時計

 小父の一日は67台の時計の時刻合わせとネジを巻くことから始まっていた。
 彼は世界中の時計を集めていて、オルゴール付きのものや人形様のもの、バスケットボールの選手のごとき背高のっぽの置時計もあれば、ダルマのような掛け時計もあり、そのひとつひとつを抱きとり、或るものは踏み台や梯子をつかってネジを巻いた。それは見るからに手間のかかる作業で、何よりも引き出しに収められた59台の懐中時計のゼンマイを巻くのが大変であった。

 いつだったか僕が「なんで全部巻くの?使っているのだけ動かせばいいのに」と言ったことがある。
 すると小父は「動いているものは命がある。人でも機械でも。動くことに意味があるんだよ。だからね、集めるだけ集めて眠らせているようではコレクターとは言えないんだ。動くものは動かし続ける。そのためには実際に動かして、調子をみて、手入れをする。そうすることで僕と時計たちは同じ時間を分かち合うことになるんだよ」と言った。
 小学生の僕には彼の言っている意味が理解できずに、そんなものなのかな、とだけ思った。
 僕はそんなことのために仕事に向かう3時間も前に早起きをする小父を、なんて変わった人なのだろう、と不思議に眺めていた。

 小父は狭いながらも拘りをもった喫茶店を経営していた。けれども営業のことはよくわからない子供の目から見てもお世辞にも流行っているとは言い難かった。
 何しろそこに居座っているのは、お煎餅をコーラに浸してしゃぶるように食べるひっつめ髪の老人やフリルのいっぱいついたブラウスを着ているオジさん、レンズの入っていない枠だけのトンボ眼鏡を掛けている自称デザイナーのおばさん、司法試験を目指していると言いながら少年ジャンプとマガジンを飽きるほど読み返しているお兄さん、学校嫌いで学校に行かなくなった女教師とこども嫌いだが仕方なく親の後をついでいる塾の先生。
 彼らは互いに話をするわけではなく、思い思いのことをしながら個別にいつまでも座を占めているだけだった。
 彼らが場を占拠すると、狭い店内にはもう他の人の座る場所はなくなってしまうので、常連さんが健全に営業を妨害していたような感じだった。
 それについて僕は一度忠告したことがある。
 「あんな人たちばかりいたら他のお客さんが来なくなっちゃうよ。全然もうからないじゃない。」
 世間を知らない子供にそんなことを言われても彼は、風が吹いたかな、という感じで、こともなげにこう答えた。
 「大人になるとね。行き場を失くしてしまう人たちがいるんだよ。どこに自分の身を置いていいのか探し回っている人っていうのがいるんだ。僕はね、自分がそうだったから、そんな人たちが集まれる場所を作れればいいんだよ。贅沢を言うならもっとたくさんの友達が来られる広さが欲しいけど出来ないものは仕方がない。」
 自由人の溜り場というには彼らはあまりにも不自由そうな人たちに見えたので、この時も、そんなものかな、と思った。そして僕から見て迷惑な常連さんを友達と呼ぶ彼を、やはり、不思議、に眺めた。

 僕の知っている彼は優しい人というよりは押しても引いても手ごたえのない人で、時折、周囲の人の口からこぼれ出るヤクザの押し売りごときバリバリのセールスマンだった姿はなく、本当にぼんやりとした靄のような人だった。その靄っぷりときたら人間であるかも怪しいくらいに。
 とはいうものの彼に筋が通っていなかったわけではない。それは毎朝、時計のネジを巻くという執心ぶりからも窺えるわけで、決めたことは譲らない頑固さはあった。ただその心情の強さが外との摩擦をうまなかっただけにすぎない。だから僕は彼を「実体がないような人」だと感じていたのだ。
 弁証法的な人間関係のなかでしか実感を得られなかった僕の方がよほど窮屈な病に罹っていた。今もまだ罹っている。

