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地図

 道に迷った。
 洒落た戸建てが並ぶ住宅地に入り込んでしまい、どこを抜けて行けば良いのか分からなくなってしまった。行き止まりと一方通行ばかりが目の前に現れる。細密な部分になるとカーナビの地図は役に立たない。更には僕が搭載している地図の情報が古いようで、この住宅地自体が載っていない。元の地図によるとこの辺りは工場と林になっていたらしい。まばらに建物があったことにはなっている。
 運転に疲れた僕は車を降りて辺りを見回す。葉を落としたプラタナスの植えてある幅の狭い歩道。セットバックされるように置かれたボードに”Coffee & Tea”の文字が見えた。僕は店の前まで車をゆっくりと動かして停めた。
 御影石の壁に取り付けられた扉は掌ほどの明り取りがある以外は頑丈な黒鉄製で、喫茶店よりは倉庫にしか見えない。
 扉を引いて中に入ると、店内はほぼ正方形で、初めの印象を裏切らない改装された倉庫であることがすぐにわかった。
 ふたり掛けのテーブルが壁に寄るかたちで三台。カウンターには三人分の椅子が据えられていた。かといって店内が狭いわけではない。寧ろ贅沢過ぎるほどの空間を余していた。
 見上げる天井は高く、三階分はありそうだ。その上方は大きな窓で囲われてあるのだろう、窓の無い一階部分にも拘わらず十分な自然光が入り込んできている。カウンター手前と店の奥に鉄梯子がかかっているのがわかった。それをたどれば恐らく天井の窓に届くのだろう。
 壁にはテーブルのある各側に二灯ずつミューラーのブラケット・ランプが補助灯として取り付けられていた。ポスターなどの掲示物は見当たらない。調度品と言えるものもテーブルを結んだ正三角形の重心に置かれたBALONの中型ペレットストーブのみ。これで冬を凌げるのだろうか。入る前に建物の外周を見て置けばよかったと思った。
 僕はカウンター席に着いた。
 マスターと思しき男性は優に70歳を超えているように見えた。煮沸したカップを丁寧に拭き取っている。
 「いらっしゃいませ。初めてお会いするお客様ですね。どうぞごゆっくりなさっていってください。」
 そう言って僕の前にメニューと水を差しだした。
 メニューは革製のバインダーで、挟まれている和紙に手書きで3種類の珈琲と3種類の紅茶とが書かれていた。丁寧な文字。男性の字ではなく女性のようで、紙の状態からするとかなり前に書かれたものに思える。紙だけが古いのかもしれない。
 僕は自家製ブレンドを選んだ。
 水を口に運ぶ。グラスを手に取った瞬間、その緻密なグラビュールに目を奪われる。BaccaratのLulli。砕かれた小さな氷が一つだけ浮かべてあり、そこに自然光が優しい乱反射を返す。
 マスターが豆を挽いている。
 店内に流れる音楽には覚えがある。
 Kletzki が指揮する「大地の歌」。Dickie のテノール、バリトンは名歌手、Fisher-Dieskau 。1959年、ロンドンにおいてPhilharmonia Orchestra をバックに録音されたもの。僕の気に入っている演奏の一つ。
 珈琲が運ばれてくる。カップの横に一欠片のチョコレートが添えられている。
 音楽以外の音のない世界。
 やはり僕は迷ってしまったのだ。
 カップに顔を近づけて昇り立つ珈琲の湯気を吸い込む。
 冷めて香りが落ちる前にそれを飲み干し、バッグから読み止しの文庫本を取り出す。

…空気は荒い。それは本当です。さうして私は森を揺さぶる北風が好きです。肉體は少しも不平を訴へはしません。肺は空気を吸い込んでゐます。しかし精神に必要なのは別の呼吸です。お父様同様私もこの柵の囲ひの中に入れられてゐます。杙にいはかれた綱の端につながれてゐます。自分の力をどう使ふべきかわからない。力はあまつてゐる!…

