追伸、

 ここに何をどう書こうかと随分と長い時間思案していました。
 宛先のない君に向けて「お元気ですか」と書くのもわざとらしいですし、時候の挨拶など行儀めいたことはもっとそぐわない気がします。ですから、やはり独り言めいたものを書くことにしました。今までしていたのと同じように。

 僕が君からの最後の宿題を見つけられたのは本当に偶然だったのです。
 その瞬間まで君が手紙に書いていたものが詩の一部であったとは思いませんでしたし、置換したものであるとも考えていませんでした。
 ある古書店で棚から本を引き出そうとしたとき、その本に連れられて取り落としてしまったものが望月昶孝の「鏡面感覚」だったのです。
 普段であればただ拾い上げて棚に戻すだけですが、その装丁はとても特徴的で、建石修志の手になるものであることが一目でわかりました。
 そのことが僕に頁を開かせたのです。
 「闇の鏡」と題された巻頭の詩の一節目を読んだ時の僕の驚きを君は想像していたのでしょうか。
 徒好きの君のことだから十分に吟味して選び、その効果も予測していたかもしれませんね。
 僕はね、その本を抱えたまま崩れ落ちて座り込んでしまったのです。古書店の内でなければ泣き出していたかもしれません。
 へたり込んだ僕を見て店員が「気分でも悪いのですか」と声をかけてくれました。
 僕は「少し目眩がしまして。申し訳ありません」と短く謝罪しました。
 そして、「この本を」とお願いしたのです。
 神保町の喫茶店の薄暗がりの中で、ゆっくりと文字を拾いました。
 君が君自身の何をここに重ねようとしていたのかを探ろうと懸命に読みました。
 どれくらいの時間だったのでしょうか。
 淹れたてだった珈琲は息絶えてその体温を失い、隣の席の客はもう何組目かを数えていました。
 馴染みのマスターが僕の手元を覗き込みながら「淹れ直しましょうか」と言ってくれました。
 僕は死んだ珈琲を一気に喉に流し込んでから「すみません。もう一杯いただけますか」と答えたのです。

 僕は君に触れることができないくらい君に惹かれていました。
 僕たちは詩の断片を借りて、小説の一節に映して言葉を交わしました。
 僕にはその時間が充実して感じられ、交わす言葉が自分のものでなくても満足していられたのです。
 もちろん僕の知識では君が取り出すフレーズのすべてを理解することなんて不可能でしたし、それだからこその努力もできました。君の言葉を追いかけることが本当に好きだったのです。

 I miss you と簡単な三文字のあとにピリオドを打てば片が付いてしまうような感情であればよかったのにと思います。
 僕は君とともに恋愛に対する感情を失くしてしまったのです。これは過剰に表現しているわけでも、恋愛小説における定型句を引用しているわけでもありません。
 以後の僕はどこか芝居じみて、幾つかの恋も筋立てた物語のように過ごしました。どこにも恋愛はなかったのです。
 僕にはフィクションしか残されていない。
 僕そのものがフィクションであり、イミテーションであると信じ切って、それを強さとして支えとしなければなりませんでした。
 
 君の最後の手紙は僕が課題を解き明かすことを少しも疑っていませんでしたね。
 時間はいくらかかろうとも、何百万冊もある過去の出版物の中から、たったの一冊を必ず僕が見つけ出すことを何故君は疑わなかったのでしょう。
 僕にはそれが残念でなりません。
 君が最初から諦めていてくれていればと今でも思います。
 
 決して出会うことない人々の中に出会わなくてはならない大切な人がいる。
 再会する望みのない離れてしまった人々の中に真実に出会うべき人がいた。
 人はどうしたらそれを失わずに知ることができるのでしょう。
 いつになれば賢くなれるのでしょうか。
 僕の読書メモに記載された本がつい先日8千冊を数えました。僕が所蔵する約1万冊のなかの8千冊です。
 このメモは君と出会う前の中学1年の夏から始められました。数としては驚くほどではありません。一年に200冊読めばいいのです。読んだすべてが長編小説というわけでもありませんし、ただ追いつくためにだけ読み漁った本の集まりです。どれも僕の身についてはいません。
 こうしている今も、僕は君の言葉について行かれる自信がありません。どれほど読書量を増やすとも僕はまったく馬鹿のままです。

 僕は留まったまま人生を終わるのだろうと思います。

 君と歩いた小町通りにはかつての面影はありません。
 今は「今の時代」の顔をしています。それは当然の移り変わりです。懐古趣味のロマンチストには生活力がありませんから。
 もう数年も経てば僕は辿るべき何物も見出すことが出来なくなるかも知れません。
 ただ鎌倉という名の町があるだけで。
 それでも僕はそこに君を見るのでしょう。
 幻影であるか幽霊であるか。
 ひょっとしたら僕自身がそれらであるかも知れない。そうではないという根拠はどこにもない。
 見られているのは僕で、見ているのが君かも知れないのです。

