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大和和紀「シンデレラの死」

 wy-cin0588.jpg (若木書房、昭和49年初版)

 「太陽がいっぱい」(原作はパトリシア・ハイスミスの小説、原題は The Talented Mr. Ripley) と言う映画は各方面に影響を与えましたね。
 入れ替わりの犯罪という通常はあり得ないことをやってのけるところが映画の面白さです。
 大和和紀さんの「シンデレラの死」も富を夢見たシンデレラ・ガールの入れ替わりの物語です。

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 場所はフランスのコートダジュール。
 サンクレール家令嬢・ドロレスとビアンカ・レイモンは乳姉妹という設定になっています。
 一見すると非常に仲の良い姉妹同然の二人ですが、ドロレスは自分の引き立て役としてしかビアンカを見ていません。
 ある晩、サンクレール家でパーティが開催されます。そこでビアンカはシャルル・ローランという資産家の青年に出会います。
 シャルルはドロレスにプロポーズをしていましたが、彼女にその気はなく「たぶん、ことわるわ」とビアンカに話します。けれども、シャルルがビアンカに好意を示すと急にプロポーズを受けると言いだしたのです。
 「ことわるといっていたのに、なぜ」と問うビアンカに対して、ドロレスは「ビアンカ、あなたはシャルルと結婚できるとでもおもったの。なんて、あつかましい。女中の子のあなたが・・・」と言い捨てます。
 ビアンカが小さな希望を手にすることすら許さないのです。
 その2か月後、ドロレスとシャルルの結婚式の前日。その会場となるサンクレールのヨットが火災に見舞われます。
 救助されたのは顔に火傷を負い、記憶を失くしたドロレス・サンクレールでした。

 wy-cin0585.jpg

 この火災を機にビアンカとドロレスの入れ替わりになるのですが、事故直後では本当に記憶を失ってしまい、本人さえ自分がどちらか判らない状態になっています。
 この記憶喪失が物語の大きな鍵。
 自分はビアンカを殺したのか、それともドロレスを殺したのか。その不安と良心の葛藤。現実に手にした裕福な生活と幸運。
 シンデレラはどちらなのか?
 思い違いが新たな悲劇を生み、ついに事実が明かされる・・・。

 wy-cin0587.jpg

 ドロレスは太陽。ビアンカは月。
 月は太陽がなくては輝くことができない。そして結果としてドロレスは自分の死を以ってビアンカの幸福を阻むことになります。
 月自身が輝くためにはどうすれば良かったのか?その答えを大和和紀さんは読者に委ねています。

…「あなたは死ぬことによってシャルルとあたしをひきはなしたのよ。あなたは月が太陽になることをゆるさないのね。」…

 ストーリーとしては単純です。トリックというようなものもないですね。それに近いものがあるとしたなら「記憶喪失」がトリックを担っていると言えます。実際には錯誤でしかないのですが。
 後年、「はいからさんが通る」「菩提樹」「ヨコハマ物語」「あさきゆめみし」など大作を手掛けることになる片鱗も窺えませんが、単純ながら面白いと言える作品です。漫画としての構成力はこの頃からあったということなのでしょうね。
 
 先日ご紹介した布浦翼さんと同じ北海道出身。デビューこそ9年ほど大和和紀さんの方が早いですが、シンデレラ・ドリーム絡みで取り上げてみました。
 もっとも今はシンデレラ・ガールと言えばアイドル・マスターかもしれませんけれど(ラブ・ライバーの方、すみません)。
 因みに「太陽がいっぱい」って良いタイトルですよね。
 翻訳した方はすごいと思いませんか?原題を直訳すれば「賢いリプリーさん」ですから。直訳だったら日本ではヒットしなかったかもしれないですね。



 
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布浦翼「サンデイズ・チャイルド」

 サンデイズ・チャイルドという言い方が実際にあるのかは知りません。けれどあったとしたなら、それがナーサリーライムに由来しているだろうことは推測できます。

 Monday’s child is fair of face,
 Tuesday’s child is full of grace,
 Wednesday’s child is full of woe,
 Thursday’s child has far to go, 
 Friday’s child is loving and giving,
 Saturday’s child works hard for a living,
 And the child that is born on the Sabbath day.
 Is bonny and blithe, and good and gay.

