落栗花、そして、昼顔

 栗の花、落ちる。
 落栗花と書いて「ついり」と読みます。
 「つゆいり」がなまったものです。
 栗の花が散るころが入梅に重なるため、この字があてられたとどこかで聞きました。
 最近の雨は栗の花がこぼれ落ちるどころか叩き落とす勢いで降りしきりますね。どこぞの熱帯雨林にでも入り込んだ心持がします。
 そういえばボルネオに初めて行った時の夜、サウナのような湿度の中で豪雨に巻き込まれたことがありました。いつかこの国もそんな気候になってしまうのでしょうか。
 北半球の亜熱帯化。
 次に出番を待っているのは氷河期のようです。
 その前哨戦ではないでしょうが、「俺も控えているぞ」とばかりに先日は東京で雹が降り積もったりもしています。
 異常なのは気象だけではなさそうですけどね。
 とにかくこの日は前日の不規則な豪雨が小休止した心地よい快晴。
 真白な雲が青空に立ち上がり、既に梅雨が明けたかのような気さえし、あまりに気持ちが良かったので車を使わず駅までの道のりを歩くことに。
 その通りがかりの道端に白っぽい丸い小さな花を見つけました。
 ヒルガオです。
 本来は薄桃色の花弁ですが強すぎる陽射しを正面から受けて色を失くしてしまったかのように僕の眼には映りました。
 学名を「Calystegia japonica」と言い、日本原産種。
 この花はアサガオとは異なり根で増えます。ヒルガオが種を結ぶことは稀なのだそうです。
 ふたつの花は良く似ているのに全く違っているのです。
 そのヒルガオを見ながら西脇順三郎の同名の詩を思い出しました。

…ああ
 夏がまた来てしまつた
 もう何もいうことはない
 野原の方へ歩きだすだけだ…

 「人類」という詩集に収められているこの詩は、彼の他の作品と同じように非常に長い。
 
…道端の藪にからむ
 あのヒルガホのやわらかな蔓なら
 馬でもたべられそうだが
 あの花の色のうすもも色は
 地球上何属にも見られない
 薄暮の最高の哀愁の色だ
 まひるに見ても
 どんな放浪の旅人がみても
 つかれた眼になみだがにじみ
 夕暮れを感じたであろう
 放浪の心はその名を悲しそうに
 呼んで顔をそむけるだろう…

 この後、中国語でヒルガオを指す「旋(セン)」を持ち出し、続いてミルトンやランボー、ギリシャ神話を思い浮かべ、そして、道をゆく男や周囲の景色へと視線を動かし、そこから果てのない連想ゲームのように言葉が紡がれていきます。
 その自由な広がりこそ詩のもつ本質だと言わんばかりに。
 ゲンゴロウ、ジュンサイ、サルスベリ…。
 にぎりめし、スカンポ、ヘンリー・ムーア…。
 そして、この言葉の飛翔が最後に行き着くのは一匹の蛇の姿です。

…この窓から天狼星が見えます
 ところであなたは紋章学を
 やつたことがおありでしょうが
 あの赤ん坊をたべようとしている
 蛇の紋は何といいましたかね
 すつかりわすれてしまつたわい
 ああ
 野原のセンリツ
 カイレ …

 蛇足ながら付け足しておくと、この紋章は「戴冠する蛇(Serpent Vorant)」です。
 紋章の形を思い浮かべながら考えます。
 自由な心の飛翔を楽しむ余地もなく、僕たちのこの国はどこへ行ってしまうのでしょうか。
 蛇に食べられてしまうのは僕たちなのか、この国なのか、それとも他の誰かですか。
 食べようとしているその蛇はいったい誰の役回りなのでしょう?
 強すぎる陽射しに色を失くしてしまうのはヒルガオだけではなさそうです。
   
 

 
 
 
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御降り

 3日の明け方近く、窓下の花柚子の葉をさらさらと打つ音に気付いて息を白くしながら窓を開けると、ほんのりと霞むように雨が降っていました。
 正月の三が日に降る雨や雪のことを「御降り」と呼びますが、この程度の雨ではそうは呼ばないのかもしれません。