 最後に僕がたった一冊の本を見つけた証拠に、君が投げかけた詩の後段を書き添えておきます。
 
 「少年はふと彼自身が闇のままであることに気が付いた。
 そして彼が真青の旅の途中であることにも思い当たった。
 今に至るまで少年は少年以外を受け入れず、
 少年は己れ自身が唯一の人間であると思っている。
 ギター弾きの少女は少年が無口になって突然姿を消したことを悲しんだ。

 少年は今どこに居るか?
 とある冷たい街角の小さなホテルや田舎の汚れた旅籠には、
 彼の足跡がかすかに残っている。
 少年は寒い北向きの暗い部屋で暮らしているであろう。
 彼は薄闇の中にほの白く光っている姿見の中に居る。
 その中で水彩画のように滲んで、
 喉仏をどもりどもり動かしつつ顔をしかめてうめいている。
 うめきながら彼の身体はうねうねとうねる。

 たまたま誰かがその姿見の前に立って自己の姿を見つめていると、
 知らない若者の顔がふいと現れて消えるという。」

 君と僕の短い物語において、僕の方がフィクションであったと誰かが教えてくれる日が、いつか来るでしょうか。
 願わくはそれが夢の終わりでありますことを。
 僕たちの同一性はあまりにも精神的に過ぎたのです。


 


 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
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鎌倉、始まりの夏(2)