 月曜日生まれの子供は器量がいい
 火曜日生まれの子供は品がいい
 水曜日生まれの子供は泣き虫で
 木曜日生まれの子供は苦労をし
 金曜日生まれの子供は愛情深くて
 土曜日生まれの子供は働き者
 日曜日に生まれた子供は、
 可愛くて、朗らかで、気立てがいい

 ここでは日曜日は「安息日」(the Sabbath day )となっています。神様からすべての祝福を受けた子供たちということなのでしょう。

 sundaysc001.jpg (講談社、昭和56年初版)

 布浦翼さんは別冊少女フレンドの昭和50年7月号に掲載された「ローランジュール」でデビューを果たしました。僕はこの作品をタイムリーに読んだのですが、その時の感想は「また新しい感じの漫画家がでてきたな」と言うものでした。

 「サンデイズ・チャイルド」ですが、別冊少女フレンドで昭和55年の10月から翌昭和56年4月号まで連載されました。原作は「キャンディ・キャンディ」を手掛けた水木杏子です。

…「サンデイズ・チャイルド・・・?」
 「生まれたときから幸運がついてまわるこどものことさ。おれたちとは身分がちがうってさ。」
 「あたしたちはちがうの?サンデイズ・チャイルドじゃ・・・ないの?」
 「おまえは自分の誕生日を知ってるか?」
 「知らない・・・スラムのゴミ箱にすてられてたんだってみんなが・・・。」
 「おれもさ、アランナ。」…

 sundaysc003.jpg
 
 不遇な環境にある者が夢を掴むためには何を犠牲にし、何を得て行くのか。物語は孤児であるふたり、ジェスとアランナを主人公として進んでゆきます。
 展開としては随所に煮詰めの甘いところが多く、登場人物も生かし切れていない気がします。
 養母であるアンナに連れられてアンダーソン家の令嬢ニコラの使用人となるエピソードから始まります。そこで生まれた境遇によって差別が存在し、理不尽な常識に曝されることで、いつか自分たちも「サンデイズ・チャイルド」なることを心に誓います。
 ふたりの姿は何となく「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラを彷彿させますが、自分が強くなることで成し遂げようとするジェスと、他人の地位を利用して富貴を得ようとするアランナの道程は対照的に描かれています。

 sundaysc002.jpg (講談社、昭和56年初版)

 物語中盤でアンダーソン家は没落するのですが、その後の「サンデイズ・チャイルド」の代表とも言えるニコラがあまりパッとしません。重要な役割を担っている割には軽く、伏線もないに等しい。もう少し描き加えて欲しかった気がします。
 ニコラの兄・エドモンドとアランナとは恋人関係となり婚約し、破産後もアランナは彼に真心を通そうとします。けれどその甲斐もなくエドモンドは非業の死を遂げるのですが、その経緯も説得力に欠けています。
 それとアンダーソン家破産のフィクサーであるシモンズですが悪役に徹し切れていないです。というより名誉欲が強く打算的で冷酷な男と言う設定なのに、お人好しにさえ見えます。それが打算を言い訳にした恋愛の形であったにしても裏が無さすぎます。
 当時の読者層を考慮してのこともあるのでしょうけど、原作が現実の厳しさを捉えていないのです。
 と、ここまで随分と批判的なことを書きましたが、この作品が嫌いなわけではありません。寧ろ少女漫画としては当時は珍しいボクサーを取り上げて、自力で這い上がる象徴として描き、そのダメージによりボクサーとしての栄光をすべてを失うと言う設定は注目に値すると思います。但し網膜剥離を原因にするのであれば、突然に視界が暗転するのではなく、飛蚊症との関連を入れていたのなら切迫感をもう少し出せたのではないかと思います。

 sundaysc004.jpg

 自分の美貌を武器に富貴を得ようとするアランナですが、その本質は非常に献身的で、真実の目標から目を逸らしている様子の描写は良く出来ています。もとより彼女は他人との比較においての幸福など望んではいなかったのですから。
 残念なのはアランナとニコラとが同じような性格に描かれていることでしょうか。どちらも献身的で優しい少女です。そのあり方が似すぎているのです。
 全編を通してみているとニコラは生粋のサンデイズ・チャイルドなのでしょう。貧困に晒されても優しさ、誠実さ、強さを併せ持つ少女なのですから。物語の経緯において過度の栄達を望まない分だけアランナよりも好感が持てます。
 サンデイズ・チャイルドとは「経済的に裕福なこどもたち」のことではないのです。

 物語はアランナとジェスが変転の果てに青い鳥を見つけるという筋書きのものです。彼らは気づいていなかっただけで「サンデイズ・チャイルド」であったのです。どこかでちょっと道を間違えてしまい遠回りしただけです。あと2回ほど連載回数があったならと悔やまれますね。 
 いずれにしろ作品の骨子は、「望むべきは他人と同じ幸福ではなく、自分の価値観のなかでの幸福」と言うことです。幸不幸は他人が決めるべきものではなく、自分自身で決めるものなのです。
 愛情が富に勝るとは言えませんが、貧困であっても不幸であると決めつけることは出来ません。冷戦状態の裕福な家庭よりかは、軽口が多く飛び出す貧しい食卓のほうが楽しいのに決まっています。