 少しだけ頁から目を離すと見計らったように声がかかった。
 「もう一杯、お淹れ致しましょうか?お客様。」
 僕は老人に会釈をして「お願いします」と言った。
 彼はお替りの分の準備をし始めながら話しかけてきた。
 「本をお読みになるには少し暗いですかな?申し訳ないです。」
 「そんなことはありません。十分な光があります。それに音楽が、マーラーが物語を演出してくれています。」
 「ほう?何をお読みですか?」
 「獅子座の流星群という戯曲です。」
 「ロマン・ロランでしたかな?最近では珍しいですね。あまりお読みになられる方もおられないように思えます。」
 「どうでしょうか、それはわかりかねますが、これは昭和7年に出版された古本なんです。片山敏彦さんの翻訳です。」
 彼は挽き終わった豆をサイフォンに移し、アルコールランプに火を入れた。
 「最近の方はアイフォンとかスマホとかで読書を済ませてしまうようで、本の売れ行きが悪くなる一方だと孫がよく愚痴を言います。」
 「お孫さんは出版関係ですか?作家さんとかですか?」
 「つまらない詩を書いてもいるようですが、本業は編集をしております。」
 彼は珈琲をカップに入れて差し出した。
 僕は二杯目を口に運びながら「こちらのお店の名前は何というのでしょう?」と間抜けな質問をした。
 老人は「ほう?」とまた言い、微笑みを浮かべた。
 「お店の前のボードにはCoffee & Tea としか書かれていませんでしたし、店名を示すようなものがどこにもなかったような気がしたので。もしかしたら見落としているのかもしれません。」
 彼はカウンター内にある椅子を引いて腰をかけ、自分用に淹れた珈琲を飲みながら「ありませんよ」と言った。
 「名前はついておりません。保健所への届け出は私の苗字を提出してありますが、厳密にはここには名前がありません。」
 「名前がない?ついていないって事ですか?それって困ることはないんですか?」
 「はい、ありません。そのことを気にする方もほとんどおられませんし、これと言った不便はありませんよ。」
 「良ければこのお店のことをお聞かせ願えますか?」
 老人は僕に促されてゆっくりと語り始めた。
 「ここはお察しの通りにもとは倉庫です。最初は粉や米、塩を置き、小さな問屋でしたのでね、戦時中は軍が使っておりました。終戦後、戻されましたが祖父は死に父も戦死。家の者も商売を継ぐことができず倉庫を残して転居しました。家は壊すことができたのですが、この倉庫は頑丈でして、更地にするには大分お金がかかりますので手を付けずに置いておかれたのですよ。それに不思議なもので、母がね。これは『売らない』の頑なを通しまして。近親が蔵を残しておいたところで中身が埋まるわけではないと如何に説得しても譲りませんでね。理由はわかりません。尋ねても話をしてはくれませんでしたので。結局、住居の無くなった荒地で使い道もなくずっと放置されておりました。それを大学を卒業した私がこっちに帰ってきましてね。この倉庫に住み込んだのです。東京は家賃が高く、仕事も見つけられず仕舞いでしてね。その頃、ここは一番上の階に蔵守の部屋がありまして、そこで生活をしていたわけです。」
 僕はチョコレートの角を齧って、珈琲と共に含んだ。甘みがほど良い。銀紙だけなのでどこのチョコレートかわからない。そしてひとつ、質問をした。
 「その当時、こちらで仕事は見つかったのですか?」
 「はい、このあたりに食品加工場が出来ましてね。そこでお世話になっておりました。入荷係です。倉庫に住みこんでいる人間が荷物の世話ですからうってつけでしょう?」と老人は明るく言った。
 僕は先ほどのナビの地図を思い出した。するとその工場は最近まであったという事になる。
 「そこで働いている時、同僚に毎昼、お弁当を届けにくる娘さんがいましてね。胸を悪くしているとかで学校にも通っておりませんでした。私はねぇ、その子が病気であることが信じられなかったのですよ。それくらい明るい子で、元気に見えました。細っこ過ぎるのと肌が白すぎていたのが恐らく病気であったことの証明なのでしょうね。それ以外は私よりも健康に見えました。そのお嬢さんと私ね、お付き合いをさせて頂いたのです。彼女は割にハイカラで、私の住んでいる倉庫を見ては『ここはカフェにすると素敵』といつも言っておりました。高い天井を繰り抜いてお日様の光が床に届くようにすると好いってね。シンデレラのお城でも夢見ていたのでしょうね。それとも倒れた者を抱き起しに来る天使でも望んでいたのでしょうか。」
