Death and Transfiguration ~死と変容~

 "Death and Transfiguration " (作:川上 勉)

 川上勉04

 今日、川上勉さんから "Death and Transfiguration "と題された乾漆像が届きました。
 川上さんは北海道に住む乾漆像作家です。
 少女と死をテーマに取り組まれていて、繊細、かつ、ファンタジー的な印象を持つ非常にリリカルな作風になっています。

 乾漆像と言うのは耳慣れない言葉かと思います。
 簡単に説明しますと乾漆とは、元にする形の芯を粘土や木で作り、その上に米糊、麦粉、或いは土と木漆を混ぜたものを麻布に吸い込ませ貼っていきます。そうして形にしていき出来上がったものを乾燥させて芯を抜くと中が空洞となり軽く、かつ、耐久性のある素地が出来ます。
 彫像などに比べると成形の自由度が高く、耐久性に富むと言われ、かつては仏像造りに使われましたが手間がかかることから平安期以後は廃れ、以後はあまり見られなくなりました。しかし最近は防水性や防腐性が見直されて工芸品、生活用品などにも利用されています。 

 川上勉01 川上勉02

 この作品を初めて見たとき、僕は死のイメージよりも生のイメージの方を強く感じました。それは浦上天主堂のマリア像に重なるイメージだった気がします。

 死とは無に帰す消滅そのものなのか、それとも更に転生し連環するものなのか。
 死体は腐敗し分解され、土と水に還ります。その変容はただの還元作用なのでしょうか。

 川端康成の小説「抒情歌」には、生命あるものは匂いによって天界に場を与えられるとの描写があります。つまり、花が開き、そこから香りが立ち昇り、その香りが天界に到達するとそこに同じ花が咲き、人間や動物は死して腐敗し、或いは荼毘にふされ、その煙、臭気が天に昇ることによって再び生きると言うのです。
 天界は不老不死の場ではなく、子供は成長し、老人は現生と同じく老衰します。そこにないのは病苦のみだという考え方もあるようです。三島由紀夫は晩年、このテーマに挑んで長編小説を書いています。
 
 川上勉ラフ① 川上勉ラフ①部分

 死の怖れとは変容への怖れなのです。僕たちは変容の正体を解き明かすことができないでいます。それが重く心に圧し掛かって不安となっているのです。

 川上さんは「死のイメージを借りて物体としての人間を造形してきた。そのうちに死そのものが頭から離れなくなり、少女の儚さを通じてそれを表現できればと思った」と話していました。
 ここにある "Death and Transfiguration "という乾漆像は、その意図をよく表現していると思います。
 俯いた少女の胸から上だけを見ていると、それが死体であることを気づかせません。しかし、体は既に木乃伊化しつつあり内臓は溶けて、骨と膜となった肉だけが残されています。けれども少女の命はまだ尽きてはいないのです。眠りについているだけだと信じさせるものがあります。

 人形は人間を模したものであり、それは精巧さを追求していけば腐敗しない死体そのものであると言えます。
 語りかければ唇を開きそうな、その吐息が聞こえるような気さえしてきます。人形の怖さがそこにあり、同時に美しさもまたそこにあるのです。
 
 川上勉ラフ②

 僕は可愛い人形や綺麗な人形が欲しいわけではありません。
 美しい人形が欲しいのです。
 美しいまま、若さや命を留めたままの永久に腐敗しない死体を手元に置きたいのです。
 それは偏に僕が出会ってきた少女たちの面影を人形に映していたいが為かもしれません。

 川上勉03







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味戸ケイコ「近くて遠い場所」

 近くて遠い場所 「近くて遠い場所」

 不断の流れのなかにある日常にとって一月一日は暦の上の区切りでしかないのだけれど、晴れ渡った元日の朝陽を受けていると、今年はいつもとは違った年になるような予感が生まれてきます。
 僕にとって昨年は決して良いものではなかったし、名残惜しむものもないのだけれど、漠然とやり残したような感が付きまといます。何をやり残したのかと問われれば明快に答えることも、答えたとしてそれが事実だとしても真実ではないことは解ってはいるのですけど。