 芥川龍之介は随筆・小品集「梅馬鶯」のなかで御降りの日に家うちで突いた追羽根のことを小品1の中に書いています。

…御降りの座敷に、姉や妹の友達と、羽根をついて遊んだことがある。その仲間には私の外にも私より幾つか年上の、おとなしい少年が交つてゐた。彼は其處にいた少女たちと、悉仲好しの間がらだった。だから羽根をつき落としたものは、羽子板を譲る規則があったが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かった。所がその内にどう云ふ拍子か、彼のついた金羽根が、長押しの溝におちこんでしまつた。彼は早速勝手から、大きな踏み臺を運んで來た。さうしてその上に乗りながら、長押しの金羽根を取り出そうとした。その時私は背の低い彼が、踏み臺の上に立つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み臺を側へ外してしまつた。…

 少年は龍之介たちの目の前で長押しに手をかけたまま宙ぶらりんになり、それを見た少女たちは踏み台を取り戻そうと龍之介を叱ったり賺したりしたのですが、結局渡さず、ついに少年はぶら下がったまま泣きだしてしまったというのです。
 周りの少女たちから親しくされ人気のあった少年に対する嫉妬心が、龍之介にこうした直截な行動をおこさせたのでしょう。

 自分が今でいう「ぼっち」であったことに疑いを持たない僕は、似たような場面を何度も目の当たりにしましたし、その気持ちもよくわかります。
 ですが僕には龍之介のような意地の強さもきっかけもなかったのでしょう。報復までには至った記憶がありません。根には持ち続けていましたが、場合によっては今でも。
 しかしひょっとしたらその逆恨みを僕が忘れているだけということもあります、都合の悪いことは忘れる質なので。
 そして逆恨みをかった被害者は、不図したことでそのことを苦々しく思い出し、僕を恨んでいるのかもしれません。

 お正月に降る雨ひとつでも思い起こさせるものはあります。
 そういうものは決まって他愛ないもので、自分以外は忘れてしまっているようなことなのでしょう。
 その他愛なさは、時に面白可笑しく、時に嫌悪する記憶として、その度ごとに新鮮な感覚を伴って呼び覚まされるのです。
 そうして、その残酷さをも含めて、思い出という愁のなかに埋めてしまえるのが時の流れなのでしょう。
 つくづく時の流れって不思議に思います。
 感覚は思い出すごとに上書きされていくのに、どんなに望んでも決して現実には手を触れることはできないのですから。
 いっそ嫌なことだけを忘れてしまえれば良いのにとも思います。ご都合主義と笑われるでしょう、きっと。

 「忘れる」で、ひとつ思い出しました。

 「嫌なことを人がすべて忘れてしまったら、心の痛みがわからない人たちばかりの不幸な世界になってしまうでしょう。優しさは痛みから生まれてくるものだから。」

 彼女は確か僕にそう言ったのです。












 

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亀戸天神鷽替 - 春隣 -

 昨年は参拝することが叶わなかった亀戸天神の鷽替神事に行ってきました。毎年、足を運んではいたのですが昨年は思うように時間がとれず、ついに中断してしまいました。去年のいろいろな躓きも「もしかしたら…」との感があり、今年は験を担ぐ気持ち半分の参拝となりました。
 昨年来なかっただけと言うのに、もう何年も来ていなかったような懐かしさがあります。
 天神様の太鼓橋の袂いる「幸運の打ち出の小槌」のおじさんも、いました。その姿を見て「ああ、元気そうだな」と、ただそれだけで嬉しくなったりもします。

 鷽替H25 亀戸天神

 例年は午前中に参拝するようにしているのですが今年は仕事の都合で午後の参拝となりました。時間は2時半くらい。
 亀戸天神では薪能の奉納があるのですが今回は鷽替の列に並んでいる間に終わってしまい観ることが能ずとなりました。残念ですがまた来年の楽しみとしておきましょう。

