宮下登喜雄「墨東の風物」

 ふと寂しくなる時があります。
 自分が失われてしまった存在のような気がして、なぜそんな気持ちになるのかなんて、それはあまりにも漠然としていて、理由も何もはっきりとはしないのだけれど。そんな時、宮下登喜雄の本を取り出して眺めるのです。

 宮下登喜雄は、蔵書票などを収集している方の間では高い評価を受けている版画家です。
 木版画を平塚運一に、銅版画を駒井哲郎に師事し、木版と銅板を併用するという独自の作品表現を生み出し、1964年には東京国際版画ビエンナーレ文部大臣賞を受賞しています。1930年に東京・本所の柳島梅森(今の墨田区横川)で生まれ、2011年1月6日に亡くなりました。
 彼は長らく墨東の地で制作活動を行い、またこの地の風景を数多く作品として残しています。そのひとつに「墨東の風物」という画文集があります。限定120部で、宮下登喜雄が府中本町に転居した後に作られました。7枚の美しい銅版画が挿絵として添えられています。

 墨東の風物00 (昭和62年、私刊本)

 この本は「宮下登喜雄を囲む会」の私刊本第一号として発行されています。発刊によせた宮下登喜雄の別刷りの序書が残っていますのでご紹介します。

 …生まれてから30年間、墨田区に住んでいました。かねてから、少年時代の記録を一冊にまとめようと考えていました。「宮下登喜雄を囲む会」の発足を機に実現することができました。とにかく昔語りをすると懐古調になり一人よがりになりがちですが、私なりに情感を排して記したつもりです。
 表紙は、群青色のきずきこうぞ紙に白で木版刷り。図版は隅田川の川面にうかぶ桜の花びらと都鳥。都鳥とはかもめのことで在原業平の歌「何しおわはば、いざ言問わん都鳥、わが思ふ人ありやなしや」とあり、都鳥とは隅田川に飛来したかもめを都鳥と呼んだ。(中略)本文は特注の手ずき局紙で、当初は三方耳付仕立てにするつもりだったが印刷屋がどうしても刷りにくいというので、地の部分を裁断せざるを得なかった。外函はミューズコットンを使い、淡いブルーで表紙とツートンカラーにした。挿絵は、7点とも針描による腐食銅版で図(四)だけは夜景の感じの表現に松脂粉末によるアクアチントを併用した。…

 墨東の風物01 曳舟川と北十間川の水量調節用水門(S24頃)

*曳舟川は江戸時代から明治初頭までサッパコ(サッパ船)と呼ばれた小規模な刺し網漁などに使用する小型の磯舟を曳いて川を往来したことから名前が付きました。昭和29年に埋め立てられました。


 墨東の風物02 魚介類の荷揚屋が続く門前仲町附近(S25頃)

 彼自身が「情感を排して」と言っているように本文は客観的に当時の風物について書かれています。それは単に感傷的になることを避けたという姿勢の結果ではなく、変貌する街の本質的な理由を冷静に受け入れたためであると思われます。そういった中で彼は人々の記憶から忘れ去られて行く昭和十年代から二十年代の風景を伝えようとしたのです。

 …どろんと淀んだドブ川は埋め立てられ、軒の低い黒ずんだシタミ板張りの長屋も改築され、道は広くなった。これらの改修はその地の住人にとっては喜ばしいことであって、古くなって住みにくくなったものが消えて行くのを惜しむのは、よそ者の身勝手というものでしかない。…

 墨東の風物03 荒川用水路に架かる堀切橋(S10年代当時は木橋)

 墨東の風物04 向島「鳩の街」附近(S25頃)

*昭和の初めごろ「銘酒屋」というのがありました。お酒を提供するばかりではなく、私娼を抱えた売春店を兼ねていました。玉の井、亀戸三丁目、洲崎、向島の鳩の街が有名どころとして挙げられ、戦後は「赤線地帯」と呼ばれました。


 宮下登喜雄は当時のスナップやスケッチを基にして原画をおこしています。写真とは異なり手作業の温もりが作品に現れていることも関わってはいますが、そこにはありのままを写実的に表現するのではなく、彼自身の心象風景が薄く重ね合わせられています。
 そのことが当時を知らない僕のようなものにも既視感というのか、郷愁への共感を呼び起こしているのでしょう。有り得ていた風景の中に、どことなく不思議さが漂っている気がします。そのある種の奇妙さが「僕はこの風景に似ている場所を知っている」と思わせるのです。