 僕はまだ道が掴めていないようで、また童話の中に迷い込んでしまった。
 天井から一条の柱のように光が差し込んでいる。その光に切り取られた床石の繋ぎ目が、十字架のように見えた。
 「彼女はお付き合いをさせて頂いていてから三年ほどで亡くなりました。悪くなってからは呆気ないものでしたね。若いから余計だったのでしょうか。その後、私は別のお見合いをして結婚をしました。今の家内です。住居も倉庫では仕方ないのでアパートを借りました。工場の方は定年まで勤めあげました。今から28年も前のことです。その頃にね、ここら辺の再開発の話が出始めたのです。もっとも実際に着手されるまで15年以上かかりましたがね。売らない地主がいたり、聞き込んで住み着く人がいたりで、ご苦労があったようです。私もね、ここを収容する話がきたら受ける心構えをしていたのです。けれど結果として予定地に含まれず買い上げの対象にならなかったのです。可笑しいでしょう?売らないと言っていた母の執念なのでしょうか。しかしね、そのままにはしてはおかれません。妻と親戚と話しあっていた折に、昔、お嬢さんが言っていたことを茶飲み話として切り出したんですよ。そしたら妻が『それはやるべきでしょう』とそう言うんです。退職金の残りを使えば簡単な改装くらいできるって言うんですね。喫茶店なんかでは生計が立てられないと言うと、『もう余生じゃないですか。これ以上欲をかくことなどありませんよ。あっちに行ったら自慢できる話のひとつも作るほうが楽しいじゃありませんか』って譲らないのです。そうしてね、出来上がったのがここです。中途半端でしょう?何もかも遣り掛けみたいに。遣り掛けで良いのです。生きていること、死ぬこと、全部終えることなどありはしません。心残りがあってこその人生ですよ。お店の名前はいろいろ考えました。外国の名店とか、小説や映画の中とかね。しかしそのどれもがしっくりきませんでした。そうして過ぎて行くうちに無名で良いと思えたのです。誰のものでもない、そんな場所なのです。一日待ってもお客様がいらっしゃらないこともあります。近所の方でもここが喫茶店だとご存知の方はあまりおられないでしょう。知っておりましても道楽者のやっている店とね。そう思っていらっしゃる。何しろ珈琲と紅茶しかありません、種類も少ない。開いている時間も陽が高く射してから沈むまでですからね。普通の人なら美味しいケーキのあるお店に行きます。それが当然です。誰も来なくても構わないのです。こうしてね、お客様のような方がたまにお越しになってくださる。その偶然のすべてを忘れないように温めていられれば良いという次第です。私が受け止めるには適切な数なのです。商売をしているのではなく、待つことをしているだけなのでしょうね。お客様のお言葉に甘えて長話を致しました。読書のお邪魔を致し申し訳ありません」と言って彼は話を終えた。
 音楽が耳に聞こえ始め、それはシューベルトのミサ曲に変わっていた。
 僕は閉じていた本の扉を開く。陽の陰りが時の移り変わりを知らせる。手元の灯りが穏やか過ぎるブラケット・ランプに助け始められる頃、僕は腰をあげた。床にはもう外光は落ちていなかった。
 大通りへの抜け方を彼に尋ね、扉を押して静けさから足を踏み出す。短くなった残照が冬を伝える。建物の外観が夕闇に滲んでいる。周囲には目印になりそうなものはない。車に乗り込んで地図を確認する。相変わらず工場と林とを示している。車内の充電器に繋いだままのスマホに気づいた。スイッチを入れると着信2件、メールが6通届いていた。メッセージを聞き、メールを読んでいると、老人が小さなボードを片付けに出てきた。僕を見てお辞儀をする。恐らくこの老人は僕が見ていないところでも、こうしてお辞儀をするのだろう。
 僕はお店のある場所を忘れないように地点登録をしようとしたが思いとどまった。
 もっと相応しいナビゲートの手段を見つけた。