 昨年、銀座で味戸ケイコ先生の「あわいのひかり」と題された個展が開かれました。
 味戸先生にお会いするのは約一年ぶりのことでしたが、かわらずに気さくで優しい口調で対応してくださいました。
 20点以上の作品が展示され、ここ最近では最も大きな個展であったろうと思います。
 荒涼とした空間に描かれた少女、そして惑いを流し込んだような色彩に表された作品たちは連作と呼んでもいいような一体感のなかにありました。

 「あわい」とは狭間のことです。
 例えば一日の時間で言うのならば夜と朝の間であり、昼と夜の間です。
 描かれた時の多くは、一瞬の黄昏、逢魔が混ざり合う泡沫の時空。或いは、覚醒と眠りとの境です。
 作品群を見ていると味戸先生がとらえようとしているのは時間の移り変わりよりも、現実と記憶の移り変わる瞬間なのではないかと思います。

 出品作品のひとつである「近くて遠い場所」という作品が僕の手元にあります。

 暮れてゆく影、広がる花畑にぽつんと座る少女。
 彼女は花を摘む手を止めてしずかに夕暮れを見つめているようです。
 スカートの上に集められた花たちは何を目的として摘まれたのでしょうか。花冠を編もうとしたのか、それともポプリのように香りを持ち帰ろうとしたのか、目的もなくただ徒に摘み取られただけなのかもしれません。
 わかるのは、その仕草の風景は誰の記憶にも心あたりがあるであろうことです。
 近くて遠い場所とは暮れなずむ里山のどこかではなく、この少女を見ているという記憶を指しているのでしょう。
 思い出は甦るたびに触れられそうな、戻れそうな感触を携えながらも決して触れることはできませんし、戻ることも叶いません。
 春から夏へ、夏から秋へ、明確な区切りはなくとも絶えず移り変わるうたかたの景色。それを見ていた自分の姿。確かに通り過ぎた時間。それが花を摘む少女の形で黄昏に置かれているのです。
 不思議な親近感を漂わせるこの作品に味戸ケイコという一人の作家が抱く惜心が見て取れるような気がします。
 信じられるのは自分の記憶であり、他人の介入を許さない世界。確固とした孤独がそこにあります。
 孤独とは罪でも悪でもありません。孤立していることと同義ではないのです。
 ひとりでいることは生きることの本質であり真理です。
 孤に生きて、孤に死ぬ。
 記憶とともに歩み、記憶を連れて死んでゆくのです。
 
 死者は過去から現在までの時間でしか彷徨うことができません。生きている者はさらに現在から未来への時間を夢見ることができます。
 昨日と明日の間は死と生の狭間です。僕たちは常に「あわいの時」の住人なのです。死者にあわいの地が与えられることはありません。生きているということがその混沌であり、老子の諭す「有る物は混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり。独立して改めず、周行してとどまら」ない場所なのです。
 僕たちは囲いのない、常に開かれた混沌の中にある存在です。
 極論するのならば、僕たちの存在自体が不定形な混沌そのものであり、自身の個に対する意識が辛うじて周囲と識別するための形状を保つに留まらせているのかもしれません。
 そうしたなかで確実なものは、近くて遠い自分の記憶のみなのです。
 
 
 


 


 
 

 

 
 
 

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林由紀子ー未生の森の記憶ー

 hayashiyukiko01.jpg 個展案内状

 10月17日で会期終了となりましたが、銀座にあるスパンアート・ギャラリーで林由紀子さんの個展が開かれていました。
 「未生の森の記憶」と題された個展は、中野善夫著「教皇ヒュアキントス」の装画となっています「ペルセポネの花と闇」を始め新旧エングレーヴィング作品と新作ドローイングなどを織り交ぜた見ごたえのある内容でした。
 未生とは「まだ生まれていない」の意。その「生まれていないもの」とは画中のイメージであるのか、それとも林由紀子さんの中に依拠するイメージなのか。一見混沌と見えるモチーフは凝視していると確かな連環を浮かび上がらせ、丁度、有機物のなかから細胞が生まれる様に、胎内で生命が形作られる様に、見る側に顕現の予感を投げかけてきます。