 彼は膵臓に腫瘍が見つかってからあっけなく世を去った。それは準備というものがなく、ページを一枚めくったら唐突に終わってしまった短編小説のようだった。連載漫画であれば予告のない打ち切り。
 そんな彼が残したのは、自宅兼用喫茶店と、銀行口座に残っていたわずかな預金、それから、67台の時計。
 結婚はしていなかったので親戚と呼ばれる人たちが集まってきて彼の遺跡を解体していった。
 最終的には誰も見向きもしない9台の懐中時計が置き去りにされた。
 つまり現在、僕が持っている時計だ。
 
 あれから41年が過ぎ、僕は毎朝、彼に代わって9台の懐中時計のネジを巻いている。
 そうしてわかったことがある。
 同じ時間を生きるということは、ただ同じ時代に同じ空間にいるということではなく、何らかの干渉を生み出すことなのだと。
 
 どんなにきつく耳を塞いでも消すことのできなかった一斉に鳴りだす時計の音は、その振動を通じて僕たちに「まだ生きている」ということを伝えたがっていたのだと思う。あの頃はただ煩わしく五月蠅いだけだったけれど。





 
 
 

 
 
 
 
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牛久沼の月光仮面

 「土用丑の日には鰻を食べない。僕は鰻は大好きだけど、丑の日には鰻の冥福を祈って供養するんだ。」
 そんなことを言っていた友人が中学時代にいました。
 彼はその理由もきちんと話してくれていて、僕には理解できない点もあったのだけれど、わかった気持ちになってしまったのです。
 だってね、彼は結論をこう言ったんです。
 「実際に食べられる量よりも遥かに多くの鰻が殺されて、余ったものは冷凍されて持ち越され、それでもだめだと捨てられちゃうんだよ。一時に押し寄せるから大虐殺が起こるんだ。こんなことを続けていたら鰻はいつか絶滅しちゃう。鰻のためには丑の日にしか食べられないくらいにしたほうが丁度いいのに。」
 あれから30年以上の月日が流れ、ニホンウナギは彼の予知通りに絶滅に向かって一直線です。
 ですからね、僕はチーズケーキを食べることにしたんです。鰻のためには何の役にも立ちはしませんけど。
 まあ、つまりは、込み合っている鰻屋に行くのも面倒だったし、高価だし、アナゴやナマズを代用にしてしまうと彼らに失礼だし、一日限りの秘仏の公開というわけではないので慌てる理由にもなりませんし、何よりも家でのんびりしたかったんです。

