柳原白蓮と島成園による「新錦繪帖 處女の頃」を取り上げます。
「新錦繪帖 處女の頃」は12カ月をテーマに成園の木版画と白蓮の歌や詩文で構成されています。
柳原白蓮は大正から昭和にかけて活躍した女流歌人で、大正天皇の従妹であり、筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻。伝右衛門との不幸な結婚生活を打開するために新聞紙面で夫宛の絶縁状を公開し、恋人と出奔した女性です。
当時もっともスキャンダラスなことをやってのけた恋に生きた女性。白蓮については後ほど改めてとりあげます。
白蓮と成園、この二人は家系的な差異はあるとはいえ似た境遇で育っています。出版社としてはそういった視点を踏まえて企画したものと思います。
「新錦繪帖 處女の頃」 (1922年)
(島成園・画、柳原白蓮・詩文、大鐙閣、大正11年初版) 島成園は、明治25年(1892年)2月18日(13日とも言われています)に大阪府堺市で島栄吉、千賀夫妻の長女として生まれました。しかし生まれてすぐに母親の実家である諏訪家の養女にだされたため諏訪姓を名乗ることになります。
父親は襖絵師であり、兄も扇や団扇などの絵師をしており、彼女はその仕事を目で見ながら絵画を学び、15歳頃から本格的な絵を描くようになりました。
大正5年(1916年)に女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊とともに「女四人の会」を結成し、大阪で個展を開催しました。あまりにも革新的なその絵画は世の美術家を驚嘆させます。特に女性画家にとっては「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの」と言わしめるほどでした。しかし、その作品の主題が身分を超えた恋愛、不倫、心中物語におかれており、それらは性的倒錯や犯罪などを喚起するものであり反道徳的であるとの理由で猛烈な批判に曝され、美術界から反感を買うことになります。
その才能を惜しんだ鏑木清方などの擁護の甲斐あり、翌年の文展で入選し、画家としての評価を取り戻すことに成功します。これを契機に大衆新聞、雑誌、カレンダー、絵ハガキなどでの挿絵を多数手掛けることになります。
大正9年(1920年)11月に銀行員であった森本豊次郎と結納を交わし結婚生活に入りますが、この結婚は本人の同意なく行われたために成園は、その不満や生活の疲労から制作意欲を失い、その作品にはかつて見られた生気が感じられなくなりました。
そうした中でも、豊次郎の上海転勤にともない、中国と大阪を行き来する生活で新たな刺激を受け「上海にて」「燈籠祭の夜」といった秀作を描いています。
終戦後は大阪に戻り昭和26年から31年までは個人展を開き、昭和35年から44年までは門弟であった岡本成薫との「二人展」を開催しました。
画風を変えながら精力的に画業に臨んだ晩年でしたが、昭和45年(1970年)に宝塚へ転居した直後の3月5日、脳梗塞により78歳で世をさりました。
一月「押繪のきみ」、二月「つぼみの花」 初春やあけていくつの年の數 みたすあまらすもろ手の指に
あやまちて屋根に上せしよき羽子の かへりこぬ夜のさびしき夢路
羽子板の押繪のきみとそひふしの 春やむかしのおぼろ夜の月
(「押繪のきみ」より)
三月「雛まつり」、四月「櫻ちる頃」 いつしらず小女となれば吹く風も わが髪に来てぞとものおもふ
櫻花ちるもちらぬもかかわらぬ 小さき心になにをはぐくむ
人の世の罪も掟もかなしまぬ 小女がながす涙は何ぞ
(「櫻ちる頃」より)
五月「菖蒲風呂」、六月「しゃぼん玉」 子守女のかなしさは 子供が泣いても乳もたず
習い覚えたふるさとの うたをうたへばすやすやと
眠るこの子のかわいさに あかい夕日の落つるまで
うたをうたふよ子守うた
(「子守うた」より)
七月「七夕」、八月「子守うた」 妾腹の子であった白蓮は生後7日で実母の元から離され、麻布にあった柳原邸に引き取られ初子の子として育てられることになります。しかしながら当時の華族は自分で子を育てず乳母へ里子に出すという習慣があり、白蓮もその例に倣い品川の種物屋を営んでいた「増山くに」の元で7歳まで育てられます。
白蓮は回想でこの海辺の町で生活していた頃が一番幸せだったと述べています。彼女にとって「子守」とはある種、母よりも特別なものであったのだと思われます。
「海恋し浪の遠音を枕して さめては寂しいいくとせのの夢」(白蓮)
九月「虫の聲」、十月「わたくしの犬」 虫売の聲かとなかばいひかけて 赤き鼻緒のきゆる門の邊
きりぎりす幼き人にかはれたる その音も夜ごと細くなりゆく
鈴虫よ何かかなしておなきやる 夜はよすがらねられぬものを
(「虫の聲」より)
十一月「小春日」、十二月「クリスマス」 クリスマスの店の飾りも嬉しやな 道ゆきふりのかるき足どり
つつましき降誕祭のうたのこゑ 造り花さえ散るかとおもふ
(「クリスマス」より)
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