  ここで7月1日の話をしよう。
 災難は通学途上の電車の中から始まった。
 特にその日だけ特別というようなラッシュ・アワーではない。息苦しいのも不愉快なのも毎日のことでそれが僕にケチをつけるということもない。
 僕は習慣的なその不快な時間を目的地まで耐え忍んでいればいいだけだ。
 一番好いのは吊革にぶらさがって目を閉じること。現実から離れた自分が作る闇と思考で時間をつぶすこと。
 たった2時間たらずのことだ、どうってことない。
 その日もそのはずだった。
 けれども、僕の自由は僕だけでは守り切れないし、許されない時はどうしたって逃れる術もなく、突拍子もない現実と他人からの害意に付き合わされるはめになる。
 僕は痴漢に間違われたのだ。
 「変なところさわらないで!」
 ヒステリックな自己顕示欲に満ち、極めて悪意を込めた声が車内に響き、それが僕に向けられて浴びせられたことを理解するのに数秒もかからなかった。
 車内がざわつき、皆の目が僕に集まる。
 こういう時、どうするかって?
 僕は冷静に反論できるほど大人ではないし、そもそも相手の見栄えが悪すぎた。その容姿は痴漢がどうとか言う次元を遥かに下回っていた。僕の主観的美意識において。
 「誰に向かって言っているんですか?僕ですか?いい加減にしてくださいよ。僕は両肩にバッグを提げて、両手を吊革に止めていたんだ。触れるわけがないでしょう?」
 「だって私、見たもの。あなたの手に間違いなかった。絶対に痴漢されました」と彼女は言い張る。
 声を上げてしまった手前、引っ込みがつかないのかと思いきやそうでもないらしかった。
 彼女の目はまっすぐに僕を見、そこには軽蔑と怒りが満ちて、逃がさないよと言った気迫が込められていた。
 僕は元来、気が短い、口も悪い。こういった状況下で気弱に丁寧語で反論するなどと小器用なスキルは持ち合わせてはいなかった。
 「ふざけるなよ。僕がどうやったのか説明してみろよ。今、お前が見ているこの状態を、吊革につかまったままの姿勢でずっといたんだ。貴様の目は腐った魚よりも質が悪いのか!何を思いこんでいるのか知らないけど自意識過剰もいい加減にしろよ。」
 その時、僕の前に座っていたOLさんがヘルプに入ってくれた。
 「この学生さん、ずっと吊革につかまっていましたよ。私が証言してもいいです。何かの間違いではありませんか?」
 何て良い人なんだろうか。事実を見ていたとしても証言してくれる人などめったにあるものではない。僕は身中がペパーミントで満たされたようにすっきりした。
 しかし、それでも被害者を気取る女は自分の主張を曲げようとはしなかった。
 そう今思えば、それきり無視していれば善かったのだ。そうしていれば、その場は女が愚痴を言い続けるだけで済んだのだ。既に僕の無実は証明されていたも同然だったのだから、それで済ますべきだった。
 けれども喉元まで出かけた罵詈雑言を飲み下して無かったことにすることなど僕に出来ようはずもない。
 堰き止め湖が崩壊するように、濁流となった言葉が僕の管理下を外れた。
 「お前、痴漢騒ぎを口をする前に自分の顔と体型を自覚してるのかよ。ラードでこりかためたマトリョーシカしかみたいな人外のスタイルで、豚猫がひと晩泣きはらしたような不細工ツラしやがって、よくもそんな被害者ぶりを気取れるな?人に罪をなすりつける前にもっと自覚すべきことがあるんじゃねえのか?お前なんか触って警察に行くよりもツマヨウジで銀行強盗をやらかして笑われたほうがましなんだよ。お前とじゃ、割に合わねえよ。間違っても触るような価値なんかお前には微塵もないし、触ったりしたら手が骨の髄まで腐っちまうんだよ。ふざけるな!」
 (ああ、しまった)と思った時にはもう遅い。
 今でこそ相手を面罵したい気持ちを自制して毒舌に留めることができるようコントロールしているが、当時は若すぎた。
 それまで味方ムードだったOLさんまでも(何もそこまで言わなくても)と言った表情になり、周囲も「間違ったのは悪いけど、そこまで罵倒しなくても」との声が囁かれ始めた。
 豚猫の薄気味悪い啜り泣きを横に聴きながら、僕は下車予定の駅まで非常に気まずい時間を過ごすことになった。
 この瞬間、僕は間違いなく悪だった。
 ドアが開き、人がどっと流れだすのに身を躍らせて僕はさっさと外へ出た。
 (俺が悪いのか?悪いのはあっちだろう)と煮え切らない憤懣を抱き、切符をクシャクシャに握りしめ、改札台に叩きつける様にして通り過ぎた。
 そう、改札を通り抜けたはずだった。
 晴天の霹靂とは一度綻びたら立て続けに起こるものなのか。それとも先ほどの罵詈雑言の報いなのか。いきなり駅員に腕をつかまれた。
 「待て、お前。今、キセルをしたろう。こっちへこい。」
  僕は抗いはしたが結局は駅務室に連行され、そこで弁明を繰り返すハメになった。
 「お前、定期を見せてみろ。」
 「定期は期限が切れているので、今日は切符を買いました。」
 「嘘をつけ。期限切れの定期で改札を通り抜けただろうが?ええっ?」
 「違います。切符を置きました。」
 若い毬栗頭の駅員はまるで正義の保安官が小悪党を捕らえたような得意顔でにじり寄る。
 上司と思われる年配の駅員が仲に立ち、「一応、定期券をみせてもらえるかな?」と言った。
 僕は素直に定期を差出した。
 毬栗頭の知能指数が低そうな駅員は、動かぬ証拠とばかりに声を張り上げた。
 「どうです、不正使用の証拠がでましたよ。どうです?」
 僕が目の前に置いてあった改札鋏で奴の唇に穴を開けなかったのは、ほんの少しばかりの自制心と話せば分かるという甘い気持ちが残っていたからだ。
 僕はクシャクシャに握りつぶした切符の話をし、探して欲しいと頼んだが、固より彼らにそんな手間をかけるつもりなどはなかった。
 今ならはっきりと断言できる。
 次に同じことがあったら全力で振り切って逃げる。もともと話合いの余地は無い。官憲は悪を作りたがる。
 生徒手帳を出せと言われ、学校に連絡され、「生活指導の先生が来るから待ってろ」と言われた。
 これは僕にとって渡りに船だった。生活指導の先生は、MK先生も、SN先生も僕の人となりを良く知っている。全力で弁護をしてくれるはずだ。僕は極一部の、ほんの少数の教師を除いてウケが好かったのだ。
 しかし思惑とは崩れるように出来ているものだと痛感することになる。小半時ほどで僕の期待と正当性は消滅し、敗戦が決まった。やってきたのは先の両教諭ではなく、こともあろうに担任のIだった。
 この男、生徒の顔色を見るのに非常に機敏で人気取りを最優先にしている教師であり、年齢も生徒とそう変わりがなかったのと、坊っちゃんタイプの容姿とが相まって生徒から人気があった。
 だが、その実、この男の頭の中は保身ばかりがつまっていて、都合が悪くなると即座に生徒を裏切るのだ。僕は生徒会の役員をやっていたのでそう言う側面を何度も見てきた。
 ここでも僕は案の定あっさりと見捨てられた。
 とどのつまり、九千八百何十円かの課徴金を払わされたのだ。
 彼は僕の弁護などひと言もしてはくれなかったのである。
 この時、僕は誓った。
 いつかこの九千八百何十円かをキセルで取り返してみせると。