 境内にはおみくじの結び場や絵馬の奉納場が点在しています。
 いけないとは思いながらも、こちら向きになっている絵馬をすこし覗いてみたりしました。
 天神様、受験シーズンということもあり、合格祈願はやはり多いですね。
 彼女なのか、片思いなのか恋愛成就なんていうのもありました。しかし、天神様が恋仲を裂くなんていうジンクスもありますので、微妙ですね…。
 「えいごソフトのペットがもっとそだちますように」という可愛いものもありました。自分で一生懸命に書いたのでしょうね。たどたどしく見える文字にも「思いあまりて」という感じでした。

 おみくじ結び場 おみくじ

 今年は例年にくらべてやはり寒いのでしょう。この時期、ぽつりぽつりと咲いている梅の花も今年はまだつぼみ。
 大寒を過ぎると春隣といえども、まだまだ寒い日がありますね。今日はそれほどではありませんでしたが。
 
 参拝を済ませ、天神前にある鼈甲屋を覗き見し、船橋屋の葛餅を片手にぶら下げ、通り向かいにある骨董店「ギャラリー・みそのう」にちょっと立ち寄るつもりでくぐったら、意外な長話になり、お店を後にしたのは5時過ぎでした。
 本当に「ほんの少し」のつもりだったんですけどね。
 お店の品々を一回りして退出しようとしましたら、「今、香をたきますので、どうですか?」と誘われ、僕も香をきくのは好きな方なので帰りかけた足を元に戻しました。
 ご店主の御園生さんは話し上手で、その内容もとても興味深く、時間を忘れてしまいました。ご店主のお許しがいただけましたら、うかがったお話の内容をご紹介させていただきたいと思います。

 お店を出て歩き始めた僕の背中に「今度、一杯やりに行きましょう」のご店主の声。気持ちも明るく帰途につきました。
 亀戸天神前の「ギャラリー・みそのう」にお立ち寄りになったら、ぜひご店主とお話をしてみてください。気さくで楽しい方です。

 春隣闇がふくらみ来たるなり  柴田白葉女

 ふとそんな句が浮かんできた、この日の夕間暮れでした。



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雪、そして、水泉動く

 昨日は南関東では珍しい大雪になりました。
 雪になれている方々からみれば、くるぶしにも届かぬ雪は積もったとは言わないのかもしれません。
 しかしながら雪に慣れていない僕からすると、時としてそれは大問題にも発展します。
 この日、成人式に向かわれた方もご苦労したかと思います。一入印象に残る一日になったことは間違いないでしょう。

 一月の雪01

 今頃の季節を昔の暦でさすと、小寒のうち次候第六十九候にあたります。水泉動とも呼ばれますね。
 地上は冬に覆われてはいますが地中にある泉の水が動きはじめ、見えなくとも春の兆しは確実にあると言った意味です。長い冬の厳しさを春への期待につなげようとする優しい心持が伝わってきます。

 二十四季節や七十二候なりを思う時、月並みですが昔の人々のほうが心にゆとりがあって豊かだったのだろうなと言うことですね。
 僕は先行きの不安も消えぬまま、目の前のことに大わらわで、とてもではないけれど季節を楽しむということができません。
 四季を通じてそれなりのレクリエーションはしますが、どれも刹那的な享楽で、次の季節のことなど頭に入ってはいません。

 僕が鎌倉でお世話になっていたご住職がよく「ゆとりというのは裕福なことでも、余裕があることでもない。大きくかまえて受け入れる気持ち。忙しい日常の中でふと息をついたときに自分や周りがみえてくる瞬間のことを言うんだよ。君のようにいつも殺気立っていたのでは鳥も蝶もよりつかん」と笑われていました。

 貧しくとも豊かではあるし、忙しくとも余裕を持つことはできます。僕はいまだにそれができてはいませんが、そうありたいとは思っています。

 庭に落ちる雪は唐突に積もるわけではありません。
 静かな積み重ねが気づかぬうちに庭を覆い尽くしているのです。不意に香る沈丁花もそうです。
 僕たちの時間というものも同じはずなのですけどね。それらを唐突に感じてしまうのは、受け入れる態勢に欠けているということなのでしょう。

 一月の雪02





 