 林由紀子さんはイラストレーターから銅版画家に転身し、その技法を板東壮一さんに学びました。その当時のことをお聞きすると。

 「イラストレーターと言っても絵も下手でしたし、売れていませんでしたからね。またそれで生活して行こうと言う意思にも欠けていたところがあります。銅版画にはもともと興味があったのですが、現代版画ではなく15世紀から17世紀の古い作品が専らでした。デューラーとかですね。現代美術は苦手で、今もあまり興味がありませんね。でも板東さんの作品を見た時、現代でもこれほど綺麗な版画をつくることが出来るのかと刺激を受け、直ぐに板東さんにコンタクトを取ってみたんですよ。お弟子さんを取らないことは伺っていたので何とかして教えていただけないかと。」

 bandou0001.jpg 坂東壮一「四季・春」

 絵が下手だとおっしゃっていたけれど初期作品を含め基礎は抜群であった気がします。林さんがご自身で創作に足りない何かを指してそう表現したのだと思います。

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 ①「芍薬の庭で」(エングレーヴィング、手彩色)

 坂東さんに学んでいらした頃のことに話が及ぶと頬を綻ばせていらっしゃいました。

 「板東さんは箱根にアトリエをお持ちで、通いでなら手が空いている時に教えて下さると言ってくれたんです。けれど私は運転ができないものですから、電車で自宅から箱根駅まで行って、板東さんが往復を送迎してくださったんです。通う私よりも大変だったと思いますよ。3年ほど通ったんですけど、最初の頃は『嫌になったらいつやめてもいいからね』と口癖のように仰るんですよ。気をつかって通っていると思われてたんですね。さすがに3年も経つと仰らなくなりましたけど。」

 僕は板東壮一さんにはまだお会いしたことがないのですが、作品をみていると緻密で厳格な印象を受けるのでその点をお訊きしました。

 「とても気さくな方で、料理人や家政婦さんにお暇をとらせていた時などは、手ずからお食事を作ってくださいました。うどん作ったけど食べる?なんていう具合に。」

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 ②「ペルセポネの花と闇」(エングレーヴィング・手彩色)
 ③「わたしのせいじゃない」(エングレーヴィング)

 林さんが板東さんに版画を習い始めようとした時、一番最初に購入したものは版画のプレス機だったそうです。買ったことを板東さんに話すと「えっ?買っちゃったの?気が早すぎるよ」とちょっと呆れ顔でお笑いになられたとか。
 エングレーヴィングは最も古い銅版画技法でビュランという彫刻刀で金属板に直接彫り付けて行くものですが、通常、そのヴュランをそろえることはあってもプレス機を最初に買う人は稀だと思います。高価ですし、保管場所をとりますしね。
 林さんの思い切りの良さに驚くと共に、機が熟すの待っていたところに時が訪れたと言う感じだったのかもしれません。ご本人も「その瞬間を与えられるために存在したのかもしれないという感覚がありました」と話されていました。
 
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 ④「金色ー石楠花の少女」(鉛筆)

 林さんはエングレーヴィングと言う手法に拘りを持つと共に、これを絶やさないためにその魅力のみならず、若い人にも技法を知ってもらうための活動もなさっています。

 「銅版画と言うのはもともとは彫金師が型を残すために拓本のように取っていたものなんです。型見本ですね。それが印刷技術に生かされ、やがてもっと便利な印刷技法が出てくると手間がかかるので職人が減り忘れられかけてしまったんです。私は芸術家ではなく職人としてこの技術を残したいと思っています。現在は職人の地位が低く見られ、賃金的にも安価に押さえられる傾向がありますが、職人の誇りが復権する日が来ることを夢見て、あえて職人と名乗っております。」