 痴漢にキセル、惨憺たる一日のスタート。
 しかもその上、Iに連れられて教室に入った僕を憤慨させることが更に準備されていた。
 Iの奴は、ご丁寧に僕がキセルで捕まったので身柄を引き取りに行くのだとクラスの連中に公言していたのだ。
 馬鹿馬鹿しいを通り越して、全てが投げやりになった。
 そうして僕はその翌日、つまりは7月2日、鎌倉にいる。
 ひとつ言わせてもらうが、僕は不登校などではない。
 ただ単に怨憎会苦に耐えるだけのメンタル面のタフさを持ち合わせていなかっただけだ。

 彼女は僕の話を黙って聞いていた。
 特にコメントをするでもなく、「ふぅん」と言ったきり表情もあっさりしたものだった。
 彼女の最初の質問は「平日なのになぜ鎌倉にいるのか?」で、それに対する僕の返答は上記の通り。
 そして次の質問が、彼女にとっては最重要事項であった。
 「事情は理解できるものがあるわね。共感を得るだけの説得力はあるかもしれない。それでは次は、もっと大事なことです。私は誰でしょう?」
 彼女の目は真剣に詰問していた。
 僕に誤魔化しは許されなかったのだ。
 故に素直に謝した。

 「…すみません、お名前を忘れました。」

 これが沢渡麻衣との三度目の邂逅であり、僕が彼女の名前を刻みつけた瞬間だった。
 こうして最初の夏が始まった。



 

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鎌倉、始まりの夏(1)

 198X年の7月は確かに仏滅から始まっていた。
 僕にとってあまり良い月周りではなかったので、そんなつまらないことを今もって記憶している。
 と言うか7月1日は思い出を語るにしても憂鬱で億劫になるぐらいに数ある最悪な日のうちのひとつだった。
 嫌なことと言うのは思い出すたびに最悪を更新する。
 だから今は7月1日が最悪だと言いきれる。(もし僕が別の日のことを思い出し落ち込めば7月1日は最悪から二番目となるけれども。)
 もっとも、「では順風満帆な月があったのか」と問われれば、常に「否」と答えざるを得ない。
 それも情けないが、僕には順調な時と言うのが思い出しても見当たらない。
 僕が健忘症で物忘れが酷いのだとしたら、事実としてそこは救われるだろう。 
 しかし嫌なことほど覚えが良い。がっかりするほどの真実である。
 またそういった人生の起伏を「吹く風があり、立つ波があるからこそ生きているのだ」と諭されたら「そうですね」と答えるしかないのも常だ。
 地上に風がそよとも吹かないとしたら生物のほとんどは死に絶える。風はどうしたって不可欠なのだ。
 ジェットコースターだって緩急があってこその享楽であり、人生もそう言った刺激が必要なのは同じことなのだろう。
 それにしたところで、立つ波風は乗り越えられるくらいの適度さに留まって欲しいと思うのは身勝手というものだろうか。
 いずれにしろ7月1日は最悪だったのだ。
 その最悪の翌日に平然と学校へ行かれるほど僕は強くない。
 この頃の僕はむしゃくしゃするとすぐ鎌倉へ行った。
 あの町は落ち着く。
 焦らないで済むと言うのか、歩くことに飽かさせない。歩くと言うその時間の緩やかさを大切にしている町である。
 京都や奈良ほど人も多くは無いし、歩き回れる範囲で満足できる。何より東京からもっとも近い古都である。 
 都会は気忙しいを通り越し、気が狂っている。人も情報も夥し過ぎて僕は吸い込み切れず息ができなくなる。
 だから逃げ出す。
 不器用で優柔不断で意気地なしで頭が悪くて運動嫌いで根気がなく諦め癖がついていて友達も少なくて、そのくせ短気で逆切れしやすくて三歳児の魂が弥勒の来臨まで根に持つような陰険な性格で虚栄心だけは目いっぱい持ち合わせていた、そんなだらしなく情けないのが、僕、だった。