 RIMG0905.jpg

 丑の日で思い出すのは、小学生のころ友達4人と自転車で茨城県の牛久沼まで釣りに行ったことがあるんですよ。東京の向島から6時間くらいかけて。
 出発は午前3時。今から思えば「アホかっ!」てな感じですよ。
 しかも苦労して着いたけれども、まったく釣れないんです。
 小魚一匹かからない。誰れも釣れない。
 収獲がないことをボウズというんですけど、心底、丸ボウズです。
 当然、あちらこちらに釣り場を探して移動していくんですが、だんだん頭に血が上ってくるんです。
 「なんで釣れなんだよおぉぉぉ!」ってな感じに。
 こうなってくると魚が捕まえられれば方法はなんだってよくなってきます。それどころか、魚じゃなくてもOK。タイコウチだろうが、亀だろうが。タニシ以外なら。
 子供らは目を血走らせて獲物を探して走り回る。
 すると、バシャリと大きな水音がして、何だ何だと見回す先に、鯉がね、倒れた葦の葉の塊の上にのってるんです。それも大きな鯉です。まな板の上の鯉ならぬ、葦の葉の上の鯉。
 で、4人の釣りバカのうちのひとりがタモアミを持ち出して、鯉を掬うってなことを考えたわけです。
 鯉が見えるところは岸から2mもない。ほんとに目と鼻の先なわけで、ちょちょいと足を水につければ捕まえられそう。
 子供というのは危険なことでも簡単に考えてしまうものなのです。
 東京から京都までの地図を開き、紆余曲折の道路も見ずに頭のなかで一本の線を引いて「なんだ、まっすぐじゃん」みたいにね。
 僕がそばにいた大人だったらとめますよ、絶対。
 「こら、そこのガキ、あぶねえからこっちさ来い」ってな具合に。
 でも、不幸なことに周りに良識のある人間はいず、バカなガキはタモを担いで一足踏み出す。
 一瞬のことだったんですがね、頭まで水のなか。どっぼん!
 辛うじて葦束を掴んで頭を出すけど、泳ごうにも泥が相手では沈む沈む。浮かないんですよ、体が。
 それを見ていた他の3人、慌てふためき右往左往。大声を出すやら、落ちてる木の板などを投げるやら、もう大変。
 でも、仏というのは知らんぷりはしないもんです。
 100mほど先で釣りをしてたおじさんが異常を感じて走ってきまして、釣り竿と麻紐を持ってね。
 溺れてるクソガキを見つけると、迷わず釣り竿をポキリと折って紐を結び、「えいっ」と投げ渡して「これにつかまれ。引っ張るから」と。
 それでことなきを得たんですが、それが土用丑の日。危うく鰻の餌になるところでした。
 岸に上がって「げーげー、ごほっごほっ」とひとしきりやってから、子供らも落ち着きを取り戻し「よかったね。ああ、よかったね」と喜ぶ。夏ミカンを伏せた帽子のまわりで飛び回るチョウチョのごとくに。
 それで、おじさんにお礼を言おうと思ったら、いないんです。どこにも。
 自分の釣り場に戻ったのかと思い、そちらの方へ行ったのですけど、釣り人の形跡もない。何にもない。
 手にしていたのは、確かに古ぼけた竹の釣り竿。もちろん自分たちのではない。
 今度は溺れたことよりもそっちの方が大事件になりまして、神だ、仏だ、幽霊だ、とね。
 ついては子供ですから、家に帰るや否やそれぞれの家庭で大吹聴。
 結果は明らかですよね。当たり前の大目玉。
 しばらくは釣りどころか、自転車の鍵を取り上げられ遠出禁止となりました。

 でね、その溺れたバカは僕です。

 しかし、今でも不思議なんですよね。
 あのおじさんはどこに行ってしまったのでしょう?
 はやてのように現れて、はやてのように去って行ったあのおじさんは、もしや月光仮面だったのかしらん。
 僕を助けてくれたおじさん、あなたのおかげで僕はこうして今も生かされています。
 あれからいくつものろくでもないことを繰り返し、しょーもない足跡ばかりを残してきましたが、笑いのネタのタシになるくらいにはなりました。心より感謝申し上げます。

 いや、本当に感謝しているんですよ。自虐ネタじゃなくて。
 
 
 
 
 
 

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ほおずき

 神保町の「さぼうる」でビーフカレーやナポリタン・スパゲティを食べていると何故だかほっとしたような気持になる。それは思い出の味とかそんなものではないことを僕は知っている。あの頃食べていた味を今さら思い出せるはずもなく、ただ似ているような気がしているにすぎない。「懐かしい味」などという表現はほかに言い表す言葉がない時の決まった代用でしかない。つまり凡庸なのだ。但しそれは時として違った過去の感覚を持つ者同士を、全く共有するはずのないものを、曖昧な「懐かしい味」という言葉で結びつけることがある。異なったものを異なった次元で見ていながら同じ表現のもとでファジーな共感を手にすることがある。フラクタルな効果を引き出すと言ったほうがいいのだろう。
 こんなことを考えている僕は根っから捻くれている。