 ここに来るために、もう一度迷ってみよう。
 
 

 
 
 
 
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呼び鈴

 久しぶりに遠出をしてみようと、取手に住む知人を訪ねることにした。
 都合を確認するために電話を入れるとお嬢さんの声が受話器を拾い上げた。
 今だに携帯電話に頼らず黒電話で用事を済ませている彼が羨ましい。
 恐らく近くに彼はいるのだろう。お嬢さんが父親を呼ぶ声がして入れ違いに野嶋が出た。
 「久しぶりにお前のところに行ってみようかと思って電話をしたんだ。昼過ぎになると思うけど予定はどうかな?」
 「何もないから大丈夫。元気にしてたかとは言いにくいが、しかしそれにしても声がか細くなったな。メシをちゃんと食ってるか?昼メシを用意しておくから一緒に食べよう。哀れ蚊を慰めるには血を吸わせるしかないからな」と笑い声をあげる。
 僕は気を使わなくてもいいと体裁のような断りを入れたが彼はそれを意に介さない。いい奴だ、相変わらず。
 電話を切る前に僕は彼にこう告げた。
 「置電話はいいな。お前以外の人の声が聞ける。携帯電話だったらダイレクトにお前しかでない。」
 そう言うと彼は「共通のものの良さだよ。繋がりは些細なところにあるものさ。それが大切なんだよ」と言った。
 左目が霞む。曇りガラスを当てられたみたいに。日中ならばそれほど不便を感じないが夜は車の運転を控えたほうが良さそうだ。なるべく早く帰ってこようと思いつつ用意をした。
 カーナビに頼らず記憶で道を辿る。覚えていたはずのものがあまりにも不確かで何度か行きつ戻りつした。沿道の風景が変わったのか、僕がポイントを忘れてしまったのか定かではない。数少ない手がかりを頼りに僕はどうにか行き着くことができた。
 彼の家の呼び鈴は電子ブザーではなく、玄関先につり下がっている鐘の紐を引くようになっている。リリンリンと、大きめな、通りの良い音がした。
 そうだ、この音だ。懐かしい。
 ドアが開いてお嬢さんが応対に出てきた。
 「いらっしゃいませ。お久しぶりです。どうぞおあがりください。」
 そうすすめられて僕は軽くお辞儀をして玄関に入り、靴を脱ぐ。
 「父は今、コーヒーの用意をしています。そろそろ来る頃だからとか言って。」
 それだけを言うと彼女はクスクスと笑い出してしまった。
 応接を兼ねたダイニングでは彼がコーヒーを淹れていた。豆を挽いたばかりの良い香りが部屋に残っている。
 「おう、直ぐにできるから座って俺の直感が冴えてる様を見ていろよ。」
 彼は得意になってドリッパーに細い湯を落とす。
 それを見ていたお嬢さんが耐えられないと言った風にこう切り出した。
 「何を言ってるの?それ何杯目のコーヒー?あいつが来たタイミングでドンピシャに出してやるんだって、さっきから10分おきくらいに入れてるのよ。もう軽く4杯目には届いています。」
 なるほど彼女が先ほど忍び笑いをしていたのはこういう訳か。
 「うるさい!手品に仕掛けがいるように、日常にも仕掛けが必要なんだよ。それを偶然に見せかけるからサプライズが生まれるのだろう?」と彼は娘に反論した。
 娘はまったく要らないことばかり言うんだよと、湯が滲み通って行くコーヒーに向かって野嶋が呟いた。
 僕がきちんと道を覚えていればきっと彼は予定通りに自慢ができたはずだ。申し訳ないな、と思う。
 奥さんが銀のトレーにサンドイッチと唐揚げを乗せて運んでくる。いつの間にかキッチンに下がっていたお嬢さんがサラダとパスタを持ってきていた。
 小さな笑い声がそここにある。運ぶ足取りが軽やかなステップを踏んでいるようだ。
 ビル・エヴァンスのピアノの音がする。ラファロのベースがビルと肩を組むように重なる。モチアンはそんな二人に少しだけやきもちを焼いているのかも知れない。
 ダイニング・テーブルの上は春の花が咲いたようにカラフルになって行く。
 彼は、彼の家庭は、努力をしてきたのだろう。
 真理を知っていると公言する欺瞞者のようになることがなく、「知らない」と言えることができていたのだろう。
 家庭はいつか崩壊する。独立、結婚、死別など様々な要因で。
 つかの間の時間を大切に思い続け守ろうと彼らはしている。ごく自然に。それが僕の羨望を煽る。
 砂漠で渇きを濯ぐために雨だけを乞う遭難者のように僕は望むばかりでいた。しかしそれは自分の努力によらないもので、都合の良いことを願い待っているに過ぎにない。
 望んで手に入るものではないかもしれない空間を、僕は窓の外から覗き込んでいる。
 傍観者が当事者に混じることはない。傍観者が当事者に転換するのは別の事故の発生が条件となる。
 「メシがきたぞ!さあ、食ってくれ!うまくもないけどクソの足しにはなる!」
 彼が笑い、お嬢さんが「お父さん、言葉が汚い」とそれを窘めた。