 その日も本来下車すべき駅を遥かに離れ、慣れ親しんだ北鎌倉の駅のホームに降り立っていた。
 平日の午前中、学生の通学時刻も既に一息つき人影も少ない街道沿いを明月院に向かって歩く。すると前方の踏切を渡ろうとする向こう側で女の子が何かを探す素振りをしていた。
 ペールブルーのノースリーブ・ワンピース、白いソックスに茶色皮のスクールシューズ、薄いベージュのクロシェ・ハットにはリボン状のコサージュ。顔は帽子に隠れてよく見えないけれど僕とそう年齢は変わらない感じがした。
 夏の陽を受けたその姿は、モネの描くパラソルをさした女性の絵を彷彿させるものがあり、カメラを携帯していなかったことを少しばかり後悔した。
 僕は怪訝ながらも大事なものでも落とし困っているのかと思い声をかけた。
 「何か失くしものですか?」
 すると彼女は、つと立ち僕を見てこう言った。
 「ナンパの口実をあたえちゃったね。」
 絶句するより早く僕は木枯らしに紅を集める烏瓜よりも見事に赤面した。その反応は濃縮食酢をどぼっとブロモチモールブルー溶液に落とした時よりも速やかだったろう。
 声をかけるのではなかったと言う後悔と、何という失礼な口をきくのだろうと言う憤りが心中に起こったのは言うまでもない。
 が、まるで旧友と再会したかのような、あまりに無邪気に微笑む彼女の前ではそれらはシャボン玉のように一瞬で弾けて消え、顔の火照りだけが残った。
 彼女はスカートの裾の埃を軽く払う仕種をして、白のショルダーバッグを肩に掛け直した。
 僕は「なんでもなければいいんです。困っていたらと思っただけですから」とペコっと頭を下げて通り過ぎようとした。
 すると彼女は「あなたは私と同類の匂いがするね。学校をさぼったでしょう?それに前に会ったことあるし。覚えてる?」と笑う。
 こういう時、僕はどう対処すべきかの行動マニュアルを所持していない。危機管理に乏しいとも言える。
 他人はいつも唐突に想定外のリアクションを要求してくるので、それがいたく苦手だった。
 僕は人の顔を覚えるのが得意ではない。
 特に日常の関わりが希薄なら、それが芸能人だと言われても翌日には忘れてしまう。同級生の名前と顔も未だに一致してはいないのに、ましてどこかで一度会ったくらいの女の子では斯くも当然のことであった。
 「Tさん、でしょう?」と彼女は僕の名前まで知っていた。
 (もしや補導員?)
 (誰に頼まれた?どこの回し者だ?)
 冷や汗が流れ、心臓が早鐘のように鳴る。
 (逃げる?何処へ?もう見つかっているのに?)
 彼女の外見と年齢から冷静に推測すれば全く的外れなことは明白だった。
 焦りは頭の回転を鈍くし適切な判断をしようとする脳を差し止める。
 僕は沈黙した。
 彼女はすっかり呆れた表情で腰に手をあて溜息ひとつ、こう言った。
 「前に鎌倉駅前の喫茶店でお金を立て替えてくれでしょう。まだ三カ月も経ってないんだけど思い出せない?」
 そう言われて確かに思い当たる事実がフィードバックしてきた。
 あの日も僕は決まり切ったように鎌倉にいた。
 駅前の新しくできた喫茶店で遅すぎる朝食を摂り終わり会計をしようとした時のことであった。財布を忘れたとか言ってレジ前で代金の代わりに生徒手帳を質草におこうとしていた彼女に出会った。
 困惑顔のマスターを救うつもりなどなく、ただ単に、果てしない繰り返しに見える押し問答を押しのけて会計をする強さがなかったに過ぎない。
 つまりはその代金を僕が払った。
 返済など期待していなかったから立て替えたつもりはなかったのだけれど、律儀な彼女は数日後、連絡をよこし手作りのビスケットと共に代金を返してくれた。
 だから正確に言えば、この時以外の過去において僕は彼女と二度会っている。