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 この作品、登場人物たちの行動を見ていて「ああ、なんで?このバカ…」と思った読者は多いことでしょう。そのまどろっこしさが愛おしい感じさえします。
 今思えば、案だけ提示して原作としてのプロットなしで布浦翼さんに自由に描かせた方が良かったかもしれません。結果論を言っても何の足しにもなりませんが。 
 けれども純恋愛ストーリーを手掛けていなかった布浦さんに新境地を与えたという点では代替のない作品でした。そしてそれは水木さんの原作がなかったら描かれなかったものです。
 最後にくどいようですが、僕はこの作品、好きです。登場人物も、もの足りなさも含めて。


 
 

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

佐香厚子「片寄波」

…この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人びとにはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料(ねた)不足を託つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお挑え向きの、したがって高みの見物席の弥次馬諸公にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因(もと)になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない智恵をずいぶん絞った。…

 という書出しで始まる井上ひさしの「吉里吉里人」。
 この吉里吉里という地名は岩手県上閉伊郡大槌町に実際にあります。
 小説のなかでは独立国を目指した吉里吉里ですが、ここには世界でも珍しい海岸があります(ありました、と書いた方が良いのか迷っています)。
 波板海岸という寄せる波だけで返す波がない海岸です。
 この波は「片寄波」と呼ばれ、その原因については、砂が細かいために寄せている間に吸い込まれてしまい、視覚的には返す波がないように見えるのだと言われています。
 僕がこの「片寄波」のことを知ったのは昭和59年の初夏のことでした。
 その夏が暑かったのかどうかを思い出すことはできませんが、その存在を知り、三陸へ向かったことは確かです。
 僕にこれを教えてくれたのが、昭和59年6月に発売されたプチコミック7月号に掲載されていた佐香厚子さんの「片寄波」と言う作品でした。

 片寄波ー佐香厚子 プチコミックS59-7

 
 主人公の窪川元美は大手広告代理店に勤めるOL。優秀で美人、ガードが堅いと言われる彼女。しかしその家庭は複雑で、元美が幼い頃、母親は弟だけをつれて愛人のもとへ去り、以後、厳格な父親の手によって育てられます。
…おまえにはしあわせになってもらいたい。あの女のような生き方だけはしてほしくない。…
 その父の願いの裏側で元美は同じ会社の上司である倉沢隆と不倫関係にありました。
 ある晩、六本木のバーで倉沢と待ち合わせてた元美は松崎史也というフリーライターに出会います。
 松崎は倉沢の背任問題のスクープを追いつづけ、その情報原のひとつとして元美に近づいたのですが、次第に彼女に惹かれて行きます。
 物語は、元美の妊娠、堕胎と倉沢の妻の出産を経ていくことで、倉沢の嘘が見えてくることになります。そして、ついに倉沢と別の愛人関係にあった女性からのリークで倉沢は失脚します。

 この物語、単純な不倫物と片付けられない要素が多く見られます。
 父親の母に対する確執と不作為による復讐。
 離婚が成立しないことで法的に不存在となる弟。
 自分だけを置いて出て行った母に対する憎しみと、捨てきれない母への愛情。
 それらを繋いでいる「片寄波」です。

 波というものが起きる原因としては様々なものがあり、「これです」と限定できるものではありません。
 地震や海底火山もありますし、台風によるものもあります。けれどその元をたどって行けば地球自体の動き(自転、引力)とそれによる風の影響と見ても差し障りはないでしょう。
 その地球によって生み出される波。
 普通は寄せて返すを繰り返しますが、ここでテーマに選ばれているのは「返らない波」なのです。見返りのない波とも言えます。
 それは自分の見えないところで生まれ寄せられてくる感情のように受け取れ、そしてまた、遥か遠くから絶え間なく注がれる愛情とも。
 ここでは愛情の余韻を感じさせる終わり方で描かれています。

 現在、波板海岸は3.11の震災の影響で地盤が沈下し、その性質が多少変わってしまったような話を聞きました。自分でも確かめてみたいとは思うのですが、僕が初めて見た打ち寄せるだけの波の不思議さを失いたくないという思いもあり訪ねられずにいます。
 絶えることなく寄せてくる波は、ただ砂に吸い込まれ、それ自体が無力であるかのようにも感じられますが、確かな海の息吹は存在していました。
 僕はその波を見た時、「神様みたいだ」と思ったのです。
 特定の信仰をもたない僕がそんなことを感じたことが自分で可笑しくて、少しだけ笑ったのを覚えています。