 

枕元の本

 病床の中で一冊の本を手に取った。それは決めて探したものではなく、たまたま手に当たった程度のもの。表紙を眺めながら僕は思った。
 「二つの結婚?なんだ、生田春月か。」
 別にこれと言った目当てもないし、身を起こして他の本を探すのも面倒だったのでそのまま読み進めることにした。

 小説のなかに置かれた一句が心に飛び込む。

…人の世はとまれかくまれわれはわが正しき道を行かんとぞ思ふ

 正しさとは何なのだろう。相対的なものではなく、絶対的な正しさを手に入れることはできるのだろうか。
 賑やかな場所を好まず、酒に乱れるの嫌い、狭い書斎で本を手に取って暮らすことを願っていた春月。

 著書「眞實に生きる悩み」の中に次のような言葉が綴られている。

…人間一人が世の中に立つて生きて行くといふ事は、もうそれだけでなかなか容易にならない事である。まして、少しでもごまかしのない、立派な、第一義に即した生き方をしようといふのは、私などのやうな凡人には到底望まれない事かも知れない。けれども始めから不可能の事と定めてしまつて、それを断念する事は、為したくもない事であるし、又為してはならない事であると思ふ。…

 今夜、雨のあがった隙間から、生田春月の言葉が聞こえたような気がした。

 「晴天のなかに星を探すようなものですよ。しかしそれは確実に輝いている。同じように、私の探す星は、私の心の濁りのなかに存在しています。」
 
 砕かれた宝石が美しい反射をみせるように、花火が瞬時に燃え尽きるように、砕かれた心も美しいのかも知れません。そして砕かれたものは常に悲しいのです。
 たぶん僕は病床になければ、春月を手に取ることはなかったか、もっと先のことであったと思います。偶然は必然が生み出す魔法の一つです。

 
 

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書斎机の七冊目、「草木塔」種田山頭火

 昭和15年9月21日の山頭火の日記にこうあった。

 …近年、私はつつましく餘りにつつましく生活してゐる。それは内からの緊縮もあるし外からの壓迫もあるが、ともかく私は自粛自戒して居る。
 今後、私は私らしく私本来の生活をつづけるであらう。ただ省みなければならないのは無理をしないといふことである。無理は不自然である。不自然は長くつづくものでもなく、またつづけるものでものない。…

