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吉原幸子「仔犬の墓」

 吉原幸子詩集「幼年連祷」(1964年初版)

 幼年連祷 
 
 「仔犬の墓」

 地のなかに 仔犬はまるくなって お菓子の紙袋を前足に抱いて眠ってゐる

 おまへがぴょんぴょんとびはねているとき にんげんたちはしらん顔をして とびつかれまいとわざと横向いたふりなんかしてゐたのに 
 そうやって おまへがもうたべられなくなると 袋ごとお菓子を抱かせて 土をかけながら泣いてやるのです

 ゆるしておくれ わたしたちの身がってを おまへがあんなにとびはねるので 安心してゐたのよ それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった おまへの病気を さびしい抜け毛を しらなかった

 しっぽといっしょにおしりまでふってたおまへ なげたビスケットをどうしてもうけとめられなかった おふるの首輪がゆるゆるだったおまへ 捨て犬でなくなってからたったひと月 あんなに いのちをよろこんでゐた はずかしいほどなめてくれた みつめてくれた
 おまへ 茶いろのやせっぽち


 もう一遍、同じ詩集から。


 「喪失ではなくて」

 大きくなって
 小さかったことの意味をしったとき
 わたしは”えうねん”を
 ふたたび もった
 こんどこそ ほんたうに
 はじめて もった

 誰でも いちど 小さいのだった
 わたしも いちど 小さいのだった
 電車の窓から きょろきょろ見たのだ
 けしきは 新しかったのだ いちど
 
 それがどんなに まばゆいことだったか
 大きくなったからこそ わたしにわかる

 だいじがることさえ 要らなかった
 子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
 そのなかにゐて 知らなかった
 雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
 いちどのかなしさを
 いま こんなにも だいじにおもふとき
 わたしは”えうねん”を はじめて生きる

 もういちど 電車の窓わくにしがみついて
 青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
 わたしは ほんとうの
 少しかなしい 子供になれた ―


 幼年連祷 署名

 僕などがなにか言葉を添える必要などありません。きっとわかっていると思いますから。

 



 
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テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

三木卓「はるかな町」

…二十年前のこと、二十五年前のこと・・・・。それらは本当にあったことなのだろうか。わからない。ただ自分でそう思っているだけだ。過去の記憶がなくなったら、おそろしくて生きていられない。だから、自分でこれが自分の記憶なのだと、思い込むことをつくり出して信じているのかもしれない。これが自分のでてきたところなのだと・・・・。…

 tmk0595.jpg (集英社、1975年初版)

 記憶はセーブデータとは違い、正確な経過記録を示してはいません。時とともに色が添えられたり、取り違えが起きていたり、そしてそれらは自然発生的に、或いは、自発的に変更がなされてしまうものなのです。
 日記で一日を振り返るにしても綴るためには起きた事象をデフォルメすることを余儀なくされてしまいます。すべてを言葉に置き換えることなど不可能なのだから。
 変化して行く記憶こそが生きて来たと言う足跡であり、そこにしか頼るものがないという弱々しさが付きまといます。だから形に残るものをと人は願うのでしょうか。記憶と嘘との区別がつかなくなってしまうから。
 本物の記憶などというものは存在しているのでしょうか。
 ピンスポットでしかない記憶を寄せ集めてくれば人生が語れるなどとは思いませんが、残したいことだけを伝えることは出来ます。
 三木卓の「はるかな町」はそんな本です。

…「あそのこの講堂の裏に、ポプラの木が三本立っていたのです。」…
 
 プロローグはここから始まります。
 思い出話を事実として話す自分の記憶は、等しく同じ記憶を持つ者がいなければその根拠を容易く失ってしまいます。本当はそんなものはなく、自分が作り上げてしまった虚構の風景であり、そう認めてしまうと現在の自分さえも喪失してしまいそうな危うさを打ち消すために、同意をつくり出そうとして殊更事実のように言葉にしているのかもしれないのです。
 あこがれについても同様に、偶像にする必要性があるのでしょう。

