものがありました。国幣社というのはその一つです。
 明治四年(1871年)に布告された新しい社格制度においては府県、市が奉幣を担う郷社と定められました。
 社に格付けをしたものであるなら十分ではないが、まあ納得のいくこともあるが、神様に格付けをしたとするならそれこそ神をも恐れない行為だと皮肉を言ったところで、政治機構の都合もあったのでしょう。
 手っ取り早く言うなら、祭祀において奉献する幣帛をどこが担当するのかを決め、国に集中しないようにしたということです。
 明治以降は先ほどの太政官布告により改定されましたが、第二次大戦敗戦後の国政改革を機に廃止されています。
 理由としては再び神道を拠り所として国が一致団結し戦争を仕掛けてこないようにと、米国が神道・国政・国民の分断を図ったというところでしょう。国家民族の精神的収束先を失くすといった単純なもので、それは結果として外見上は実施されましたが、未だに地縛霊は政治家たちに纏わりついているようです。
 それよりも深刻になったのは戦後教育においてモラル(倫理観、道徳観)とマナー(作法、礼儀)とをきちんとすみ分けして教えることをしなくなったことです。ごちゃ混ぜにした結果、骨子を抜かれた倫理観が先に喪失していったということなのでしょう。倫理と宗教というのは密接な関係にありますから。
 神様という存在は人を説得するにおいて重要なのです。誰もその真を捕えることができません。「神様の仕業」「神様が見ている」という畏怖は必要なものであったのです。孔子でさえ怪力乱神について理論の外に起きました。

 ご神木のある林内の至る所に蜘蛛が巣を掛けていました。蜘蛛の巣は美しい。
 巣は細い糸を綿密に組み合わせ獲物を捕らえるために、そして風雨に耐えるために丈夫に編まれています。
 蜘蛛の巣には、正面から生命をかけてあらゆるものに立ち向かう覚悟があるから美しいのです。
 そんなことを思いながら大杉を見上げ、辺りをぐるりと巡りました。

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 神社を出たあとは通りを渡り曹洞宗を掲げる超林寺へ向かました。途中、先日までの風雨で地に落ちた青柿の饐えた匂いが鼻を突きました。
 正式な号は麻賀多山信竜院超林寺です。文明十三年(1481年)の建立で境内には平貞胤の供養碑があります。
 平貞胤は千葉氏第12代の当主で観応2年(1351年)1月1日に61歳で京都で没したことになっています。
 供養碑脇にある看板に書かれたとおり、ここに遺物は収められてはいないでしょう。貞胤を慕うものが寄進を募り石碑を立てたと言う推測にほぼ間違いはないでしょうが、石碑の文字が風化し判読不明になっていますので詳しくはわかりません。
 平貞胤について僕はあまり印象はなく、当時の武将にしては機を見るに敏で世渡りの巧い人物だったくらいのことです。調べるのも億劫なので止めておきます。
 彼の没年と寺の建立年から見れば、石碑がどこかから移設されたか、或いは供養塔のあったところに寺を建てたか、没後に記念碑的に創られたか、なのでしょう。最後の選択肢が一番わかりやすい説明です、恐らく。

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 墓地周辺にはこの時期、曼珠沙華の花が咲き乱れています。今が見ごろと言ったところ。
 火をともしたようなその姿は忌みとも敬いとも取られ、狐扇、お盆草、鈴玉など様々な名前が付けられ、その数は我が国だけでも方言をいれれば1000種を超えると言われています。死入れ花、死人花、厄病花と言った不吉な名前も多いです。
 球根にはアルカロイドが含まれています。ですので球根そのものは食べられませんが、磨り潰して水に晒して取り出した澱粉は食用になります。
 花の無い時期、ユリ根と誤食した事故も多かったと聞いていますし、確かに事実事故も多くあったのでしょう。それがための忌み名であったかもしれません。
 墓所や畔にこの花が多いのは毒性を利用して土竜などの害獣を避けたためとも言われていますが、さて真偽と効果のほどは・・・。