 「思い出しました。あの節はお世話になりどうも有難うございました。」
 僕は何か妙な挨拶だぞと思いながらもお辞儀をした。
 彼女は良く澄んだ声で「あなたがお礼を言うことではないでしょう」と笑った。
 確かにそうだ。お世話をしたのは僕であって、彼女はお世話をされた側なのだ。
 「あの時も変な人だと思ったけれど、やっぱり変わった人ね。あなたって。」
 初対面とも言える相手に遠慮のない言葉をぶつける彼女に僕は少し身を引き気味にした。
 それからとにかくこの場を離れるために「あのぅ、探し物はいいんですか?」と僕は遠慮がちに話題を元に戻した。
 彼女は僕の意図を的確に見抜いたようで、先回りの答えを用意していたかのように答えた。
 「もともと何も探してないから大丈夫。これを拾っていただけ。」
 彼女は掌の中のものを開いて見せた。
 掌中には十数個の艶やかに光ったまだ青味の残る小さな実があった。
 「数珠玉?」
 「そう、数珠玉。良く知ってるのね。なるべく綺麗なものを集めてお手玉にしようかと思ってるの。」
 数珠玉はイネ科の一年草で、その実は乾燥させると色艶を長く保つことができる。そのため子どもの遊び道具の数珠につかわれていた。もちろんお手玉にも。
 「こんな季節に珍しいですね。普通は秋頃なのに。もう集まったんですか?」と僕。
 「別にいつまでに作るとかないし、気が向いた時に拾ってるだけ。そのまま失くしちゃうこともあるしね。できてもできなくてもかまわない。私に作る気持ちがあればそれでいいの。それに何よりもまだ七月なのに珍しいから。」
 彼女はそう言ったあとで持っていた数珠玉を豆まきをするように川面に放った。
 「さて、ここであなたに質問です。きちんと答える様に。」
 彼女は手をぱんぱんとはたいてハンカチでぬぐい僕の方へ向き直った。
 その時、すっかり存在を忘れていた踏切の警報が鳴り、遮断機が降りはじめた。
 「あっちへ行きましょう。」
 彼女は僕の前に立って慣れた足取りですたすたと歩きだした。
 何も彼女についていく謂われはないのだけれど、僕の自由選択の余地は既に消え失せ、完全に主導権は彼女が掌握してい、彼女はそうすることに寸分の疑いも持っていないようだった。
 元来た街道沿いと平行に走る線路際の道を円覚寺の方へ戻る様にして僕たちは歩いた。
 彼女は円覚寺手前の、ともすれば見落としそうな甘味屋の前で立ち止まり「ここ」とだけ言って入って行った。
 
 
 
 
 
 
 

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坂道

 北へ向かうのはどうしても気が進ままなかった。だからと言って昨年と同じく長崎に居るということは僕にとって必然というわけでもなく、気が付いたらそこに着いていたというだけのことだった。
 前の年と決定的に違うのは、僕は卒業を控えていて、夢の時間はもう終わりに近づいていたってこと。
 どこをどう歩いたのか地図を持たない僕には自分が立っている位置さえ正確に把握していず、幾つかの細い階段を上り、教会と墓地の間を抜けて、住宅地の隙間から覗える海を眺めては風の匂いを嗅いだ。さらに坂道を上り続けると右手側に錆び付いた鉄門扉があり小振りながらも洒落た洋館があった。その荒れた庭は無人を表しているかのように見えたけれど、そこが確かに廃屋なのかは判断つきかね、表札をみると剥がれかけた塗装は朧げに「S・AMADA」と読め、その名からは邦人か外国人なのかもわからなかった。門に少し手を掛けて押すと不機嫌な音を軋ませながらも予想外に軽く動いた。そのまま入ることは容易だったのだけれど僕は思い留まった。
 君の声が聞こえた気がした。
 「小さな恋人たちが探しあてた洋館はこんな感じかも知れないわね。ここなら誰にもみつからないって。私たちも入ってみる?赤面するような落書きを見つけて出て来る羽目になるかもしれないけど。」
 そして、きっとこんな風にも言ったかもしれない。
 「あなたは花をみれば全部薔薇だと思うほどにはロマンチストではないでしょうね。」
 確かにそうだね。
 僕は残念なことに野薔薇と蛇苺を間違えるようなことはしない。どちらもバラ科の植物だと言うかもしれないけれど。

 門扉についていた郵便受けを覗きたい衝動にかられた。もしかしたらここにも君は手紙を残してくれているかもしれない。そんな有り得ない期待というよりも妄想が頭に浮かんだ。
 そして僕は笑いだす。君に少しだけ反論したい気分になったから。

 緩めに開きかけた門を元に戻して僕は歩き始めた。長崎の坂は先が見えなくて、このままどこまでも続いていそうに思えた。
 何度目かのカーブを曲がり、滑り台とブランコが一基ずつ置いてある児童公園の脇にでた。僕はベンチを見つけて腰をかける。
 そこで君の手紙を開いた。
 列車の中、喫茶店の窓際、ここに来るまで何度それを読み返したろう。短い手紙は既に覚えきってしまった。僕が目で追うのは文章の内容などではなく、君の名残そのものだった。

 「何にも言わなくてごめんね。でも、あなたはきっとこの手紙を見つけてくれると確信しています。転居先を伝えないのは、それを伝えるためには転居の理由も言わなくてはならないからだと思ってください。あなたが好奇心からそれを私に尋ねるとは思わないけど、理由を口にできない私がその重さに耐えられないと思うの。だからお伽噺をします。