…それはたしかに青春期にさしかかった少年の夢だった。だがわたしの場合、自分が決して少女たちから愛してもらえない存在である、と早くから確信していためであったろう。そういう少女たちを憎むよりは、自分より一段高いものとして、自分の手のとどかないようなすばらしいものにしてしまった方が心が楽だったのか。…

 貶めて憎むよりは美しいものにしておいた方が遥かに気が楽であると思います。
 例えば、気の合う友人であったはずの少女に恋を告げてしまうことで、その日常をも失ってしまうとしたら、失ってしまったとしたら、打ち明けずに綺麗な思い出のままにしておいた方が良い(良かった)と、そう思えてしまうのです。
 残る後悔を自己嫌悪にしないための方便なのでしょうけれど。

 この本の中に「おもどりさん」という章があります。
 
…老婆は急用があって急いでいる、という風情だった。下駄は前歯と板の前だけを使い、後ろの歯は宙に浮いているように思われた。その姿は遠ざかりつつあった。
 <なんだ>わたしは思った。<ただの婆さんじゃないか。なにがおかしい。>
 眼を離して行ってしまおう、としたとき、うしろ姿がなにかにつまずきでもしたかのように、がくっとなるのが見えた。どうしたのだろうかと思って見ていると、彼女はくるりと向き直り、わたしたちの方へ戻ってくるのだった。…

 老婆は脳のどこかに障害があるのか、それとも精神に障りがあるのかはわかりません。けれど彼女はある程度進むと何かに妨げられ、来た道を戻ってしまうのです。直線上を五十歩進んでは二十歩後戻りするように、時には数直線を負の位置にまで。
 けれど彼女には確かに行かなければならない用事があるらしいのです。それが何かは誰もわかりはしないのだけれど。
 家を出て用事を済ませ、家に帰る。その当たり前のことが彼女には難しい。
 シーシュポスに与えられた神罰ではないけれど、老婆は徒労を繰り返しているように見えます。けれどその奇妙な光景を誰が笑うことができるのでしょう。
 完成しない仕事を完成させるとういう無限の目的を持つことをある種の幸福であると言うのなら、辿りつけないまでも必死に一歩を踏み出すその姿こそ羨むべきものが存在するのではないか。全身全霊をかけた一歩を踏み出した経験のない者が待つ幸福が老婆にはあるのではないか。

 三木卓は言います。
 
…どこへ行くのかはわからないが、この人は必死なのだ、と思った。目的地にたどりつくということは、わたしたちとちがって、彼女にとっては大変なことなのだ。いったん門を出れば、目的地にたどりつくまでは血みどろの苦しみなのだった。いくら心は、はやっても、思うようにはならないのだ。それでも彼女は出掛けなければならない。おもどりさんは、たたかっているのだ、と思った。…

 物理的な歩行の話ではないけれど、僕の毎日も「おもどりさん」と大して違いはないのです。逡巡し、困惑し、波風が立たないように、切り抜けるために、観覧車のように辺りを見回しながら同じ低さと同じ高さを繰り返して廻り続けています。地に届くこともなければ、天に触れることもありません。
 そして僕には彼女ほどの必死さが、戦うものが無い。だから嘲笑の的になります。その嗤い声を抑止する資格は僕には、恐らくありません。何故なら僕自身が変えなければならないものが確かに存在しているのですから。

 この本のなかには様々な思い出の情景が描かれています。回想することで何かを残したいと作者は願いました。記憶を確実なものにするために。けれどそうするためには、決してそこへは戻れないのだと残酷な現実を知る必要もあるのです。

…ふりかえる。緑のトンネルにさえぎられて、もう若い恋人たちは見えない。わたしはかれらを見出すために、まったく正反対の方角へ歩き出す。…

 tmkG0596.jpg



 

  

室生犀星 詩集「昨日いらしつて下さい」

 この詩集は犀星の存命中に出版された最後の詩集となりました。
 装丁に拘り続けた犀星としては極めてシンプルなつくりになっています。
 巻頭に置かれた序詩はつぎのようなものです。

…何人をも恐れず
 何人をも愛することなく
 また遂に何人の味方も持たない人
 僅かな言葉を黄金に換え
 米塩のうれひを断つて
 まぼろしの往来に身をいれて居れば
 最早 何人とも語る必要はない …