 この曼珠沙華(彼岸花)ですが、日本に自生するものは結実しません。彼岸花同士では受粉しないのです。
 村田冨美子はこれを知ってか次のような句を詠んでいます。

 さりながら恋には無縁 彼岸花

 けれど黄色の彼岸花に似た花を咲かせる近縁の鍾馗水仙とは受粉します。そこから咲く花は紅色でも黄色でもない白花です。そういうわけで、まったくの恋に無縁というわけではなさそうです。 
 幾つもの忌み名を有する花でさえ恋をするのであれば多少は希望が持てそうな気もします。しかし、花は花、それだけで人を惹きつけるのです。そこが人と花の違いでしょうか。

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 つきぬけて天上の紺 曼珠沙華

 これは、山口誓子の作。

 見上げると空には半分に欠けた月。
 陽がとっぷりと暮れ夜空に掛かれば上弦となるのでしょう。
 そして僕はやはり今日も空に向かってシャッターを切ります。

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 麻賀多神社 〒286-0003 千葉県成田市台方1番地
 超林寺   〒286-0003 千葉県成田市台方10


 
 
 



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栃木の教会~宇都宮・日光~

 先日は手抜きのぶらり記事を書き捨てるようにアップしたきりで申し訳ありませんでした。
 正直、体力がもう底をついていたもので内容を整理して書き切る気力を失っていました。まだ復調してきませんね。やはり寄る年波ということでしょうか。
 今回は、栃木にある教会を3か所ほどご紹介します。仕事で別の建物の取材にいった途中に足を延ばしたものですが、建築物として非常に美しいものです。ガイドブックなどにも記載されていますのでご存知の方も多いと思います。ですから解説などは省かせていただき簡単に添えておくに留めます。


 日本聖公会宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂(国登録有形文化財)
 栃木県宇都宮市桜2-3-27 TEL028-622-0335

 1911年に認可された教会で、1933年の竣工。設計は、上林敬吉。
 奇跡的に戦禍を免れ、大谷石造りの建物は当時のまま保存されています。但し、併設の幼稚園と敷地を共有しているため普段は見学できません。
 僕が行った日は当然ながら夏休み中であり、事前のアポイントもしていなかったため外観を見るにとどめました。
 建物のベストショットは園庭内から撮ったほうが好いですが、くれぐれも無断で敷地内に入らないようにしてくださいね。
 
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 カトリック松が峰教会(国登録有形文化財)
 宇都宮市松が峰1-1-5 TEL 028-635-0405 

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 大谷石張りのロマネスク・リヴァイヴァル建築の教会としては国内最大級、かつ、コンクリート製の教会としては国内最古。
 ロマネスク・リヴァイヴァル建築というのは19世紀末に流行した設計で、ロマネスク様式(11世紀頃)のアーチや装飾を単純化したもの。
 1932年に竣工。設計は、マックス・ヒンデル。建物はコンクリート製で大谷石を仕上げに使っています。
 昭和20年7月の空襲により大屋根が焼け落ち、2年後に修復されています。礼拝堂内のパイプオルガンは昭和51年に設置されたもの。

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 日本聖公会日光真光教会(県指定重要文化財)
 栃木県日光市本町1-6 TEL028-622-0335

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 聖公会はイギリスの宗教革命から生じたキリスト教の一派でアングリカン・コミュニオンとも呼ばれています。英国国教会と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
 日本聖公会はその派を担う形成団体のひとつです。
 竣工は、1914年(大正3年)。設計は、立教学校(現、立教大学)の第3代校長ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー。
 教会の資料によれば日光で初めて礼拝が行われたのは明治8年の8月で、日光観光に来ていた外国人聖職者がその通訳に伴った学生二人と中禅寺湖の宿屋で聖餐式を行ったと言うことです。
 ガーディナーが教会を建てたのは明治32年。現在の真光教会がある場所から少し離れた木造建築によるものでした。その後、日光が観光地として栄えるに従い、外国人の礼拝も多くなり手狭になったため現在の地に移転しました。
 建築様式としてはゴシック・リヴァイヴァルに属します。外壁は安山岩の乱石積み、内壁は板橋石の平張り。
 ガーディナーはその妻、フローレンスとこの地で出会い、同じ時を過ごし、今も寄り添うようにしてこの真光教会の聖書朗読架前の床下に眠っています。
 真光教会では信徒でなくても結婚式があげられるので、その趣のある佇まいとガーディナーのロマンスのため多くのカップルが利用しているようです。
 愛の絆は先人に由来するようなものではないとは思いますが、そこは未来へのお守りと言ったようなものでしょうか。そのご加護のほどは置いておいても、このような教会で式を挙げられるのは素敵ですよね。