 そう話される林さんの瞳は力強く、安易な相槌を許さない言葉を飲み込ませる迫力がありました。
 僕の知人にも箸づくりや簪の工芸品、植木や庭師、大工などの職人がいますが、彼等から「後継者がいなくて良かった。あとを継ぐことの苦しさを味あわせないでよかった」という嘆息を幾度も耳にしました。
 手作業と言うことの意味をもっと理解する人が多くなればそんな嘆きも減るのでしょうが、「人のできることは機械が出来る」「人の手間賃は値切れる」「デジタルは精密で早い」と言う風潮の前では抵抗も無駄なのかもしれません。
 確かにデジタルは早いし正確ですが、それでも僕は手作りの方が好きですけど。もとがアナログな人間なので。時代遅れには時代遅れの良さがある。デジタルは普及型、手作りは一品ものなのです。

 話を元に戻します。
 エッチングではなくエングレーヴィングと言う手法を選んだ動機をお訊きしました。

 「先ず銅版が美しいでしょう?それに直接、手で彫り付けている時の感触は伝わっていると言う実感が強いんですよ。線の浅深を、強弱を自分でコントロールしている。そしてそれらがモノクロで仕上がって来る。濃淡がイメージを構成するんですね。それがとても好きなんです。作品の基本はモノクロです。着色はおまけみたいなものですね。」

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 ④「青いプシュケ」(鉛筆、水彩)
 ⑤「双面の薔薇」(鉛筆、水彩)

 林さんは実際の作品作りの場合にはラフで構図を描いておいて、銅版におおまかな位置を写し取ったら、後はアドリブで動植物を加えて行くのだそうですが、基礎過程でのデッサンを非常に重視なされています。
 特に植物については几帳面なほど細やかに描写されています。
 板東さんから「花を描くなら外から見て描くのではなく、草の中に分け入って描きなさい」と言われたそうです。外観を捉えるのではなく、草花が生きている場所そのものを感じ取るということなのでしょう。林さんの花と同化したかのようなモチーフは生命の一体性を裏付けているのかと思います。
 そしてご自分を植物に例えるなら「蔦」であり、「微かな手がかりがあれば、そこに手をかけて這い上がり広がってゆく、そんな感じがする」と話された時の笑顔が素敵でした。

 蔵書票作品集「プシュケの震える翅」には植物のデッサン画が収録されています。まるで現代のルドゥーテと言える見事さです。是非ともご覧ください。必見の価値があります。

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 ⑥ “ Changeling ” 「学校」(鉛筆、水彩、コラージュ)

 蔵書票のこと、画材のこと、ダリやピカソのデッサンについてなど、まだまだ伺った話は多いのですが、今回はここまでにしておきます。
 現在、蔵書票の依頼は完成まで1年以上待ちになるほどの人気。それが現在のエングレーヴィングの旗手としての実力を表していると言えます。
 僕はその実績や作品の完成度のみならず、30数年間その努力と矜持とを保たれたことを尊敬します。芸術家と奢らず、職人として前を向き続ける林由紀子さんにお会いしてみて改めて強く感じました。


 

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装飾的奇想絵画~駕籠真太郎~

 kago010137.jpg 「金魚」(ペン、水彩)
 
 僕が駕籠真太郎作品を初めて目にしたのは、太田出版から「喜劇駅前虐殺」というコミックが刊行された翌年、つまり2000年のことになります。
 それは書店ではなく、得体のしれない缶詰とか、キモカワ系のマスコットとかを扱っていたキワものバラエティグッズのお店でした。