 この詩集の多くにみうけられる「あなた」という言葉。
 それは犀星が詩を投げかけた特定の人であり、そして、その呼びかけに応えるのは詩を手にした「私たち」です。
 石垣りんさんは、この詩集の表題にもなっている「昨日いらしつて下さい」について次のように述べています。
 詩本編については4月24日の日記にとりあげたので割愛します。

…やさしい言葉で、昨日なら何でも出来たはずと言われても、それが出来なかったのが昨日。
 だのに昨日なら用意があったけれど、今日も明日もあさっても、あなたには何の用意もないのです、と突き放す。所詮戻りようのない過去へのご招待。
 かなしいような、切ないような、この無常とも言える招きに、私はなぜか応えたくなります。実にしばしば、はい、お伺いしますと。…

 昨日への入り口など常識の中ではありえません。
 それでも呼びかけに応えたくなる気持ちを、心のどこかでわかってしまう。
 それが悲しく、寂しいのです。

 この詩集からもう一遍ご紹介します。

 誰かをさがすために  室生犀星

 けふもあなたは
 何をさがしにとぼとぼ歩いてゐるのです。
 まだ逢つたこともない人なんですが
 その人にもしかしたら
 けふ逢えるかと尋ねて歩いてゐるのです。
 逢つたこともない人を
 どうしてあなたは尋ね出せるのです。
 顔だつて見たことのない他人でせう、
 それがどうして見つかるとお思ひなんです。
 いや まだ逢つたことがないから
 その人を是非尋ね出したいのです。
 逢つたことのある人には
 わたしは逢ひたくないのです。
 あなたは変わった方ですね。
 はじめて逢ふために人を捜しているのが
 そんなに変にみえるのでせうか。
 人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか、
 そして人間はきつと誰かを一人づつ、
 捜しあててゐるのではないか。

 昨日いらしつて下さい (五月書房・昭和34年初版)

 僕はこの詩を読むたびにしばし言葉を失くします。
 感想とか、解題とかそんなものは必要ないのです。
 ただ自分のありかたに鈍い痛みを覚えるだけです。
 「わたし」に向かって問いかけているもう一人の私が自分に重なります。
 
…あなたは変わつた方ですね。…

 そう問いかけている「私」が誠実さを失っていることに。

 詩のように生きられるわけがない。
 犀星にしても詩のようには生きられませんでした。
 けれど、だからこそ書けたとは思いませんか。
 逢う度に新しい人。
 いつも新鮮な愛情のなかにある人。
 最後に投げかけられた言葉は疑問や断定ではなく「願い」です。

 「わたしはこんな風に生きたかったのです」と。

 そして次にくる言葉。

 「見知らぬ群衆のなかでも、生まれ変わった先でも、きっとわたしはあなたに気づいてみせます。」

 夢だとわかっているから詩なのです。
 だから惹かれてしまいます。


 


 

 

 
 
 
 

金井直「予感」

 逝く人の知らせが多くなってきました。
 100まで生きて大往生を遂げた人もいれば、わずか十歳に満たずに世を去った子もいました。
 事故もあれば、病気もありました。
 彼等のひとりひとりに思い入れがあるわけではありませんが、それでも何人かは僕にとって大切な知人であり友人でありました。
 恐らく僕の耳に入らないところでも櫛の歯は毀れ続けているのでしょう。
 そして僕はその透いた櫛の歯の間を埋めるだけの何物をも持たずに、ただ残った櫛の歯を指の先でなぞってみるのです。
 弾かれた櫛先は不揃いのオートハープのような音を立てます。
 じゃれついた遊びのような仕種を繰り返すうちに僕はその毀れた櫛の歯のことを忘れて行きます。
 そうしているうちに隙間は広がるばかりで、果たして櫛の歯を弾くこともできなくなってしまうというのに。

 毀れ落ちた櫛の歯が僕の人生そのものだったと気付くには、僕はまだ終わりを知らなさすぎます。
 いつしか隙間は空虚と名前を変え、空虚となった隙間は無限の大きな口を拡げ続けています。

 僕はこうして空虚を悲観的にしか捕えることはできないのだけれど、それを無に帰すための愛情として捕えた詩人がいました。
 金井直です。
 詩集「青ざめた花」から。

 青ざめた花01 (国文社、昭和50年初版)