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 この日の遅すぎるランチ(既に4時)は、日光金谷ホテルのラウンジ「メイプルリーフ」で摂りました。頼んだメニューは、大正時代のカレーのレシピを再現した「百年カレー」です。肉は鴨を選びました。

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 松が峰教会で見つけた聖書の言葉です。
 マタイ6章第34節からの抜粋。

…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。…

 素晴らしい天のお言葉でした。

 

 
 

 

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外小代公園で。(公津原古墳群・成田市)

 成田ニュータウンの北端に外小代公園というところがあります。それほど大規模な公園ではありませんがよく整備されており、総合運動場、テニスコート、遊具施設などを備え、春の桜は見ごたえがあります。
 その公園の一隅に9基の円墳があります。公津原古墳群と呼ばれる成田ニュータウン内に保存された古墳群のひとつです。

 外小代公園04

 今の時期では花には中途半端でとくにこれといって目をひくものはありませんが、何もないということが心地よく感じられることがあります。

 昼食をとりはぐれてしまった午後3時。すこし休ませてくださいと誰にお願いするのか車をとめました。
 今日は湿気を帯びた汗の滲む陽気でしたが、日陰におちたベンチに腰かけてこの季節特有の少し甘い香りを含んだ風を受けていると、夏が近づいているという気配が実感されます。

 外小代公園03

 風に吹かれている丘の上はこんなにも穏やかで、囀る鶯や目白の声は澄んで耳に届いてくるのに、僕はどうしてこんなにもつかれてしまっているのだろうと思うのです。
 何がつらいとか、苦しいとか、誰よりも何よりも厳しい毎日を送っているということではないはずなのです。どこにでもある、誰にでもあるありふれた毎日のはずなのに、こんなにも疲れてしまっているのです。
 理由もなく疲れ切ってしまっている僕は、ベンチに座ったまま目を閉じて呼吸を数えるように心を閉じます。せめて空元気が心を満たすまで。僕はまだやれると、よし立ち上がるぞという勇気が湧いてくるまで。
 たとえ一人でも僕は立ち上がれる。今までもそうだったじゃないか。足は萎えていないし、腕も動く。視界も音も言葉もあり、失ったものなどない。僕はまだやれるんだ。そう胸の奥で呟きながらじっと通り過ぎる風を数えます。

 外小代公園02

 古墳の丘で風に吹かれていると砂時計の蜂の腰を通過して行く、擦れるような時の音がきこえてきます。僕がそこを通過する番もそれほど先のことではないのだろうと確かな予感を抱いて。

 そう、夏が近づいているからなのかな。
 たぶん理由があるとしたらその程度なのです。

 外小代公園01

 ぶらんこに乗って漕いでみたら座板が低すぎて足がもつれてしまい、うまく動かせませんでした。時を実感するというのは、おとなになり過ぎたということを知るのは、こんなにも簡単なことなのです。



 

佐世保

 1945年(昭和20年)6月28日23時58分、雨の中を切り裂くように佐世保市上空に30機あまりのB29が飛来し空爆を開始しました。
 その激しい波状攻撃は29日未明まで続き、実に市の3分の2を焼失させ、中枢はほぼ壊滅。死者は1,226人におよび、現在も身元の分からないままになっている犠牲者は200人を超えていると言います。
 僕は東京の下町生まれで、空襲と言うと3月10日の東京大空襲がまっさきに頭に浮かんできます。
 その時の惨状については、当時、浅草に住んでいた母の実体験や小学校から中学までを下町で過ごしたので近所のご老人たちからある程度は聞き知っていました。
 ですが、6月28日から29日にアメリカ軍によって行われた佐世保や岡山の空襲については何の情報も持ち合わせていはいなかったのです。
 僕がそれを知るのは旅の途中でふらりと岡山に立ち寄った高校生最後の夏休みになります。
 その時、僕は自分の見識のなさに茫然としました。
 「空襲は東京ばかりではない。」
 それは当たり前のことだったのですが、その事実を少しも思い描いたことはなかったのです。
 そして今回、そのもうひとつの被災地である佐世保を訪問する機会を得ました。