 少女がまだ闇であった頃、彼女はなんとしても陽当たりの場所が欲しかったのです。
 光る瞳は風景を掻き分けて気弱な陽炎を射竦めます。
 少女の周囲には衣服のような言葉がありました。
 その衣服のいくつかは彼女を醜くしました。
 なぜなら、それらは陥穽に満ちた生活を時折少女に強いたから。
 それらは彼女の細い両肩の真上に落ちてこようとする、翻弄された日常の小道具でした。
 ある朝、少女は生命の波打つ脈理の中に忍んでいったのです。
 暗闇の廻廊を幾度も曲がり、音叉さざめく陽当たりの部屋に踏み入りました。
 安ものの平たい臥所のあたりに、ひからびて無機的なむくろの女を見つけました。
 少女は大人にはなりませんでした。むしろそれを拒否したのです。
 彼女はただ無限に長い旅にでようと考えただけでした。
 
 これはなぞなぞです。
 あなたはどれくらいの時間をかけて見つけてくれるかしら。
 思わぬ早さであなたが答えを探し出せたら、私たちはどこかで会えるかもしれないわね。
 こんなところで何をしてるの?私の顔、忘れちゃった?って。
 だから、それまで楽しみにしています。
 プレゼントは箱にあるままの方が夢があるでしょう?
 リボンは解かないほうがいいのよ。

 あなたは風邪をひき易いから気をつけて。
 それから私からのリクエストです。
 鎌倉を嫌いにならないでね。」

 どこにも、さよならはなくて、続きを期待させるものもない。
 僕はこの手紙を失くさない。
 けれど僕は、君の最後のリクエストに応えられず、その春を最後に鎌倉を訪れなくなった。
 再びその地を踏んだのは15年以上たってからのことであり、君が投げたなぞなぞの答えをみつけるのは、さらにそこから10年ほど経った後のこと。
 「鏡面感覚」を見つけたのは本当に偶然だった。
 鎌倉という町は僕にとって姿見のようなもので、君はその中に不意に映るかつてあった幻影。
 そして、それを恐らく君は初めから知っていたんだと思う。
 やっと見つけ出せたけれど、僕には難しすぎたよ。
 こんなに歳をとってしまった。
 坂の下の風景は、もう既に僕の視界には入らない。
 君にとってこの時間は早かったのだろうか、遅かったのだろうか。
 できるなら尋ねてみたい。

 「砕け散ってしまった瑠璃の欠片も、もとはひとつの形をしていた。その記憶を人はどのくらい保てるのかしら。」

 いつか行った横浜の県立博物館で君はこう言っていたね。

 僕は、保てていますか?


 





 
 
 
 
 
 

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書斎 ~鎌倉にて

 僕が17歳の秋を迎えた頃のこと、彼女の新しい家が鎌倉山にできたというので招かれた。
 バスが急坂の途中にある停留所でとまり、喫茶店の角を曲がり、また急な坂を上っていく。簡単な手書きの地図は縮尺がわからず、大まかな目印の絵文字を辿りながら歩いた。坂が緩やかな下りとなり、また上りとなる。それを何度か繰り返していると住宅地ではあるけれど確かに山だな、と思う。
 10月の風に吹かれながらも汗はとめどなく流れ、ハンカチを出す。秋だというのになぜこんなに暑いのか、と少し腹立たしくなる。ようやく彼女の自宅マークらしい家が見えて来る。臙脂色の瓦屋根と白い壁、煉瓦で組まれた土台。神戸だったか、長崎だったかでこんな洋館をみたことがあった。
 息を整えてから呼び鈴を押すと家の奥で鈴が転がるような音がした。
 彼女の両親にはまだお会いしたことがない。僕が知っているのは彼女の2歳上のお姉さんだけだった。
 「どちらさまですか。」
 初めて聞く声に体が強張る。
 「麻衣さんに招かれましたTと申します。麻衣さんはご在宅でしょうか。」
 少しうわずった。
 迎えにでてきたのは彼女ではなく母親らしき女性だった。
 「いらっしゃいませ。今、麻衣は琴のお稽古にいっておりますが、お話はお聴きしておりますのでどうぞ中へ。小一時間ほどでもどりますから。」
 居ないと聞いてわずかに後ずさりした僕を見て女性がそう促した。
 僕は応接間ではなく、真直ぐに書斎に通された。真新しい書斎は明るく清潔感に溢れていた。緊張が手伝ったこともあるが、目がチカチカするほど。蔵書も豊富で背表紙を目で追うこともすぐにはできなかった。
 「あの子が応接ではなくここでお待ちいただくようとに言っておりまして。それからこれをお読みになってお待ちくださいとのことでした。」
 そういって一冊の本を僕の前に置いて、紅茶でもおもちしましょう、と言ってドアを閉めた。
 僕はちょっと気後れし本を手に取る気にもならなかったが、緊張をほぐす意味でも開いたほうがいいのだろうと思った。函から出してみるとメモが見返しに挟まれており、191頁から読むこと、と書いてあったので僕は指示通りに開いた。