 「さぼうる」の窓側の席に座り食後のコーヒーを飲んでいたら、高校3年の夏のことがフィードバックしてきた。今年は久しぶりに「ほおずき市」に出かけたからだと思う。

 僕は試験が終わった後の図書室が好きだった。本来の読書を目的とする利用者はもとより寡少で、大概が宿題や試験勉強の場として使う学生の方が多い。だからこの時期は人が少なく、大きな窓のカーテンを思い切り開き、風を入れても文句を言う人間はいなかった。
 校庭ではいくつかの部が狭いながらもお互いのテリトリーに折り合いをつけて活動をしていた。掛け声なのか、指示なのか判別のつかない声がいくつも折り重なり、意味をなさない音を溢れさせている。
 僕とKは新しい曲のネタ探しに図書室にいた。
 「明後日から球技大会か。面倒だな」と僕が言う。
 「月日は百代の過客にして、またもとの水にあらずって言うじゃん。俺たちって時間を無駄にしてるよなぁ」とKがぼやいた。
 「言っている意味には共感するけど、それって混ざってるよ。」
 「うん?なんか間違えてるか?まあ、弘法の木登りっていうやつだよ。意味さえ通じればいいんじゃない?」
 「弘法大師が木登りを得意としていたか苦手だったかは知らないけど、落ちたとしたなら、それは単なる事故だよ。それとすでに引用が間違ってるよ。」
 Kは僕の顔を覗き込むようにしてこう言った。
 「お前の言うことって意味わかんない時あるんだよね。」
 「俺のほうがわかんないけどね。言葉が通じるかどうか以前に知識が通じているかどうかを確認しあうべきだったな。」
 僕がそう答えるとKは「やっぱよくわかんねえよ。お前の言うこと」と笑った。
 そうしてお互いに「夏の雨の日って風が気持ちいいよなぁ」などと言っていたら後ろから「せーんぱいっ」と言う声がした。僕に声をかける人などいないと思って無視していたら、再度、同じ呼び声がかかった。誰に呼びかけているのか一応は確認しておこうと、Kとほぼ同時に振り返る。2学年下のYさんが中身の入っていなさそうなヒラヒラの革カバンを抱えて近づいて来るところだった。
 「ああ、Yさんか。どっちのセンパイに用事?」と僕が言うと「先輩にですよ」と少し語気を強めて答えを返してきた。
 「答えになってないよ。図書室全体に対象を広げるのは無駄だとは思うけど、少なくとも君の正面にはKと俺の2人がいるわけだからね。」
 「相変わらず意地悪な受け答えをしますねぇ。そんなことだから女子から嫌われるんですよ。」
 「人に好かれるために学校に来ているわけじゃないからね。」
 彼女は、はぁっと諦めたように溜息をついてから「面倒なので用件を言いますね。」
 「そうしてくれると助かるよ。対応がはっきりするから。」
 「もう、いいですよ。黙っていてください。」
 そうして彼女はこう提案をしてきた。
 「今日ってほおずき市じゃないですかぁ。一緒に行きましょうよ。今日が最終日ですよ?」
 「誰と?」
 「私とIちゃんですよ。Y先輩も誘いましょうよ。」
 彼女の言うY先輩とはKの彼女のことで、IちゃんというのはYさんと同じクラブに所属する彼女の友達。
 「ほおずき市ね。四万六千日の市を過ぎれば夏。梅雨明けもここ2~3日のことかな。」
 「それなんですか?言い伝えですか?」
 「ん?そんなんじゃないよ。昔、そう言った人がいたんだよ。ほおずき市か・・・。この霧のような雨もやみそうだね。」
 午前中は雨を伴っていた曇り空も夕方にかけて少し晴れ間が射し、出かけるには良い頃合いだった。
 
 ほおずき市201602

 ほおずきの名の由来については様々あるが、その実の照り映えが稚児の頬の色づきに似ていることから名前がついたと言う説が僕にはしっくりくる。そうすると「ほおずき」ではなく「ほほづき」の方が正しいのかもしれない。
 この一見するとサクランボのように美味しそうな実はアルカロイドを含んでいるため食用には不適。江戸時代の吉原では妊娠初期の堕胎薬としても使われていたことがある。その事実からすると先の説はとても皮肉なこと。一般では実の皮を煎じて虫下しにも使われたようだけれど。