 図書館で僕は山頭火を広げている。
 君は僕のすぐ隣で「ノンちゃん雲に乗る」を読んでいる。
 ふたり、まったく違うものを選びながら、同じ時間を過ごしている。しかし同じなのは壁に掛けられた時計の進み具合だけで、実際には僕と君の時間は異なっている。その誤差はどれくらなのか、と思ったりする。アインシュタインなら解けるのかな。
 君と僕の距離は、そう、30センチほど。僕がちょっと体をずらせば君の肩か腕にぶつかる。君は読書の邪魔をされて迷惑顔をするだろうか。
 時折、君がつく吐息の澄んだ匂いがしてきて、僕はそれを吸い込むことに恥ずかしさを覚える。
 間接キスというものがあるのなら、きっとこれもそれに含まれるのかも知れない。僕のなかで葛藤が生まれている。本に集中できないのが煩わしい。君は何かに煩わされている様子もなく、軽やかにページを捲る。それを覗き見する勇気も僕には生まれて来ない。君と眼を合わせるのが怖い。
 僕と君はこんなにも違っている。この不自然はどこまでが「無理」なのだろうか。考え続けていると僕は思考を失くす。いっそのこと僕自身が消えてしまえれば万事自然に収まる気がしている。
 今、君に知られずにこの空間にある君の吐き出した息だけを、すべて胸に吸い込むことができたなら、僕はきっとそうしている。誰にも知られないままに僕のなかの澱みが濃くなる。
 どうすることもできずに僕は窓の外を伺う。好く晴れた空が見え、揺れるポプラの梢から小さな鳥が影になって散らばって行った。
 君が僕に気づいた。
 「どうしたの?面白くないの?」
 君は何を知っているのだろうと問いかけたくなるけれど、また、途方に暮れて言葉が引き返してしまう。
 「いや、咽喉が乾いたんだ。ここの空気が乾燥しているせいかな?」
 君が本をパタンと閉じる。それはまるで一度も開かれたことがなかったかのように行儀よく小さく、二枚貝のように固まった。
 「山頭火の草木塔ってあるじゃない?読んだことあるでしょう?そこにね、こんな句があるのよ。憶えてるかなぁ。」

 また見ることもない山が遠ざかる

 「たった一度きりの名残を惜しんで去る場所があって、もう一度と思い続けながら行かれないままに終わってしまうこともあって、そう言う事って特別なことではないでしょう?この二つの違いは何だと思う。ねえ、窓から見えている景色のいったい幾つぐらいを私たちは実際に見たことがあるのかしら、そして、この先、見に行かれるのかしら。それは楽しみであり、不安でもあり、考え続けていると少しずつ不安の方が容量を増して行くの。だから私はこう思うの。人は不安なしで生きることはできないって。それが自然なんだって。」
 (ああ、君は気づいていたんだ)と思った。僕は自分を持て余してしまう。
 「イワタにホットケーキを食べに行かない?土日じゃないから、たぶん並ばないで済むはず。私、お腹が空いちゃった。」
 (ここから小町通りまで歩けばクールダウンのための理想的な時間が得られるね。)
 僕は胸のなかの自分にそう囁いた。
 「君はすごいね。」
 心底感心して言葉が零れてしまった。
 「えへっ」と君は不二家の人形の真似をして笑顔を作る。
 図書館の外は十分に高い日があって、10月終わりの草陰からは蟋蟀の鳴く声がしている。
 (憶えてるかなぁ。)
 君の声を借りて胸のなかで問いかける。
 「海をじっと見ていると夢を見ているような気持ちになるって言ってたよね。僕はこうしているとその海を前にしているような気がしてくるんだよ。」
 先ほど読んでいた山頭火の日記の後を思い出す。

…めづらしく宵寝。いろいろの夢を見た。時々眼がさめて孤独の思ひが澄みわたつた。身に迫つてちんちろりん。蟲も淋しいのだらう。…

 分かれ道と言う標識が見える。それは真逆から来ているのでふたつの道がそこから合わさっている。同じ道を歩いている者が別の道の合流に出会う。行く先が一本に見えるその道も、紛う方なき分かれ道。彼女の言った山頭火の句集から一句拾い上げる。

 まっすぐな道でさみしい

 横目で見て、あと半歩動くことが出来ず、踏み入れることのなかった道の先になにがあったのかは永遠に知ることはない。それは知る必要もない。天秤に置けば、不安と希望と悔恨は同じ重さなのだろうと思う。それを傾けるのは自分自身。
 秋空を仰ぐ。今週末は雨も降らなさそうで絶好の行楽日和となりそうだ。人で溢れ返った小町通りは、並んでもホットケーキは食べられないかもしれない。ホットケーキにたくさんの生クリームをつけてフォークで運ぶ君の顔は、数分後には現実になるだろう。
 清献公が僕を力づけてくれた。