 佐世保の空襲については、小玉ユキさんの「坂道のアポロン」のスピン・オフでも取り上げられています。
 物語のヒロインである迎律子の父親である勉が空襲によって家族も家も失い、その喪失感のなかで音楽によって再生していく自分を見つけ出す場面がラストに描かれています。

 坂道のアポロン BONUS TRACK (小学館フラワーコミックス)

 不幸を不幸として嘆き扱うのではなく、すべては繋がってゆくのだと言う希望への道筋として取り上げているのは、佐世保空襲の犠牲者を供養するために建立された鎮魂慰霊平和祈願之塔に刻まれた「尊い命の土壌の上に生きていること」という言葉と同じ思いを底においているのでしょう。

 三浦町教会03 三浦町教会01

 その佐世保市街の中心を走る国道を見下ろす高台に建てられた小さな教会があります。
 白亜の壁で塗られた三浦町教会と呼ばれるその建物は空襲当時のままに奇跡的に無傷で残りました。
 戦時中は白壁は目立つということで建物をコールタールで黒く塗り潰した漆黒の教会だったそうです。
 白い壁を黒くしたからという単純な理由で見逃されたわけではないでしょう。そこにはやはり大いなる偶然が働いたのです。それを奇跡と呼んでも差し障りはないと思います。
 誰もいない聖堂内にステンドグラスから射し込む光は鮮やかに照り映え、静謐さを尚一層神々しく演出するかのようです。
 それでいて権威に満ちるのではなく、床や壁に射し込む光は息をつく安らぎを与えてくれます。
 「教会の門は常に開かれているのだ。ただ受け入れるためのみに」と僕を諭してくれたロンドンのクレメント教会の神父さんが思い浮かんできました。
 彼には非常にお世話になりました。
 行き倒れかかっていた僕に「体が冷え切っている時には熱過ぎるスープは良くないんだ」と少しだけ冷まして持ってきてくれたことなど、ささいなことまで思い出します。そして、もうその彼も故人であることに胸が痛みました。

 三浦町教会02

 三浦町教会は観光施設ではなく、現在も多数の信者を有し定例の礼拝が行われています。見学の際はくれぐれもお気を付けください。

 弓張岳02 弓張岳01

 さて三浦教会を離れて市街地からバス、或いは、タクシーで15分ほどいったところに弓張岳というのがあります。
 この弓張岳は西海国立公園の九十九島を一望できるベスト・スポットとなっていますが、ここにも戦争遺構があります。
 クレーターのように刳り貫かれた砲台の跡です。今は砲台は取り除かれて木が植えられ、それだと教えられることがなければ見過ごしてしまうかもしれません。 
 
 ここの展望台から見る佐世保港は素晴らしいです。
 特に夕暮れからの光が織りなす変化は美しく、今は昔と語る声も微かになり、暮れなずむ島影のただ雄大な景色に見とれるばかりです。
 この日は生憎と靄かがって遠景は霞んでいましたが、それでも色彩の変化を楽しむことができました。
 公園内には数多くの文学碑もありますのでご興味ある方は辿ってみてはいかがでしょう。
 ただし、弓張岳から佐世保駅へ向かう最終バスは夕方18時44分(3月16日現在)ですのでご注意を。それ以後は自力で4キロほどの道のりを下るか、タクシーを呼ぶことになります。ですので、最終バスの時間を確かめておかれたほうがベターです。
 
 弓張岳04 弓張岳03

 長崎も佐世保も決して明るい歴史ばかりを負ってはいませんが、その複雑な過去もすべて坂道を歩くようなものかもしれません。
 艱難辛苦喜怒哀楽は坂の上り下りと同じで、向きを変えてみれば何のことはないと、乗り越えていかれるのだという力を与えてくれるかのようです。 

 


 

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軍艦島 ー 長崎県・端島

 長崎港から離れること18.5Kmの海上に、かつて膨大な埋蔵量をほこる海底炭鉱を採掘していた島があります。
 正式名称は「端島」(はしま)と言い、その異容から別名「軍艦島」と呼ばれています。
 この海底に石炭層が発見され採掘がはじまったのは江戸の末期1800年頃、1890年に三菱の所有となり1974年(昭和49年)まで採掘が続けられます。
 島周、約1.2Kmのこの人工島の最盛期(1960年)には、当時の東京の人口密度の10倍と言われた5200人を超える人々が居住し、その廃鉱時においても2200人が住んでいたと説明がありました。