 kago0392.jpg 「喜劇駅前虐殺」

 きっちりとシールパックされたその本の表紙を見て何を思ったのか、どう感じて意思決定をしたのか不明です。気が付いたらレジ前に立って会計をしていたというところでしょうか。そんな不可解な購入動機が相応しいとも言える駕籠真太郎作品との出会いでした。
 会計後、近くにあったフードコートでアイス・キャラメル・オ・レを飲みながらページを開いた途端、さっと辺りを覗い「覗き込まれでもしたらマズイ」とさりげなく表紙を閉じて、「家で読もう・・・」となったのを鮮明に覚えています。
 この系統の漫画は丸尾末広、伊藤潤二、花輪和一などの名前が挙がります。
 早見純もいますが、彼の作品は猟奇的ではありながらもっと抒情的ですね。
 駕籠作品も同じジャンルに属してはいますが、いずれとも異なる世界を築いていましたね。先ずストーリーを要約出来ない、というか、するのが無意味という作品でした。
 内向的な嗜虐性を煽ると言うのか、実際には行動に及べない暴虐的感情を眠っている世界で実現するような感覚がありましたね。夢のなかでひたすら暴れて、目覚めた時に動悸が残るほどの感じです。
 その混沌は丸尾作品にある大正時代的なものではなく、第二次大戦末期からの昭和にあったような気がします。
 戦時狂気のPTSDを負った人物が高度成長を遂げた社会の亡霊として隣にいる。そして、それは実際には戦争体験のない子や孫にまで記憶の遺伝子として引き継がれ暴力的な不条理のキャリアーとなっている愚かしさと怖さがありました。
 以後も僕は駕籠作品を読み続けました。「パラノイア・ストリート」「奇人画報」「万事快調」「殺殺草紙」などから最新刊「恋の超時空砲」まで。

 kago0388.jpg kago0387.jpg 「鯛」「ヨーヨー釣り」

 いつ頃から駕籠真太郎さんがタブローのイラストを主体とした個展を開いていたのかはわかりませんが、ギャラリーの方によれば4~5年前から特に精力的に取り組みはじめたようです。
 僕がその活動を知ったのは全くの偶然で、アポ時間待ちでぶらついていて、通りがかりのギャラリーの扉を押した時のことでした。
 展覧会のタイトルは忘れました。
 駕籠さんのほかにも数人が出展していました。写真や造形作品も混ざっていた気がします。
 入ってすぐ右側の壁に、頭がパーティークラッカーのように爆発している女の子の絵が目に入りました。「駕籠真太郎式美少女絵」の表紙作品だったと思います。その女の子の幸せそうな笑顔が印象的でした。
 この時に初めて僕は駕籠さんがタブローを手掛けていることを知ったのです。

 kago000001.jpg 画集「駕籠真太郎式美少女絵」

 以後、僕は駕籠さんのタブローに嵌まり込んでしまいました。
 漫画ではない、単独のイラストが表現する世界にストーリー作品以上に惹かれたと言っても過言ではありません。
 何よりも女の子たちに暗い表情が少ない。と言うよりも底抜けに明るいと言ったほうが良いでしょう。その明るさは救いでもあると思えるのです。明るさがエログロさから作品を遠ざけている。多少の違和感があるものの、それらは可愛い女の子のポートレイトなのです。

 kago0138a.jpg kago0138.jpg kago0139.jpg kago0140.jpg 

 1)「お医者さんごっこもリアリティを追求しなくちゃ」
 2)「キャンディ」
 3)「楽しいパーティー」
 4)「水泡」
 (いずれもペン、水彩)

 最近の駕籠作品は初期のタブローに比べ色彩について敏感になってきたと思います。それは北斎のようにダイナミックで、雪岱のように繊細な表現を伝えてきます。
 そして一枚の絵に小説的な背景を持たせる試みをしている作品もあります。
 仲の良い姉妹がある日、飲酒運転の車に轢かれて無残な姿になります。それを医者が接合し、一人の姿かたちを作ることに成功すると言う「三姉妹」は続きを見たくなる作品です。
 これは単独作品だからこその魅力で、リドル・ストーリーのように観る側に想像をさせるのです。
 弁士がいた頃の活動写真のように文字を仲介として場面を抜き出し、連作にすることには向いているとは思います。

 kago0136.jpg 「三姉妹」(ペン、水彩)

 先日まで中野で開催されていた個展では「夏祭り」がテーマだっただけに、その色彩は更に艶やかさを増しています。

 kago0385.jpg kago0386.jpg 「三人娘」(ペン、水彩)