 あの図書室の会話から遥かに時が過ぎたこの夏、久方ぶりに足を運んだ「ほうずき市」は、こんなに寂しかったかな、というものだった。ほおずきを売る店も屋台も数をだいぶ減らしたように見え、以前のように夜遅くまで開かれることもなくなったというのが余計にそう思わせるのかもしれない。
 僕はりんご飴の屋台を見つけて買ってみた。理由は特にない。あったとしたなら物好きってやつか。食べるのは何十年ぶりだろう。一口齧ってみると、りんごはパサパサで飴が口の中でガサガサして少しも美味しくない。こんなに不味いものだったかと齧り掛けのりんご飴を眺めていたら、母親とお揃いの浴衣をきた幼稚園の年長さんくらいの女の子が嬉々とした表情でりんご飴を手にして僕の隣の石段に座った。
 母親は女の子をそこに座らせると「お母さん、ラムネ買ってくるからここにいてね」と言ってすぐ向かいの屋台へ出かけて行った。僕はその子に「りんご飴、美味しい?」と訊くと、「おいしいよ。おじちゃんのもおいしいでしょっ」と言ってもしゃもしゃと齧りついて、掛かっている赤色の飴を膝上にまき散らした。
 僕は食べ掛けのりんご飴を捨てることに決め、もとの袋を被せてから、女の子に買ったばかりの袋入りほおずきの口紐をほどいて2個を取り出し、「これ、あげるね。後でお母さんと遊ぶといいよ。でも、食べられないからね。苦くて、おなか壊すから」と言って渡した。

 りんご飴

 僕を初めてここに連れてきてくれたのは家族ではなかった。5~6歳当時、僕は置屋をしていた叔母のところに預けられていて、そこへ稽古に来ていた芸妓見習いの女性が僕の手を引いてほおずき市に連れて行ってくれたのだ。あの日は確か叔母の家に客人があって、多分、子供は邪魔だった。だからそのおもりを一番年若の彼女が任されたのだと思う。彼女は接待に出て行かれる年齢に達していなかったと言うことだったのだろう。
 「みこちゃん」と呼ばれていた彼女は二藍の紬に錦糸で鉄線葛を大きくあしらった海松色の帯を締めていた。彼女の顔も思い出せないのに、どうしたわけかそんなことは覚えている。色彩として覚えているわけではないのかもしれない。彼女が支度をしていた時にその場に居合わせ、姉さんからそう言われていたのをどこかで覚えているだけなのだろう。
 「みこちゃん、二藍の紬にはこっちの鉄線葛の海松の帯の方が似合いますよ」と言った具合に。
 あの時も雨が上がったあとだった。
 僕はそこでりんご飴を買ってもらった。それは一人で食べきるには大きすぎて、彼女と交互に齧っていた。あの瞬間、僕は「りんご飴は美味しい」と思った。
 防火の視点からアセチレンランプが無くなり、食品衛生の問題で夜店から海ほおずきが姿を消した。ハッカパイプや砂糖を塗った紙菓子も、もう見かけない。
 りんご飴の美味しさは、非現実的な市そのものと、色とりどりに縁どられた夜店の妖艶さ、ごった返す人々が作り出す高揚感が僕に与えた味覚だった。今の僕はそれらを感じる気持ちを失ってしまっている。美味しく思えなかったのも当然のこと。
 あの夜、彼女は叔母から時間を潰すよう言いつけられていたので、ほおずき市の後ろに回って植木市を眺め、屋台の間を一通りすり抜けてから花やしきに向かった。ジェットコースターとお化け屋敷、それとザリガニ釣りをしたような気がする。
 ザリガニは持って帰らなかった。その代わりに僕は鈴虫の入った竹籠をぶら下げて、もう一度ほおずき市の中を通った。
 けれどその道行きで、人込みにもまれたからなのか、それとも元々壊れていたのか、気が付くと鈴虫は籠から姿を消していて、僕はそのために泣き出してしまった。彼女はとても慌てた様子で「もうひとつ買ってきますから泣かないで」と僕をなだめたのだけれど、僕が泣いていたのは鈴虫が逃げ出しことではなく、恐らく人に踏まれて死んでしまっただろうと思ったからだった。だから「もう一匹」は買わなかった。
 僕は彼女に背負われたまま眠ってしまった。気が付くと牛島神社を過ぎており、「もうすぐおうちですよ」と言う声を聞いた。
 そうして彼女は補足するように呟いた。
 「明日あたりから夏になりますね。四万六千日の市が過ぎれば梅雨明けですから。」