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 狭い島内には地下3階地上9階建てのアパートをはじめとしたコンクリートの建物が林立し、学校、病院、娯楽施設、ショッピングセンターなど生活に必要なものをすべて兼ね備えていました。
 日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設されたのもこの島です(1916年)。
 ただひとつ、島内になかったものは火葬場で、それは端島から少し離れた小さな無人島に設けられ、そこで荼毘に付し島に遺骨をもちかえっていたそうです。
 エネルギー資源が石炭から石油へと移り、ついには放棄されてしまうのですが、その先進的な技術の結晶は近未来的コロニーの理想を築いたといっても過言ではないでしょう。
 
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 はっきりと覚えてはいませんが、僕がこの島のことを知ったのは高校生の頃だったろうと思います。
 「純」と言う映画の中でのことでした。
 主人公が生まれ育った島として、夢や希望といったすべてが備わっていた理想郷として回想に登場してきます。
 その回想シーンがどこか暴力的で、それでいて強烈なノスタルジーをその場所を知らない僕にさえ植えつけてしまうほど印象的でした。
 そして最初にこの島を訪問する機会があったのは今から25年ほど前のこと。
 取材のアシストでのことでしたがその時は海が荒れて出港することができず、結局3日間の猶予を使い切ることになり、ついに叶いませんでした。
 
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 今回、いくつかある軍艦島ツアーの中から「軍艦島コンシェルジュ」(http://www.gunkanjima-concierge.com/ 長崎市常盤町1-60、Tel.095-895-9300)を選びました。
 3月15日、前日の強風が嘘のようなほぼ無風状態、天気は快晴。船が大の苦手の僕にとってはこれ以上ない好条件。それでも船酔いに対する恐怖感はぬぐいきれず、同ツアーの受付で販売している「ツボ押しの酔い止めバンド」をお守り代わりに500円で購入し手首に装着。
 午前10時40分定刻に長崎港常盤ターミナルから出航。往路は45分間の軍艦島外周を巡るクルージング。
 不安いっぱいの船中、目を閉じ、口を固く結んで、呪文のように「俺は酔わない」を胸中で繰り返し続けていました。
 とにかく前世でタイタニックで遭難した過去をもつ僕ですので、船は天敵以上に忌避すべきもの。船の科学館でさえ船の形をしているというだけで酔いを感じるほど苦手です。
 ついでに、不忍の池のボートで船酔いをして女の子に振られたのも、つい昨日のことのように思い出されます。
 そんな僕が無事に帰ってこられたのは軍艦島コンシェルジュのスタッフの皆さんのおかげです(それでも本音をいわせていただければ、島に上陸した時には「僕をここに置いて行ってください。僕はここで島の道標になります」と言いたいくらいのダメージは受けていました)。

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 草一本生えていなかった人工島は、現在、雑草がコンクリートを割り、崩れた地表に花を咲かせています。その光景は「夏草や兵どもが夢の跡」と場は異なれど芭蕉が見たものと重なるようでした。
 こうして我が国最大の廃墟となった島を目の当たりにして、「軍艦島とは何だったのだろうか」と改めて思います。
 緑無きコンクリートの島に生き、夢をみた人々とは何だったのだろうか、と。
 繁栄の頂点を目指し、近未来的な理想都市を打ち立てた人々の記憶と記録は僕たちにどういった形で受け継がれているのだろうか。
 そこには疑問符ばかりが頭の中の駆け巡るとともに、廃墟となったその美しい姿に魅せられてしまう不謹慎とも言うべき自分がいました。

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 次代の先端を夢見、そしてその現実を精一杯に享受し、繁栄を経験したこの島は、理想都市の行き着く結末を見せていてくれるのかもしれません。 
 それらが僕に伝えてくるのは「喪失」という夢の跡に対する共感と呼ぶべきものなのでしょう。そして、人間が栄え滅びた後の美しさを仮景として僕に見せてくれているのかもしれません。

 この島については、柿田清英さんが優れた写真を残しています。惜しむらくは膨大に撮りためたその写真の選別を行う前に彼が他界してしまっていることです。「軍艦島超景」(三才ブックス社刊)と題された写真集にそのごく一部が紹介されています。機会がありましたらご覧になってください。


 
 

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