 「予感」  金井 直

 一つの入り口がある その内側に「始め」と書かれてある
 一つの出口がある その外側に「終り」と書かれてある
 その間の洞窟のように暗い場所を
 人生と名付ける
 又は 未来とも過去とも呼ぶ
 だが それらをそっくり呑込んでも
 どこへ呑込んだかわからないほどの「空虚」があるとしたら
 そんな途方もない愛情があるとしたらどうしよう

 青ざめた花02 



郷 正文 「鋸坂迷路」

 郷正文に「鋸坂迷路」という短篇集があります。
 鋸坂(のこんさか)と呼ばれる坂のある小さな集落。その辺鄙な集落の日常でおきた4つの事件を描いています。
 それは閉鎖された部落社会でおきた、極めて個人的で善悪といった判断さえ覚束ない、心裡の陥穽に堕ちてしまった個々の人々の断片の物語と言ったほうがいいのでしょう。
 もしくは、現実に起こらないとも言えない暗い童話と捉えることもできます。
 全四話で構成され、一部に名前の重なる人物はいますがそれが同一であるとも言えません。各々の主人公は異なり、繋がりを持ってはいません。
 共通するのは鋸坂という生活圏を示す象徴のみです。
 各話とも明確な結末は書かれていず、読後に委ねる形で締めくくられています。そこにも童話的な怖さが隠れている気がします。

 鋸坂迷路 (皆美社、1994年初版)

 各話の粗筋を簡単にご紹介しておきます。

 「鋸坂迷路」

 個人的には何の交渉を持たない相手から不意に身に覚えのない話が持ち出され、それが相手の誤解であるか妄想であるかは別として、いずれにしても事実ではないことがわかっていながら、わずかばかりの呵責を隠蔽しようとして追い込まれてしまう。人はそんな愚かさをどこかにもっているものです。
 誤解を解く手立てはどこにでもあったのに、後手に回ることによってその術を封じられてしまうということは良くあることです。
 この第一話はそういったことから、一人の男のそれまでの日常が崩壊して行くさまを追っています。

 鋸坂のある町の商業高校に赴任してきた松園は前任地で理恵子という音楽教師と一度だけ関係を持ちます。周囲には知られるはずもないことでしたが、理恵子を敵対視する婚期を逃した久美子という女教師がふたりの挙措の変化を敏感に感じ取り、そこに逆恨み的な怨恨の種を生じさせます。
 そして、あろうことか松園が転勤した後、鋸坂の自宅に夜中、「あなたとは一度だけだったけど、楽しかったね」という電話がかかってくるのです。
 電話を受けた松園は理恵子とのことを思い出し、動揺し、誰からだったのかという妻の問いに「それがよくわからないんだ」と答えます。
 その不自然な一言が妻や息子の疑心を生み、家庭や職場に繰り返される久美子からの電話が説明責任を果たせない松園に不利に働き、あらゆる防御の試みが後手となりついには家庭を失います。
 わずかな呵責と逡巡がそれまで築き上げてきたはずの信頼を崩すのです。
 それは所詮、借り物で、円満という砂絵だったのかもしれません。

 「鋸坂淡月」
 
…裏の暗い厩で、藁を敷いた地面を、何度も蹴るひづめの音が聞え、たてがみと太い首をゆすって、身震いしながら、鼻を鳴らす、馬特有のぶるるという振動音が響く。芳男には、厩のその光景と音とが、浅い夢の表面から、現実の暗闇の中へと、目覚める瞬間に、同時に訪れた。…

 目覚めた芳男は隣に寝ていたはずの母親がいないことに気づき、急ぎ探しにでます。行く先の見当もつかず走りまわり、ついに諦め帰宅すると母親は既にそこにおり、近所の人々の好奇の目をあつめていました。