 

 

 
 

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あしべゆうほ「テディベア」

 連載初期の設定は良いのだけれどその後の展開が行き詰まってしまい、結果として物語を生かし切れなかった作品というのがあります。
 また作家によってはそうした着地点を見定めるのが不得手というか、物語を自由に広げ過ぎてしまい収束させることができなくなる傾向が顕著なタイプもあります。
 そういった作品は着想が良かっただけに惜しまれますし、リメイクされる機会があればと思うものもあります。
 この「テディベア」も僕にとってはそういった作品のひとつです。

 テディベア01 (秋田書店、昭和54年初版)

 あしべゆうほは、「デイモスの花嫁」や「クリスタル・ドラゴン」など長編連載の代表作を持つ人気作家ですので、名前もしらないという方は少ないでしょう。
 しかし、この作品に限っては残念ながら彼女の代表作とはなっておらず、物語も完結していません。
 全5巻で「完結」とはなっていますが、あまりにも不自然な終わり方で、結果として作者が何を目指していたのかが分らない作品になってしまっています。

 テディベア02

 物語の舞台はオーストリアのチロル地方の小村です。
 そこに財閥の子息であるアーロが訪れ、ヒルデガルドが営むペンションに滞在することからストーリーは始まります。
 この少年、とある事情から母親から疎まれ、静養を口実に片田舎に送られてくるのですが、その理由が「動くテディベア」を友人としているからなのです。
 コメディタッチの描きだしから一転してオカルト的な要素を盛り込み、読み切り形式でペンションを訪れる客や彼の友人、または旅団の人々に小さな奇跡を起こしてみせるのです。
 
 テディベア04 テディベア05
 
 4巻までの出来は良かったと思います。
 チロル地方の気候、風俗、気質などを取り入れながらアーロとその周囲の子供たちの成長を描いていこうとする手法は生き生きとして、作者が言うとおりに「今にも画面を飛び出していきそうなアーロ」を逸脱しないようにストーリーに収めようとする苦心が見え隠れしています。
 しかしイメージを広げ過ぎる主人公というのは長短表裏一体で、物語を良くも支え勢いを与える一方で、以後の成長の兆しとなる変化に伴う展開で物語の主軸をどこにおいていたのかが不明瞭になってしまう危険性があるのです。

 この作品の場合では、アーロが自分の特殊な意思が持つ力を自覚した時に、それが如何に彼を(或いは母親を)苦しめ、かつ、以後の彼の支えとなる力になって行くのかが描き切れないままになってしまってます。
 アーロの闊達さを生かそうとして学園生活を膨らませることで「テディベア」というきっかけを維持し切れないという結果を生じさせてしまうことになったのです。

 テディベア03

 両親と兄を自動車事故で失い自閉症となった少女ラウラと出会い、アーロがテディの本質について気づき、その自覚を通して少女に手を差し伸べようとするところで第一部が終ります。
 第二部では時間を一気に走らせてしまい、成長したアーロがイギリスの名門校イートンに寄宿するところからはじまります。
 学園生活が中心となる第二部では、登場人物も増え、その関係も複雑化していきます。
 しかし、アーロのお目付け役であり最大の庇護者であったエドの死やその生活への変化を生じさせた(恐らく物語上肝要なものとして置かれた)いくつかの事件の伏線をひいたまま回収できずに終わってしまいました。

 前半はアーロの特殊性に主眼が置かれた小さな奇跡の物語として展開し、後半をアーロを取り巻く恋愛と学園の物語とに切り分けてしまったのがこの作品を台無しにしてしまったとも言えます。
 第一部の終りでラウラに小さなテディを分け与えてしまうことでアーロの呪縛を取り除き、以後は普通の少年として描きたかったという意図もあったのでしょう。
 しかし初期設定を保ちながらアーロの内面の葛藤と成長を当初のまま描き続けていたのなら、冒頭にあげた代表作に並ぶものになっていたかもしれません。

 テディベア06




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ふみふみこ「ぼくらのへんたい」

 ぼくらのへんたい01-2 パロウ

 人には自分が自分であると理想的に信ずる部分の憑代としての自己、つまりテーゼな自己構成要素と、それから不本意な意思、自分では認めたくない、或いは、認めることを避けている部分、つまりアンチテーゼな自己構成要素とをあわせもっていて、日常の精神活動はメビウスの輪の如く表裏を入れ替えながら伸長して行く不規則な螺旋階段のようなものなのです。
 登り続ける階段において自分の頭が上にあるのか下にあるのか、時として不覚に陥り混乱を招きます。それが異常な状態と言えます。
 しかしアンチテーゼな部分において自己認識の不覚に陥ったからと言って、常に「異常である」とは言えないでしょう。むしろ、その時点においても正常を保っている人のほうが多いはずなのです。
 正常と異常の境界と言うものは極めて曖昧であって、「ここから先が異常」などという基準は表向きな精神疾患においてしか適用されていないのが実際なのです。