…悲しい物語である。…

 小説はそう始まっていた。一頁も読まないうちに彼女の母親は銀のトレーをもって戻ってきた。たぶんお茶の用意は予めしてあったのだと思う。彼女が僕の行動予測をし時間など細かく指示していったのだろう。
 フィナンシェとダージリンが出された。僕は出されたものをしばし眺めて、無駄なことを訊かない母親だな、と思った。冷淡とか無関心というのではなく、恐らく本人のいないところでの話を避けたのだとその行動は感じさせた。
 僕は本を読んで待った。その物語は木賊にまつわるものであった。
 木賊は砥草とも書き、字のとおりに櫛や漆器の木地磨きに使われ、木管楽器のリードを微調整するためにも用いられる。空気が乾燥している時期には木賊同士が擦れ合い山火事を発生させるとも言われていたが真偽のほどを僕は知らない。
 蓼科の寒村に住む「馬吉」と「おろく」という貧しい小作となり果てている兄妹がいた。かつては庄屋よりも羽振りの良い家であったが、株で一躍長者となった父が満州戦役に駆りだされている間、後妻に資産を持ち逃げされ没落し小作に落ちる。その村では秋になると木賊刈りをすることになっていた。しかし父親はその義務を放棄し木賊を刈らなかった。そのため彼が担当すべき範囲から山火事が発生し、その責を問われ村から追い出されてしまう。物語は木賊と村の掟に翻弄される兄と妹の姿を書き出している。
 読むのにそう時間はかからなかった。作者の正木不如丘は探偵小説黎明期を支えた作家である。これは探偵小説ではないけれども、構成も織り込まれているエピソードも無理がなく読みやすい、所謂そつのない短編に仕上がっていた。
 読み終えても彼女は帰宅しなかった。
 僕はソファーから立ち上がって本棚を見回した。ある詩集を探したのだ。ここには必ずそれがある。僕は疑っていず、几帳面に分類された書棚から果たしてそれは簡単に見つかった。背表紙に指を掛けて引き抜き、「青空と宿命」という一遍を開いた。

…一人の父親が
 はじめて子供を野原へ連れて行つた。
 靑く晴れた空とあたらしい芝生のなかで、
 子供はゴム毬のやうに軽く弾んだが、
 遠い樫の木の根方に歩み寄つて行くその後姿を見て
 父親はそつくり幼い自分が歩いて行くやうな気がした。
 どんな人生がそこに封じられてあるのだらう?
 しかしそれさえも父親は、
 自分と同じものがそこに延びて行きそうに思へた。
 靑い空と自由な野放しの空氣のなかで、
 一人の父親が重い不愉快な宿命を感じた。 …

 百田宗治の「冬花帖」に収めれらている短い詩が連想されたのは、そう不自然なことではなかったろう。「木賊の秋」はまさにこの詩の通りの物語だった。
 立ったままその詩を読んでいたら玄関の開く音がして、ただいま、という声が聞こえた。それからよく聞き取れなかったけれど短い会話があって、彼女は書斎のドアを開いて入ってきた。僕が持っていた本を一目見た。
 「やっぱりみつけたね。私と同じ。」
 彼女は微笑んで、こう言った。
 「越えられないものってあるよね。逆らっても同じような道を辿ってしまうことも。釈迦的に言えば業って言うのかな。しかもそういうのって決まって悪い予感がつきまとっているの。確信は持てなくても、何となく心の何処かに蟠っている感じ。それが、やっぱりって言うことになる。予兆とか予感とか虫の知らせとか、ね。でもそれって偶然じゃないよね。もしかしたらね、そういった予感みたいなものが結果を引き寄せているのかもしれない。自分で引き起こしているって思えなくもないでしょう。悪い予感がした時点で手を打つことはできるはずなんだけど、人ってそのことを軽くみるっていうか、結果が起こってしまうのが怖いから目を背けるっていうのか、結局何も行動を起こさない。起きてしまってからそれが運命だって恨むのよね。自分のせいだとは心から認められないのよ。時のせいにしてしまいたいの。抗えなかったんだってね。」
 僕は彼女がどうかしてしまったのかと思った。一気呵成に話す姿は普段通りの彼女ではなかった。でも僕には彼女が喜んでいることは伝わってきた。だからそれを嬉しいとも思った。
 重なっている時間が少しだけずれていることなんて、その時間を過ごしているものに自覚されるはずはなく、呼び合うものが本当の意味で出会えるというものでもないことを遅れてから知ることになる。
 そして、何かをしておけばよかった、という悔いは常に居場所を確保している。
 



 

 



 

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