FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

美しい町

 君の町を訪ねてみようと言ったことがあります。
 何の取り柄もない、つまらないところで、僕にとっては「私が生まれた場所」という意味しかもたないところだと君は笑っていました。
 僕はそんな君を自信過剰だと揶揄ってみせたのでしたね。
 君は気づいていたでしょうが僕にとって理由はそれで十分だったのです。
 僕の知らない君が生まれた町。僕のことを誰も知らない、君のことをよく知っている町。
 僕が新しい記憶を刻み付け、刻まれた君の記憶を辿る場所。
 そうすることで恐らく恋愛に憧れようとしていた。
 新しいことが始まることに期待していたのです。
 この国が自分自身の力で変わることがなかったように、僕も誰かの力でしか自分を変える勇気をもっていなかったのです。

 鎌倉で僕はひとりの少女と知り合いました。彼女と過ごしたのは二年ほどに過ぎなかったのだけれど僕に大きすぎる影を遺して行きました。
 そして君と出会い、代わりになるものを獲ようと必死だったのです。
 僕は君のことを知りません。
 いったい僕は君と何を話していたのでしょうか。君の向う側に別の面影を見、それに向かって話しかけていた気がします。
 好きな食べ物や音楽のこと、どんな色が好きだったのか、どこへ行きたがっていたのか、何も知らない。たった一度聞いた誕生日さえ忘れてしまいました。
 
 今、初夏へと向かう畦道を歩いています。
 水を張られたばかりの田圃が空の青を映し、触れられるはずのない雲を足元に近づけてきます。
 枯れてカサカサになった土筆を見つけました。指で手折るとそれはあっけなく崩れ、乾いた殻のようなものが残りました。
 あの春の日、土筆を両手いっぱいに摘んできて、「天ぷらにしてちょうだい」と駆け寄ってきた子供たちはどこへ行ってしまったのか。あれはどれくらい昔のことだったのか。幻だったのでしょうか。
 土を被って色を失くした昼顔が、私を覚えていますかとこちらを見上げています。
 勿論、覚えているよ。お前は実を結びもしないのに、そんなにしてまで花を開かせる意味があるのかと嘲笑したのはいつのこと。
 ひとりで問い、ひとりで答える。
 こんな時間もたまにはいい。
 橋を渡り、荒れた舗装道路を横切り、放置された竹藪を潜り抜けている坂道を登ってゆく。
 藪中で息をひそめる浦島草が男になるか女になるかを思案していた。
 僕も選べたら良かったと思う。16歳になったら自分で性別を選べると言うなら尚更に理想的だったろう。それでも多分、男を選んだかもしれない。僕は自分勝手だからね、男が相応しい。
 この坂の先には廃園があるのを僕は知っている。
 だが他の事は何一つ知らない。
 歩を進めれば新しい何かは常に目に入るだろう。
 僕は想像するしかない。
 未来と言う時間は与えられるはずもなく、もとより存在もしていない。
 過去しか認識しえない僕は、来た道を振り返る。
 この道が僕の自意識の全てであり、他者と自己とを識別する唯一の確証なのです。
 踏み入れたことのない獣道を見つける。
 次はそちらへ行ってみようかと思う。
 不思議なことに、明日はどの道を行こうかと思うと歩くことが楽しみになるのに、明日はどうやって生活しようかと考えると急に不安が水嵩を増してきます。
 足元を泥濘ませ、膝から腰へと届き、やがては喉元まで迫って来るのです。
 苦しさに耐えられず僕は岸辺の葦を握りしめる。千切れた葉や茎のいくつかは君だったかも知れません。
 僕は息を吹き返す。
 雲雀の澄んだ囀りが聞こえ、鶯が闖入者に警告を与えています。
 風は流れる汗に涼しく、何事もなかったように里山を吹き過ぎて行きます。
 人間は想像することができると言う限りにおいて、自分が想像の産物であることを完全には否定できない。
 だから夢を見る。
 脆弱なものですね。
 僕の見ている現実と世界の現実との間に大きな齟齬が存在します。
 僕の現実と世界の現実は異なっている。
 共有しているのは曖昧な言語と漠然とした不安。
 奇妙に歪んだ連帯の中にまだ自分は存在しているのだと感じていたくてニュースを確認します。
 本当に乖離してしまうことは怖い事なのです。
 メディアの中のしたり顔は空々しい声と表情を作って本当は関心のない出来事を伝えてきます。
 そうしていないと同じ環の中に居ると言う感触を失くしてしまうから。
 
 僕は叶うならば無関係に存在したいのです。
 細々とした煩雑な関係からもっとも単純な関係へと移行したがっているのです。
 だから君の町を訪ねてみたいと思いました。
 
 君の生まれた町のことを聞かせてください。

 空

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 

 
 