 グロテスクな表情と共存する繊細な色彩を多くの人に見ていただきたいと思います。
 日常はグロテスクなもので溢れ返っています。それを取り出して僕たちに美しさを見せてくれるのが、駕籠真太郎という人の作品だと思うのです。

 kago0390.jpg kago0384.jpg 「恋の超時空砲」  

 「恋の超時空砲」のカバー、表紙と表紙原画です。表紙の絵はペンのみで書かれたモノクロ作品です。

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 「恋の超時空砲」収録の「白い糸」の扉と原画(ペン)。
 ピアスの穴を空ける時に白い糸が出てきて、それを切ると失明すると言う都市伝説が10年ほど前にありました。それをパロディ化した作品です。

 kago000003.jpg kago000002.jpg

 8月30日に東京ビッグサイトで開催されるコミティアにも駕籠真太郎さんはブースを出されています。スペースナンバーは「ほ16b」です。お時間がありましたら立ち寄ってみてください。
 コミティアの熱気には、コミケとはまた違ったものがあります。それを感じるのも楽しいですよ。

 kago103851.jpg kago0389.jpg 「温泉」


 

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横田沙夜「さよくろ」展

 さよくろ01

 3月15日から今週の土曜日の21日まで、銀座にある奥野ビル「銀座ワン」で、横田沙夜さんのモノクロイラスト作品展が開催されています。
 通常、横田さんは水彩が主で、下描きとしてペン描きやドローイングはしますがまとまった作品として発表したことはないそうで今回が初ということになります。

 横田さんの作品の話をする前に会場である「銀座ワン」が入っている奥野ビルについて少し説明しておきます。
 奥野ビルの本館の竣工は1932年、次いで新館が1934年に建てられ、その2棟が左右対称になるように並んで建てられています。

 奥野ビル01 奥野ビル02

 外観も趣のある建物ですが、中に入ると銀座最古の手動式エレベーターが現役で動いていることに驚かされます。
 しかもこのエレベーターはただ古いだけではありません。民間用住居ビルに備えられた日本最初のエレベーターなのです。つまりエレベーターを備えた日本最古のアパートメントということです。
 その他、手すりや窓枠、非常階段のどれをとってもノスタルジックでちょっとしたタイムスリップ感を得られます。
 設計者は同潤会の建築部長を務めた川元良一と聞くと、さもありなんと思わせるたたずまいです。
 かつての入居者には西條八十がいました。現在は個性的な小さなギャラリーがあつまったアートスペースになっています。
 銀座へでかけたのなら建物だけでも必見の価値があります。
 その奥野ビルの2階奥が会場となっている「銀座ワン」です。

 銀座ワン 

 横田さんの作品ですが水彩作品と異なり、人物や場面、テーマといった細かな設定は今回はありません。
 すべてがインスピレーション。
 作品には推敲にありがちな緊張感がなく、非常に気楽で、描く方も観る側もかしこまらずに楽しめます。
 かといって「ゆるキャラ」的なものでもないところが横田さんらしいかもしれません。
 
 さよくろ03  

 モノクロというのは単純に白黒で描かれたというだけではなく、色を制限することで観る側にそれらを想像させる効果があります。
 また色彩を否定することによってそのエッセンスだけを伝えるという重要な要素も備えているのです。
 それだけに難しい面もあるんですよね、白黒というのは。
 モノクロ写真がカラー写真よりも色彩的に表現が細やかで深みがあるというのと似ていますね。
 そこに共通しているのは鑑賞する側の観察力と想像力です。
 色彩が制限された世界にどんな個別のストーリーをつくりあげることができるかということです。

 横田沙夜さん 横田沙夜さん

 僕は自分がそこになにを見ることが出来るのか、どんな話をつくることができるのか、それを基準にして譲っていただく作品を決めます。
 今回は、ソーダ水とうさぎです。
 会場に行かれましたなら、ぜひともその世界を覗いてみてください。思いがけないものがみつかるかもしれませんよ。

 さよくろ02


≪さよくろ展≫

 会 期  2015年3月15日(日)~21日(土)

 場 所  アートスペース銀座ワン
       東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル2F 202号

 問い合わせ先  090-8492-0332 (藤井)

 
 

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