 墨東の風物05 言問橋、白髭橋間の堤通り下の長屋(S24頃)

 墨東の風物06 東武線曳舟駅近くの芝居小屋(S24頃)

 時の流れには大きく分けて、変貌させる流れと、変化を感じさせない流れとがあります。時は止まるはずはないのです。常に動いています。変化は望むと望まなかろうと必然に起きてきます。如何な郷愁が働こうとも止めることも、止まることも不可能です。 
 画家がかつての風景に残そうとしたものを探る時、そのふたつの時の流れを避けては通れないし、目を逸らしてはならないのです。
 
 宮下登喜雄がここに残した風景は、かつて灰塵に帰した風景です。焦土と化し、木炭化した死体がマネキン人形のように積み上げられた場所であるのです。
 彼は巻末で、この画文集の中ではそれまで極力排してきた私感をはっきりと述べています。

 …最近、日本国憲法第九条「戦争の放棄」に不満を持つ動きが一部で起きているようだが、あの空襲の悲惨な情景を知ったら戦争の恐ろしさ、愚かさは二度と繰り返したくないはずである。私自身も大切なものを失い。大切な時間をも失った。家族を失ったものさえ少なくない。
 戦争はいつの世でも一握りの誤った支配者が起し、犠牲になるのは一般国民なのである。これは思想の右でも左でも、保守でも革新でも関係ないのである。…

 その風景がなぜ失われたのか、失われねばならないその理由は、宮下登喜雄が先に述べたように「その地の住人にとっては喜ばしいこと」であるか否かなのです。

 墨東の風物07 隅田川河畔(S24頃)

*恐らく吾妻橋付近の河畔から見た風景でしょう。対岸に見える大きな建物は松屋デパートと地下鉄ストアです。ここの川岸には鉄柵がありましたが、戦時中、軍に供用され取り払われました。


 僕はあまりにも無意味に何かを失ってきたのではないかという気がします。喪失の理由に目を耳を塞いで、失ったことにも気づかずに来てしまったのではないでしょうか。理由を知る勇気を持ち合わせていなかったために。本当にそれが幸福のための喪失ならば、いつでも受け入れる気持ちは誰にもあるというのに。

 宮下登喜雄が伝えようとしたものを、僕は彼の作品を開くたびに探し続けます。



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岡本一平「一平漫画 」

 一平漫画 00 文興院、大正13年初版
 (函、表紙、奥付)
  

 今更ご説明のほどは無いと思いますが、岡本一平は岡本かの子(旧姓・大貫カノ)の夫であり、岡本太郎の父親です。 
 三重県津市の儒学者・岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名・良信)と母・正(まさ)の長男として1886年6月11日に北海道函館区汐見町で生まれました。
 上京した後、大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進み、藤島武二に師事しました。この時美術学校で大貫カノ(岡本かの子)と知り合っています。

 岡本一平は漫画家のみならず、歌謡曲の作詞も手がけています。
 昭和15年に飯田信夫の作曲、徳山璉の歌唱で流行した「隣組」は、馴染みやすいメロディで、その後も替え歌などで耳にした方も多いと思います(メガネ・ドラッグやドリフの大爆笑のテーマなど)。原詞は次の通りです。

 「隣 組」

 とんとんとんからりんと隣組 格子を明ければ顔なじみ
 廻して頂戴、回覧板 知らせられたり知らせたり

 とんとんとんからりんと隣組 あれこれ面倒、味噌醤油
 ご飯の炊き方、垣根越し、教えられたり教えたり

 とんとんとんからりと隣組 地震や雷、火事泥棒
 互ひに役立つ用心棒、助けられたり助けたり

 とんとんとんからりと隣組 何軒あらうと一所帶
 心は一つの屋根の月、纏められたり纏めたり

 一平漫画 01 「心新聞にあらず」(口絵)

 さて「一平漫画」ですが、大正13年に文興院から刊行されています。大正8年に発刊された「欠伸をしに」以来の画文集でした。
 当初この本は他社から出版される予定でした。しかし一平が漫画を請け負い、月刊誌として発行された世界写真画帖が創刊四号で廃刊の憂き目に会ってしまいました。その責任の一端を感じていた彼は企画が進んでいた新画文集の出版社を変更して発刊することにしました。
 自らの最上の代表作のためにと思っていた「一平漫画」と題したのは、売上向上のために一役立たせる目的でした。