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ほおずき、蚊帳、花氷

 「桜の木の下には死体が埋まっている」とは梶井基次郎の小説。
 こう暑いと、葉を茂らせる桜の下で涼んでいるうちに行き倒れになりそうです。みなさん、水分と塩分は充分に取りましょう。脳の水分が不足すると非常に危険です。まあ、水分が不足しなくても危険な人は多そうですけどね、別の意味で。
 この夏はクーラーの使用を限界まで我慢する気で頑張ってはいますが、どこまでもつかは自信がありません。
 ところで、関東地方の梅雨が明けた先週9日の土曜日、台東区浅草寺のほおずき市に足を運びました。
 水をかけられて緑を濃くした葉、艶を増すほおずきを眺め、涼を打つ風鈴の音を楽しんできました。しかし、それらの涼を感じさせる風物が意味をなさないほどの暑さ。救われたのは人出があまり多くなかったことでしょう。仲見世は相応の混雑をみせていましたが、例年のように歩けない、進まないというようなことはありませんでした。
 今年は節電対策で夜間の市は自粛し、やや趣の失われたほうずき市ではありました。それを知らず夜に参詣する人も多かったのではないかと思います。
 ほおずき市と言えば、アセチレンランプに照らされて橙に映えるほおずきや一列に吊り下がっている風鈴の絵模様、露を含んだ釣り忍、海ほおずき、それから水の中で浮き沈みする色とりどりのスーパーボール、金魚すくい、綿菓子、あんず飴などの屋台の毳々しい色を照らし出す光の眩しさ。やはり夜の市の印象が強く残っています。
 アセチレンも焚かなくなり電球に代わってもう随分と経ちます。海ほうずきもすっかり見かけなくなりましたね。
 ほおずき市に限らず、縁日など夜の祭屋台のどこか異世界めいた不思議な明るさは、懐かしさと憧れと、ときめきに似た不安を投げかけてきます。
 この日、帰りがけにほおずきを一鉢買い求めました。

 夏と言えば、かつてはどこの家庭でも蚊帳というものがありました。薄い紗幕の正方形のテント状の蚊避けです。子供のころはその綱を張るのが好きで、隠れ家のような楽しさがありました。
 蚊帳の中で姉と巫山戯ていて破ったことも何度かあります。えらい怒られましたね。うちはそのころお世辞にも豊かとは言えなかったので蚊帳ひと張りにしても貴重でした。破れたところを母が縫い合わせていたのを思い出します。その蚊帳も昭和40年代半ばくらいまででしょうか?それ以後は見かけなくなりました。今でも売っているのかな?あればひと張り手に入れたいものです。
 かつての夏の風物で見かけなくなったものは他にもありますね。「花氷」と言うのをご存知ですか?
 大きなスーパーやデパートなどに行きますと天井に扇風機が取りつけらていて、その下に必ずと言って良いほど巨大な氷の塊が置いてありました。その氷の中には、様々な花や花びらが閉じ込められていて、思わず足を止めて見とれるほどでした。
 その花氷もクーラーの普及と共に姿を消し、今では婚礼の席か、高級料亭にでも行かなければ目にする機会もなくなりましたね。
 桶から手で掬って水を撒く打水の光景もあまり見かけなくなったようです。今では如露やホースで撒くことの方が多いのでしょう。ホースなどで散水するのは打水ではなくて「水撒き」と言います。手で掬うから「打つ」と言うのです。
 でも、ホースでの水撒きもあれはあれで楽しめます。先端をすぼめて霧状にして撒くときにできる小さな虹を見つけるのも面白いものです。撒き手も、もっと上手く虹を作ろうとか思ったりして。
 
 僕の知らないもので実用性の喪失と共に失われた風物も多いことでしょう。知らないことが多すぎますね、きっと。こんな時代だからこそ見直されるべきものもあると思うのに。
 便利さに慣れるというのは不便なことです。応用が利かないと言うか、耐える術が身につかないと言うのか、一面では不幸なことでもあります。恩恵は恩恵として受けるにしても、過度に頼らないようにしたいものです。

 

 

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