 …好事を行じて前提を問ふなかれ。

 「それでもたぶん、まっすぐな道は寂しいんですよ。あなたもそうだったでしょう?」と、僕は君に届かないほどの声で風に呟いてみた。

 本の扉を開くたびに聴こえてくる、遠い昔の話です。

・「草木塔」種田山頭火 昭和15年 八雲書林(初版)
・「愚を守る」山頭火遺稿 昭和16年 春陽堂書店(初版)

 草木塔


 佐伯から「写真にちょろっと出てる本の分だけでも書けば完成!ってことで無理をしてくれ」と言われました。僕が病床でボケないようにという配慮なのでしょう。あらかじめ書くことは決めてあったので、体調の良い時間を利用して書いてみました。
 でもね、佐伯、生きていることそのものが病床というステージにいることなんだよ。僕は病床でボケるんじゃなくて、もともと頭が悪いんだよ。あとでそうメールで送っておこう。
 
 
 
 

 

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書斎机の六冊目、「真珠島」三木露風

 近年、蜻蛉の数がめっきり減ったと言う話をよく耳にします。
 オニヤンマやギンヤンマは僕が子供の頃から珍しく、憧れの対象ではあったけれども、ナツアカネ、アキアカネ、ショウジョウトンボなどの、通称アカトンボは激減していると聞きました。原因は様々なものが複合しているのでしょうが、元を辿ればすべて人間の生活という事に行きつきそうです。生きて行くためには何かを犠牲にしなくてはならないのは当然としても足ることを知らない開発や欲望は、いずれ自身をも滅ぼすことになります。
 永遠に進化し続ける生物など有り得ないのです。進化の終着地点は滅亡にしかない。人間は傲慢に過ぎる。僕はそう思っています。未来の不幸を望むものではないけれど。

 真珠島

 その人は冬の終わりとともにやってきた。

 「春の草は赤ん坊の匂いがしますね。」
 「日傘がないと町を歩けません。日傘を持っていますか?」
 「夕方から雨になりそうです。椋鳥が家路を急いでいますから。」
 その女の人は公園のブランコに腰かけて、相手もなくいつも同じように話しかけていた。近所の人たちは彼女を見ると避けるようにして小声で子供たちに警告を与えた。
 「あの人は狂ってるから近寄っちゃダメだよ。殺されちゃうよ。」
 僕は大人たちのその言葉を信じた。彼女がブランコにいる時はひとりきりで公園を抜けることはせず、遠回りをして家に帰った。

 春某日、入日射す公園で僕は遊び相手もなく影を飛び越して遊んでいた。桜の花弁は風に巻かれて翻るたびに茜色に光ってくるくると廻り、灯り始めた街灯が心なしか青ざめた色をそこに投げかけていた。

 …夕やけ、小やけのあかとんぼ 負われて見たのはいつの日か…

 とても澄んだ歌声だった。どこから聞こえてくるのだろうと四囲を見回すと、いつものようにブランコに揺られている女の人がいた。先ほどまでいなかったその人の歌声は、狂った人の声とは僕にはどうしても思えなかった。

 …山の畑の桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか …

 僕は小さな声でその歌声に合わせた。すると彼女は僕の方をみて静かに微笑み、節を繋げた。

 …十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた。…

 僕の声は少しづつ大きくなり、それに倣うかのようにして彼女との距離は縮まっていった。

 …夕やけ 小やけの あかとんぼ とまっているよ 竿の先 …

 歌が終わりかけた頃、僕は彼女のほぼ真正面に立っていて、彼女はもう一度、「とまっているよ 竿の先」とゆっくりと繰り返した。そして、となりのブランコの座板を指さして「座って」と聞き取れないような声で言った。僕は何も考えず、するっとそこに腰をかけ、正体無く足をぶらぶらさせた。
 初めて間近で聞いた彼女の声は、まるで子守歌のようだった。
 「私は狂ってるから近づくなって言われているのではなくて?私が怖くはないのかしら?」
 僕は答えずに自分の影をズック靴で幾度も擦った。

 彼女はまた歌いだした。

 …鶯、鶯、お姫様、黒い衣をかぶせられ、とまり木にとまって、ひとりぼっちでねむります。さてもさみしい鶯が、夜見る夢はなんであろ。駕籠のむこうに夕星が、ちろり、ちろり、またたいた。またたいた。…