 ほおずき市201601

 今年の7月10日は30度を超える猛暑日となった。僕は影向堂で御朱印を頂き参詣を終えると、もときた道を引き返すようにして山門を出て吾妻橋を渡り隅田公園を抜けて長命寺へ向かった。そこで桜餅の小さな折箱を一つ買って帰った。

 さくらもち

 
 
 
 

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雨の日のお片付け。

 普段は開かない引き出しの中を少しだけ片づけていたら、高校時代の雑記帳が出て来たので、そこからひとつ取り出してみました。


 不器用な私は、いつまでたっても片付けるのがうまくならない。
 本当はいらないものばかり。
 なのに捨てられないまま棚の中に置き去られてゆくものたち。

 勉強の合間に、
 背を伸ばした折に、
 時間を持て余した時に、
 指にあたったものを拾い上げては、
 頼りない記憶をたぐってみる。

 これは、
 あの人が読んでいた鴎外の小説。
 これは、
 好きだった先輩が忘れて行った消しゴム。
 これは、
 パパとママと初めていった海でひろったガラス玉。
 これは、
 修学旅行で買った、友達とお揃いのカラス天狗のマグカップ。
 これは、
 知らない男の子からもらった誕生祝(バースデー)の趣味の合わないオルゴール。
 これは、
 あの子が壊してしまった目覚まし時計のマスコット。
 これは、 
 クリスマスケーキについていたサンタクロースのお人形。
 これは、
 これは・・・
 えーと、 
 何だったかしら。

 思い出せないけどすてられないもの。

 あれもこれも、
 たぶん、
 きっと、
 何かわけがあるものたち。
 私が忘れてしまっただけで。

 時の砂の堆積のなかで意味を失って行く栞たち。
 この子たちは「いつか」をじっと待っている。
 「私の記憶」がなくなる日まで。

 「ねえ、こんなもの出て来たけどどうするの?」
 「んー、どれどれ。あー、これかぁ。捨てちゃっていいよ。」
 「お母さん、こんなものどうして残していたのかしらね。」
 「たんに捨てられなかっただけじゃないの?」
 
 そうして、
 ようやく解放されて眠りにつけるものたち。
 もはや物語ることもなく。
 思い出されることもなく。

 ごめんね。
 私がもっていたばかりに眠らせてあげられなくて。
 ごめんね。
 これでやっと帰れるね。
 ごめんね。
 これで一緒に帰れるね。
 ごめんね。

 
 高校2年のとき、後輩の女の子に頼まれて作った曲の歌詞です。
 僕にもこういう少女趣味的な時代があったんですよね。
 内容はまるっきり出鱈目で支離滅裂ですけど。
 確かタイトルは「化石の部屋」か、「記憶の栞」だったかな?
 手元にある僕のノートにはタイトルが書かれていないんですよ。
 ピタっと来るものがなくて、渡す時にいい加減に書きいれた気がするんですよね。ちゃんと付けたのかさえ怪しい。おまかせの可能性大。