…「おっ母さんが神経殿(しんけいどん)のごと、なってしまいやったそうじゃが」…

 芳男の実の母親は満洲からの引揚者で、鋸坂に流れ着いたときは口もきけず、身元もわからない乞食女となり、周囲から「神経殿」と呼ばれていました。
 その女がどこの誰の子ともわからない彼を厩で産み落とし亡くなったのち、厩の持ち主であった夫婦に引き取られ育てられます。 
 その育ての母が痴呆となり、徘徊しては誰彼お構いなしに話しかけ、昔の思い出話をし、自分と相手との親交を懐かしむのです。
 そして彼女は最後にはきまってこうつぶやきます。

…「あん頃は、ほんとにおもしろかったなあ」…

 混乱する過去の出来事を人は記憶を頼りに整理して行きます。けれど、その過程で事実は姿を少しずつ変え、ついには自分しか覚えていない出来事をつくりあげてしまいます。その過去に確信をもっているのは自分ひとりだけということもあるのです。
 けれどその錯誤、或いは、創作を正すきっかけは狂気のなかにあるのかもしれないのです。
 狂気のなかに潜む冴えた事実が一瞬に浮かび上がって来るのです。それを誰も完全に否定することはできないでしょう。
 ここに取り上げられた「正気」と狂気の中の「善良」は、最終話の「鋸坂遠景」まで形をかえて使われています。

 「鋸坂幻想」

 十年の刑期を八年で終えて仮釈放された五人が故郷の駅前広場に立った時、ひとりの老人が彼らに向かって散弾銃を発射しました。イサンという一人息子を殺した五人を狙って、父親が撃ったのです。
 物語はイサンという精神に発達障害をもつ青年を中心に語られます。彼は善良な性格のため、村人から鋸坂の先にある加紫久利神社の守り神と呼ばれ愛されていました。
 その彼を酔った勢いで山に連れ込み焼酎を飲ませ、日頃、村人から謗られている自分たちの鬱憤を顕に、嬲り殺しにしたのです。彼等は村人が反対する九州縦断道路の建設作業員でした。

…カエル殿(どん)、スズメ殿、ネズミ殿、ほれ、カエルとスズメ、スズメとネズミ、ネズミとカエル、だれが一番偉かどかい…

 「鋸坂遠景」

…「前の状態の僕は善良だった、て兄さんは指摘したけど、今の僕には死が迫ってて、未来がないから、自分の意思で決着をつけるほうが、人間的にも論理的にも正しいはずだよ。兄さんもそうおもうでしょう?」…

 精神を病み心を閉ざしていた弟がある事故をきっかけに正常さを取り戻します。そして、心を閉ざしていた頃の自分を善に位置づけ、意識が正常に働くうちに自分で自分の結末を決めることが人として正しさだと言います。
 兄は弟の意思を尊重しますが、そこには介護に疲れた現実があることを十二分に自覚し、自問自答します。

…おれは弟を殺そうとしてる。確実に弟の死を援助してる。こんな結末のために、おれたち兄弟は生きて来たんだろうか?そんなはずはない。あり得ない。おれと弟は一体だった。どちらか一方の死はもう片方の死だったし、生きることにしたって、ふたりの人生だった。でも、今おれは弟を死に追いやろうとしてる。…
 
 この短篇集に共通して取り上げられているのは狂気です。
 最初のひとつは悪意の色彩をやや濃くしてはいますが、崩壊の根幹を悪とするなら真実の悪は別のところに存在していた気がします。
 狂気という悪と狂気という善。第二話以降は次第に善悪の定まりが無くなります。忘却や狂気のなかに人としての善意があるかのように描かれている場面があり、また、正常な人が宿している狂気が姿を顕します。例えば、未必の故意も狂気のひとつかもしれないのです。
 そして、この短編集では均衡が崩れる端緒は決まって善の側からで、無垢の側からなのです。

 人は自己認識を働かせる意識下において本質は悪の側にあるのでしょうか?
 善が駆け引きのない愛のあらわれならば、善は無垢のなかに生じ、生きて行く間に付着する汚れによって見えなくなるのでしょう。
 その汚れを知識とか智慧といった呼び方をしたら不遜だと怒られるかもしれないですね。それらがとても脆弱で希薄なものだとしても、人はそれらに依存しなければ社会的存在自体を否定されてしまいますから。
 受け取り方は人それぞれですが、今この時期に読み返すには良い作品だと思います。



 

 

 
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