 ぼくらのへんたい01 (徳間書店、2012年9月) 

 人は一変します。その変化の速度に緩急はありますが。
 願望によってか、狂気によってかは別として、変化する可能性を誰でもが秘めているのです。

 …物心ついたときには、自分は女だと思っていた。股についている異物はいずれなくなると、胸はいずれ大きくなると信じてやまなかった。自然とそうならないと知った時のショックは大きかったけど、テレビに出てくる人を見て、人工的にでもなれると知って立ち直った。そうすることが当たり前だと思っていた。そうすることに何の違和感もなかった。…

 僕たちが望んでいるものは常に変化を伴う。変化を望まない「願望」などというものは元から存在などしてはいないのです。
 変質と変容を望む姿こそが人間本来の欲望であることを主張しても、真っ向から否定されるものではないでしょう。ただその変質と変容には「社会的適合性」という外部基準による要請が付きまとっているのです。
 大多数の人たちはその基準から外れないように無意識において願望を制御し、諦めているものなのです。しかし、その深層においては自分が大衆と呼ばれる平均化された存在であると確信し自負している人々よりも、自分は他の人々とはどこかが違う、違う価値観を持っているとマイノリティであることをわずかながらでも思っている人間のほうが多数を占めているはずなのです。
 「自分はマイノリティである。ただそれが適正に具現化されていないのは、それを発揮する機会にめぐまれていない、適正な評価を与えられる人間がいないのだ」と鬱憤を抱く人々のほうが多くて当然なのです。

 …誰でも、誰でもよかった。霊能者でも、心療内科のえらい先生でも、同じように女装を余儀なくされている奴でも。死んだ姉の姿をすると、死んだ姉がみえるんです。見えるだけじゃなくて、話しかけてくるんです。どうしたらよいでしょうか?…

 ぼくらのへんたい02 (徳間書店、2013年2月)

 螺旋状にテーゼとアンチテーゼとを回り続けているうちに、その曖昧さに精神を浸食され、あったはずの確固たる自我の境界さえもが朦朧として、そのうちに気味の悪いマーブリングのようにどちらも混濁し、最後にはすべての要素の形質を維持することも難しくなってしまうところまで行き着いてしまう人たちがいます。
 それを不幸と呼ぶか否かは別として、見方を変えればテーゼな自分もアンチテーゼな自分も捨ててしまうことができれば、その過程において完璧なる精神の破壊が生じれば、その人は理想的な精神世界にのみ生きる存在になり得るとも言えるのです。外部の刺激には一切反応しない夢の世界の住人になることも可能なのです。
 現実において限界を突破する人は極めて稀です。変質と変容が望みの原点であるにも関わらず、それを自制させる自己の存在が現実の自分に苦役を強いていると言えるでしょう。
 人は自ら望んで磔刑にかかるという、他の動植物には見られない特性を有し、それがために自分たちをマイノリティだと主張して已まないのです。
 そしてまたその赦免は、自己を現実から解放する以外には有り得ないと知っているのです。

 …度の合わないめがね。好きなものほどよく見えない方が。(「ぼくがこうしてしまうのはぼくのせいじゃない」)他人のぬくもり、体の重さ、そして快感、それらを記憶が求めているからだ。…

 ぼくらのへんたい03 (徳間書店、2013年7月)

 「COMIC リュウ」で連載中の、ふみふみこ著「ぼくらのへんたい」は、自分に女装を強いる状況にある3人の男の子を軸にしています。
 女装が本来の姿であると純粋に女の子を望んでいる「まりか」。母親を慰めるために亡き姉の姿をして家庭生活をおくる「ユイ」。好きになった相手が「女」を好きだったから女装をしている「パロウ」。
 その外見だけをとりあげればアブノーマルとして不適格な烙印を押されかねない「変態」であり、また彼らが望む形での最良を実現させるための手段としての変貌と成長を示す「変態」という二面性を内包しています。
 ドライな描写のなかに見え隠れする人の持つ願望という病を、これから先どうやって展開していくのか興味の尽きない作品です。
 
 ぼくらのへんたい02-2 ユイ


 
 


 
 

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