 思い出の品ってね、本当にいらないものばかりなんですよ。
 ごくごく一部の特別なものを除いてね。
 それらの多くはお土産とか、拾ったものとか、お祝いの品とか、中には誰かの忘れ物なんていうのもありますね。
 借りっぱなしになっているものもあるかもしれません。
 それらを「いらないもの」と言ったら語弊がありますが、時間が経つと不必要なものばかりなんですよね。
 その場の盛り上がりだけで買ってしまったものとか多いですし。
 でね、いらないと思っていたある日、急に気が付くのです。
 その不必要なものが自分の隙間を埋めていたことに。
 人は時間の隙間を埋めるものを集めながら生きているのです。
 さらに言えば、思い出の品ってどんなにつまらないものでも当人は憶えているものです。
 キャラメルの包み紙だって。
 忘れないんですよ。他人には限りなくゴミみたいなものでも。
 けれども、忘れたふりをしたいものもあるんです。ずっと忘れてしまったままにしておきたいものが、ね。
 そして、その持ち主がいなくなり、すべてのエピソードが無に還る時になって、ようやく本当の「不用品」になるのです。
 それまでは誰も手にとらなくても、彼等はずっと勤めを果たし続けているのです。
 思い出してくれる当ても、気づいてくれる確証も彼等には必要のないことなのです。
 だから、捨てる前には「ご苦労様」と言ってあげてくださいね。
 
 この歌詞はこれで全部なのですけど、渡した後の後輩との会話を思い出しました。

 「せんぱーい、これって2番はないんですか?」
 「ないよ。」
 「えー、どうしてです?」
 「だって、捨てられちゃったし。」
 ・・・(間)・・・
 「拾ってくればいいじゃないですか。もったいないですし。」
 「・ ・ ・ 。」

 雨の日に身の回りの整理をしていると余計なものを見つけ出してしまいますね。
 蛇足ですが、この曲の歌い出しは、確か、Fmaj7 だった気がします。

 718.jpg

 写真は、今日の僕のランチです。


 
 

 
 
 