 序文にはこう述べられています。

 「謂はばこの書は、氏の書店の興廃に関して、丁度日本に對する日本海海戦のようなものだ、と自分の責任の上だけでは感じている。どうか賈れて貰ひ度い。その意味から、自分の最上の漫畫集が出来た時に完すべき『一平漫畫』といふ名前を、むざむざとこの書に完した。むざむざと申すところに、著者の藝術的苦衷を察して貰ひ度い。」

 けれども発刊までには更に困難がまちうけていました。
 関東大震災です。震災によりほぼ完成していた凸版紙型の大部分を損壊してしまったのです。それを懸命に復元補正してようやく刊行の運びとなりました。

 岡本一平はそのことに関し次のように書いています。

 「生命力の強いもの程、障害に偶ふては光明に向かって跳ね上がる。鯉の瀧登りが、そうだ。地震を越して書肆の名前が變つて、新春に處女出版として發刊される書物!予は此書の運命の強さを信じて居る。この書を第一出版にする金子氏の文興院も亦然あるべきものと信ずる。
 本書巻頭の東京漫詩も地震で舊東京の壊滅した今日、却って興味を喚起する好記念作品になると思ふ。(大正十二年十二月三十日 修復せし芝白金崖下の家にて)」

 本編は「一平自畫傳(自画伝)」「漫畫漫詩の東京」「最安心な婿選擇法」「藝術品と珠算盤」「學生生活スケッチ」などが収録されています。

 「小学校時代-水を掃いた清書」

 一平漫画 02  (「一平自畫傳 」より)

 書家なる僕のおやぢが、僕の字の下手糞なのを見て、「貴様は到底俺の後継になれ相もない。繪は易しいから、繪ならどうやら飯が食へやう」と、それから舊式な狩野派の先生の處へ、毎晩習ひに遣られた。
 先生が晩酌をやる横の方で、毛氈(もうせん)を敷いて手本の臨写をするのだ。つまらなくて堪らない。新しく描いた振りをして、前の晩描いた奴を、毛氈の上へ載せて置く。先生は酔って知らないから、新しく描いたものと思ひ、真面目になって批評する。
 一週間許りは發見されなかったが、あまり毎晩同じやうな畫(え)なので、つひに發見かった。その翌晩から、先生「こりゃ確かに今晩描いたのかな」と、濡れてるか乾いてるか、畫の上へ掌を宛てて見る。こっちも先以って、ちゃんと乾いた畫の上へ、掃毛(はけ)で水を掃いて置く。

 この子にしてこの親あり、と言うべきか、小学生にして流石は岡本太郎の父君らしいウィットです。

 もうひとつ。

 「入 口」

 一平漫画 03  (「画家裏面展覧会」より)

 「倅(せがれ)が畫家になりてえちゆうが、畫描きとはへえどんなものか、ひとつ入(へえ)って見べえ。」
 「五十銭はたけえのう。」
 
 


 

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「新錦繪帖 處女の頃」- 挿絵(和書)-

 柳原白蓮と島成園による「新錦繪帖 處女の頃」を取り上げます。
「新錦繪帖 處女の頃」は12カ月をテーマに成園の木版画と白蓮の歌や詩文で構成されています。

 柳原白蓮は大正から昭和にかけて活躍した女流歌人で、大正天皇の従妹であり、筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻。伝右衛門との不幸な結婚生活を打開するために新聞紙面で夫宛の絶縁状を公開し、恋人と出奔した女性です。
 当時もっともスキャンダラスなことをやってのけた恋に生きた女性。白蓮については後ほど改めてとりあげます。

 白蓮と成園、この二人は家系的な差異はあるとはいえ似た境遇で育っています。出版社としてはそういった視点を踏まえて企画したものと思います。


 「新錦繪帖 處女の頃」 (1922年)

 處女の頃 01
(島成園・画、柳原白蓮・詩文、大鐙閣、大正11年初版)