 初めて聞く歌だった。どこか不思議な節回しで、それは出鱈目を歌っているようだった。この時は全部を覚えてはいられず、黒い衣を被せられひとりぼっちで眠るという情景だけが心に残った。
 歌い終わった彼女はこう話しかけてきた。
 「私は卵を抱っこしているのよ。小鳥の巣から落ちてしまって、もう雛にはならない卵をずっと抱っこしているの。見たい?」
 僕の眼を本当に穏やかに見つめてきたので、それに誘い込まれるように「うん、見たい」と答えた。すると彼女はセーターの首を左手でほんの少し引っ張るようにして、右手で大切に手繰るように銀色の細い鎖を引き出した。その先にはガラスなのか、水晶なのかわからなかったけれど透明な小さな卵がついていた。
 僕はそれをしばらくの間、じっと眺めて、こう答えた。
 「それは小鳥の卵じゃないよ。ガラスだよ。そこから小鳥なんか出てこないよ。」
 彼女は両の掌でそれが夕風にあたって冷めてしまわないよう包みながら「これは卵よ。私は鳩の生まれ変わりだから、ずっとこれを温めていないといけないの。これが雛にかえる頃、私はやっと幸せを見つけたことになるの。」
 僕には彼女の言っている意味が理解できなかった。そして、「やっぱり狂ってる」と思った。以後、二度と彼女に近づくことはなかった。公園の植え込みでカンナが燃えるように咲き始めた頃、姿が見えなくなった。6歳の時の話である。

 高校3年になろうとする春休み、僕は長崎にいて、そこで立ち寄った図書館で一冊の本を見つけた。
 三木露風の「真珠島」。
 初めて見る本で、彼が「あかとんぼ」の作者であることは知っていた。
 一頁ずつ丁寧に目を通した。五月、きりぎりす、夏のをどりと読み進めて頁を捲った時、「山づたひ」という詩をみつけた。

 …ひとりさみしい山づたひ、わたしはけふもさがします。見たことのない「幸せ」を。…

 読み進めた最終節の「わたしは鳩の巣のそばで、鳥の卵を抱いていた。涙ながらに抱いていた」というフレーズで僕の記憶が開いた。そして読みづつけた先、もう巻末に近いところに「夏の鶯」という詩があった。

 うーぐいす、
 うーぐいす、
 駕籠の鳥
 啼いて啼いて啼きとほして
 日がな一日啼きとほして
 あかるい夏の日が暮れる。
 
 うーぐいす、
 うーぐいす、
 谷わたり、
 里のお山がこひしかろ
 山には赤い百合がさき、
 樺の林に日がおちる。

 この詩を読み終わった時、僕はやっと理解した。あの人は狂ってなんかいなかった。悲しいほどの理想を温めすぎていたのだと気が付いた。
 彼女は、誰かに話しかけられることを、触れられることを、自ら拒絶していた。その透徹した悲しみと強さとが僕を襲った。
 この詩の最後の一節こそ、あの時に彼女が歌ったものだった。
 あの日、彼女が口にしていたメロディが本来のものであったのか、もともと曲などついていなかったのか。不思議だったという印象しか思い出せもしないあの節回しは、彼女が生んだ音だったと考えた方が自然に思える。
 記憶の黄昏に沈んだその面輪を呼び起こせもせず、ただ錆び付いたブランコだけが僕の過去で夕闇に揺れている。彼女の幸せの結末も、そしてそのメロディの真偽も、僕は知らない。誰かが教えてくれる日を、今度は僕が待ってみようと思う。
 僕の自分勝手な満足感でしかないが、彼女があの卵を温め続けている限り、彼女は幸せであったはずだと思っている。そしてそれが、僕が呵責から逃れるための嘘であることも知っている。

・「真珠島」三木露風 大正10年 アルス(初版)


 これで一先ず終わりにします。ちょっと調子に乗りすぎたようです。身体がきつくなってきました。中途半端で申し訳ありません。
 また機会がありましたら再開したいと思います。


 
 

 
 
 
  

 
 
  
 

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