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或る友人の話

 粕谷裕幸。
 彼はほんとうに無口な質だった。半日一緒にいてもまったく彼の声を聞いた覚えがないというのが大袈裟ではないくらい寡黙を形にしたような男だった。
 話をする時には真っ直ぐに相手の眉間に視点を合わせて向き合い、すべての意識を話すことに向けるかのように動作を止め、無駄口の多い僕と違ってゆっくりと言葉を取り出すように話した。
 親友という仲ではないし、友達というにも距離は遠かったと思う。しかし単なる知り合いと片付けてしまうほど軽くもない、ちょっと不思議な立ち位置にいた。
 彼は僕が大学時代に通った喫茶店のウェイターをしていた。僕はそこの常連というわけではなかったがジャズとクラシックに拘ったその店はレコードの数が半端無く揃っておりリクエストでかけてもらうことができた。当時、ボロアパートに音響機器を持っていなかった僕が唯一聴きたい曲を選べる場所だった。
 今から思えばあの店も変わってはいた。喫茶店なのに終日禁煙。煙草を吸いたい客はドア外に置かれたベンチで喫煙をするために出なければならない。そこにはマスターの喫茶の香りに対する固執があった。
 「うちは音楽と香りの店だから」というのが口癖。
 店内には6台の4人掛けの丸い木製テーブルが置かれ、テーブル中央にはプラスティックホルダーに挟まれた手描きによるアルバムリストがあった。マスターの一押し(お気に入り)は赤ペンで記されており、欄外には、レコードの持ち込み可と追記されている。
 そして最も変わっていた点は「店内では声を押さえて会話をしてください」という但書があったこと。これに反すると店外に出されることも実際にあった。つまりどこまでいっても「音楽と香り」のための店だったのだ。
 そんな店だったから粕谷君にも勤まっていたのかもしれない。
 そして土日休業。
 気が向いた週末の夜には、マスターが店奥のアップライトピアノでレパートリーを披露した。そのピアノのよこでウッドベースを弾くのも粕谷君の役割のひとつだった。
 ライブはいつも唐突にはじまった。誰に聴かせるためではなく、閉店の少し前にCLOSEの札をかけるのが始まりの合図で、1曲で終わることもあれば、深夜まで続くこともあった。粕谷君によれば客の有無にかかわらなかったようだ。曲目の紹介もなければ挨拶もない。ただ曲が流れるだけのライブ。拍手は不要。客は居ても良いし帰るのも自由。マスターの気が済んだら終演。打ち合わせもなくマスターが次々に繰り出す曲に粕谷君は戸惑いもせず見事に合わせた。
 その彼から恋の悩みを打ち明けられた時には、思わず「粕谷君、具合でも悪いの?」と真剣に聞き返してしまった。
 彼には妹がいた。といっても実の妹ではなく、彼の母親の失踪した親戚のこどもであったらしい。巡り巡って彼の両親が養女としてあずかることになった。幼い頃には遊んだ記憶もあるし写真も残っている。しかしすべては8年前の出来事で、再会した女の子は13歳になっていた。
 彼の妹として同居することになって2年半が過ぎた。最初はお客様だった少女は次第に彼にとって特別なものとなり、その好意は少女にも伝わって行った。
 しかし、妹なのだという意識が彼の恋心を罪悪に落としていき、彼を更に無口にした。顔を合わせるのも苦しく、同じ家で逃げるようにして生活するほかはないのだと言った。
 何も起きてはならない。どうにもならない未来なのだという気持ちが彼の口から溢れだした。
 民法第734条では「直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」と定めているが、彼女は姪にあたるらしいからこの限りではない。法律上は何の問題もないことは、法学部の学生である彼も承知していた。
 彼の思いを堰き止めていたのは信頼の一語であったのだ。
 血は繋がっていなくても妹として引き取られて来た少女に対してそれ以上の感情を向けてはいけないという、彼の戒律であった。
 粕谷君は「これは相談ではない。ただ聞いてくれさえすればいい」と言った。それは懺悔に近いものだったろうと思う。
 僕には想像もできない苦しみで、いくら推測してもその痛みをとらえることは不可能だ。
 翌日、僕は「打ち合わせ」と称して彼の実家を訪れた。ヴァイオリンとウッドベースによるジャズの練習というのが表向きで、妹に会って欲しいという彼の頼みが真であった。
 手作りのクッキーとお茶を運んできた彼女は僕たちの練習にじっと耳を傾けていた。僕はあまり注視するのも憚られるので気を紛らすふりをして彼女に目を向けた。
 そこにはキラキラとした目で、兄である粕谷君だけを追っている少女の姿が確かに映った。
 彼女は恐らく知らなかったと思う。彼が用意して来た楽譜は丁寧に写譜された"I will say goodbye"であったことに。
 僕たちは、いや、粕谷君はその曲を何度も繰り返した。
 そして、しばらくして後、彼は大学の近くの下宿屋に引っ越した。大学を卒業した彼はオーストラリアに職を求めた。以後の消息は知らない。しかし一昨年に職を辞して帰国したという彼は、どこでどう知ったのか僕に連絡をよこした。3か月ほど前のことだ。
 「僕の秘密を知っている唯一の人間に、僕がどう生きたのかを少しばかり伝えたくなっただけさ」と笑った。
 妹さんはどうしているのかとは尋ねなかった。
 寡黙と誠実とを守り抜いた粕谷君が癌で亡くなったのはつい先日のこと。葬儀にはいかなかった。来ないでくれというのが彼の望みであったから。
 彼はついに結婚というものをしなかった。
 彼の生涯の恋愛はあの少女に向けられていたのだ。
 ひとつの恋愛はその肉体の滅びと殉死するのであろうか。それとも思いは留まる人のどこかに残っているのだろうか。
 あのソファーに座って兄を目で追っていた少女はその恋をどうしたのだろうか。
 僕には知る由もない。そして、知るべきではない。
 「恋なんてささやかな童話の終りのように閉じてしまう。続きなんてありはしない。」
 ファミレスになってしまったあの店の跡地で彼は最後にそう言った。
 粕谷君は僕の記憶に僅かに残る、ソファーに腰かけて輝く瞳で彼を追っていた少女の姿を今一度思い出させ、そして、そのままにしておきたかったのだろうと思う。



 
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