 島成園は、明治25年(1892年)2月18日(13日とも言われています)に大阪府堺市で島栄吉、千賀夫妻の長女として生まれました。しかし生まれてすぐに母親の実家である諏訪家の養女にだされたため諏訪姓を名乗ることになります。
 父親は襖絵師であり、兄も扇や団扇などの絵師をしており、彼女はその仕事を目で見ながら絵画を学び、15歳頃から本格的な絵を描くようになりました。
 大正5年(1916年)に女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊とともに「女四人の会」を結成し、大阪で個展を開催しました。あまりにも革新的なその絵画は世の美術家を驚嘆させます。特に女性画家にとっては「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの」と言わしめるほどでした。しかし、その作品の主題が身分を超えた恋愛、不倫、心中物語におかれており、それらは性的倒錯や犯罪などを喚起するものであり反道徳的であるとの理由で猛烈な批判に曝され、美術界から反感を買うことになります。
 その才能を惜しんだ鏑木清方などの擁護の甲斐あり、翌年の文展で入選し、画家としての評価を取り戻すことに成功します。これを契機に大衆新聞、雑誌、カレンダー、絵ハガキなどでの挿絵を多数手掛けることになります。
 大正9年(1920年)11月に銀行員であった森本豊次郎と結納を交わし結婚生活に入りますが、この結婚は本人の同意なく行われたために成園は、その不満や生活の疲労から制作意欲を失い、その作品にはかつて見られた生気が感じられなくなりました。
 そうした中でも、豊次郎の上海転勤にともない、中国と大阪を行き来する生活で新たな刺激を受け「上海にて」「燈籠祭の夜」といった秀作を描いています。
 終戦後は大阪に戻り昭和26年から31年までは個人展を開き、昭和35年から44年までは門弟であった岡本成薫との「二人展」を開催しました。
 画風を変えながら精力的に画業に臨んだ晩年でしたが、昭和45年(1970年)に宝塚へ転居した直後の3月5日、脳梗塞により78歳で世をさりました。

 處女の頃 02 一月「押繪のきみ」、二月「つぼみの花」

 初春やあけていくつの年の數 みたすあまらすもろ手の指に

 あやまちて屋根に上せしよき羽子の かへりこぬ夜のさびしき夢路

 羽子板の押繪のきみとそひふしの 春やむかしのおぼろ夜の月

                    (「押繪のきみ」より)

 處女の頃 03 三月「雛まつり」、四月「櫻ちる頃」

 いつしらず小女となれば吹く風も わが髪に来てぞとものおもふ

 櫻花ちるもちらぬもかかわらぬ 小さき心になにをはぐくむ

 人の世の罪も掟もかなしまぬ 小女がながす涙は何ぞ

                    (「櫻ちる頃」より) 

 處女の頃 04 五月「菖蒲風呂」、六月「しゃぼん玉」

 子守女のかなしさは 子供が泣いても乳もたず
 習い覚えたふるさとの うたをうたへばすやすやと
 眠るこの子のかわいさに あかい夕日の落つるまで
 うたをうたふよ子守うた
                    (「子守うた」より)

 處女の頃 05 七月「七夕」、八月「子守うた」

 妾腹の子であった白蓮は生後7日で実母の元から離され、麻布にあった柳原邸に引き取られ初子の子として育てられることになります。しかしながら当時の華族は自分で子を育てず乳母へ里子に出すという習慣があり、白蓮もその例に倣い品川の種物屋を営んでいた「増山くに」の元で7歳まで育てられます。
 白蓮は回想でこの海辺の町で生活していた頃が一番幸せだったと述べています。彼女にとって「子守」とはある種、母よりも特別なものであったのだと思われます。

 「海恋し浪の遠音を枕して さめては寂しいいくとせのの夢」(白蓮)

 處女の頃 06 九月「虫の聲」、十月「わたくしの犬」

 虫売の聲かとなかばいひかけて 赤き鼻緒のきゆる門の邊

 きりぎりす幼き人にかはれたる その音も夜ごと細くなりゆく

 鈴虫よ何かかなしておなきやる 夜はよすがらねられぬものを

                      (「虫の聲」より)

 處女の頃 07 十一月「小春日」、十二月「クリスマス」


 クリスマスの店の飾りも嬉しやな 道ゆきふりのかるき足どり

 つつましき降誕祭のうたのこゑ 造り花さえ散るかとおもふ            

                      (「クリスマス」より)







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