 
スポンサーサイト

音のない観覧車

 自分が観覧車になった夢をみた。
 客車を震わせながらゆっくりと回転し、幾通りかに重ねられたネオンを点滅させて、僕は夜のなかに立っていた。
 僕は自分がどんな形のネオンを灯しているのか分からずにいて、それがペンタグラムだったら良いと思っていたんだ。
 客車のひとつに見覚えのある顔を見つけた。
 大学時代と同じように大袈裟な身振り手振りを交えながら剽軽に話をしている。
 なんだ、元気じゃないか。あいつが死んだりなんかするものか。誰だ?僕に悪い冗談を聞かせたのは!
 彼の正面にボブカットの女性が座っている。振り向いてくれないので顔が見えない。僕は会ったことがないけれど、恐らくこの女性が彼の言っていた恋人なのだろう。確か美容師さんだったはず。
 声を聞き取れないのが残念。
 でも二人があまりに楽しそうにしているので、見ているだけの僕も愉快になり、そのために客車を数回ガタガタと揺すってしまった。怖がらせてしまったら済みません。
 それにしても若いなぁ、あの頃のままじゃないか。お前だったらやり直せるよ。何度でも。
 僕のなかにあるはずの小さな世界の音を、僕はどうしても拾うことが出来ない。
 サイレント映画のように大袈裟な表情を浮かべて、場面が重なりながら摩り替って行く。
 あちらにはアルバイトでお世話になった人たちがいて、今、笑いあって降りて行こうとしている。
 8時の辺りを登ってくる、ソフトクリームに唇をつけている女の子は、小学校の頃に隣に住んでいた子。遊びに誘いに来てくれたのに断ってしまってごめんね。本当は行きたかったんだけど恥ずかしくて、うんって言えなかったんだよ。
 いつの間にかすべての客車に人が乗っていて、その誰もに僕は懐かしみを感じた。
 ひとりひとりをきちんと思いだせもしないのに、彼らはちゃんと僕の箱のなかにいる。少しだけ痛みを伴うようにして。
 昇降地点の客車がガタンとした。
 誰かが乗り込んでくる。
 小さな男の子を連れた老人で、彼はとても背が高いように見えた。
 男の子にも老人にもどこで会ったのか覚えがない。
 老人は男の子を先に乗せると、見上げるように「やあ」と軽く手を上げてから後に続いた。
 その挨拶は僕に向けたものだったのか、夜空に向けたものだったのか、もうわからなくなっていた。
 どこかでお会いしましたか?
 お名前を教えて頂ければ助かります。
 あなただけが覚えているなんて不公平だと怒らないで下さい。
 僕も覚えていたかったのに違いないのです。
 けれど僕はもう大分歳をとってしまったので忘れっぽくなってしまったんです。
 お名前を思い出せれば、今度は僕があなたの覚えていない昔話を出来るかもしれません。
 そんな僕の声も届くことはない。
 誰かが乗り降りするために相応しい速さを保ちながら、何かに触れるために伸ばす腕も持たず、夜と海の間を僕は回り続ける。
 同じ高さと同じ低さの間で時々躓きながら。
 君は笑うかもしれないけれど、
 ある晩、僕は、音のない観覧車だった。
 



テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

思うこと

 朝、自分を目覚めさせるために一杯の紅茶を飲み、一日の終わりの溜め息を誤魔化すために珈琲を淹れる。
 そうして今日の出来事を思い返し指折り数えながら、この24時間が僕にとって長かったのか短かったのかを測る。
 左手の親指を折り、人差し指を折り、中指を折ろうとして躊躇いが吐息をつく、薬指が途中で動きを止める。こうして右手に移ることなく数え終わってしまう僕には何が残されたのだろうか。
 24日、鶯谷に店舗を移した古書ドリスで銅版画家の林由紀子さんにお会いし、ひとつ安堵した。少しお痩せになられたように見えたけれどお顔を直接拝見できたことが素直に嬉しかった。
 その同じ場所で偶然といったら失礼に当たるけれど、レイミア・プレスの江副さんにもお会いすることができた。江副さんが林さんをご心配なさる気持ちは僕以上であることはご様子から伺え、お二人が挨拶を交わされる姿を見ながら、いつまでもこの風景が場所を変えながら繰り返されるようにと願った。
 その前日の23日、昨年、何度も擦れ違いになって会えず終いだった長野順子さんを訪ねて大阪のワイアート・ギャラリーへ向かった。
 近隣で開催されていた個展ではお会いすることが出来なかったのに、こんな遠方でならそれが叶うこともあるのだとちょっと不思議に感じる。手の届くほんの少しの距離は案外に遠い。
 鶯谷で林さんにお会いした翌日、林さんからの封書が届いた。勿論、投函されたのは23日より以前で、僕がお送りした原稿の可否に関するお返事。
 知人から「蔵書票に関することを書いて欲しい」と頼まれて蔵書票そのものではなく林由紀子さんのことを取り上げたので、その記述内容を確認して頂いた。
 枝下さんが作ってくれた文集のおかげで幸か不幸か原稿を書く機会が多くなってきた。いずれも断りきれない人たちからのものなので引き受けはしたけれど、筆が遅々として進まない。僕はものを書くのがあまり好きではないし、固より得意でもない。思いついた時に書きたいように書いているのが相応しい。それと僕にはささやかな約束がある。
 原稿で収入を得ようとは思っていない。本来、無償で良いと思っている。書きたいものを書くのと、生活するためのものを書くのとは似ても似つかない。生計のために作文するなどその苦労を想像しただけで目眩がする。
 文筆家のすべてが文筆業に属しているわけではない。作業として書かれたものは作品たりえないただの商品に留まるものが多い。無名の個人が残した一通の手紙が如何なる文学作品より心を打つことがあり、稚児の片言に心の覆いを払われることもある。
 販売量の多かったものが名作秀作であると判定することは絶対に出来ない。内容の質よりも宣伝力による影響が大きすぎる。そういったものの多くは買われてはいくけれど読まれずに放置される。購入者は手に入っただけで満足する。そんな満足感を与えられると言うのも驚異のひとつには違いない。レジャーの一端として購入することがイベント、そんな楽しみ方も確かに存在する。日々の生活の中で快適な充足感を与えるためのアメニティ・グッズであると分けてしまえば疑問もない。
 孰れにしろ傾向を予測して意図的に生み出すと言うのは難しいもので格別な努力を要する。その辛苦を楽しめる、或は作業としてこなせる精神力が才能。経過を批判することなど他者には毛頭できない。批判を浴びるのは結果として形をとって世に出されたものの宿命であり、商業人としての認定証と引き換えになっている。公然ではあっても人目につかない場所でこうして無駄なものを自由に書ける自分は幸いだと思える。趣味で良かったとつくづく実感すると同時に、何で書いているのか?と疑問が堂々巡りをする。矛盾の迷宮。つまりは人中で吐くボヤキみたいなもので、聞かされる方々が被る迷惑に陳謝。
 今、地震が来ている。
 家が揺れて部屋が軋む。数秒から十数秒にしか過ぎない地球の痙攣が予期しえないエネルギーを生み出す。僕が全力で寝がえりをうったところでベッドから落ちるだけのこと、比べるべくもない。
 こんなに軽い命が長らえていて、要事を抱えた貴重な命が世を去ってゆく理不尽を誰に問えば良いのだろう。
 空虚を抱きながら命を無駄に過ごすことは最大の罪と言える。
 「お前には何もなかった。」
 70年でも80年でもただ時を散らしたに過ぎない人生は当に天罰。
 僕たちは時間の樹。限られた葉を散らし、裸樹が死の姿。立ち枯れの最期。場所を空けるためにブルドーザーに轢かれ砕かれる。
 何枚の葉を散らしたのか数えることもできず、その一枚を拾い上げることもできない。
 枝を離れた葉は瞬時に吸い込まれるように中空で消えてしまう。
 僕は思う。
 あとどれくらい君のことを考えれば終わりが来るのだろうか。
 もう10年も20年も考えなくてはならないとしたら、それは嫌だなと思う。
 僕は僕の跡に残るものを惜しむより、僕とともに消えてしまうものを愛しいと思う、そんな歳になった。
 地震が収まった後、ふと、あの揺れも夢だったのかも知れない、そんな気がした。

 



 
 
 

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

地図

 道に迷った。
 洒落た戸建てが並ぶ住宅地に入り込んでしまい、どこを抜けて行けば良いのか分からなくなってしまった。行き止まりと一方通行ばかりが目の前に現れる。細密な部分になるとカーナビの地図は役に立たない。更には僕が搭載している地図の情報が古いようで、この住宅地自体が載っていない。元の地図によるとこの辺りは工場と林になっていたらしい。まばらに建物があったことにはなっている。
 運転に疲れた僕は車を降りて辺りを見回す。葉を落としたプラタナスの植えてある幅の狭い歩道。セットバックされるように置かれたボードに”Coffee & Tea”の文字が見えた。僕は店の前まで車をゆっくりと動かして停めた。
 御影石の壁に取り付けられた扉は掌ほどの明り取りがある以外は頑丈な黒鉄製で、喫茶店よりは倉庫にしか見えない。
 扉を引いて中に入ると、店内はほぼ正方形で、初めの印象を裏切らない改装された倉庫であることがすぐにわかった。
 ふたり掛けのテーブルが壁に寄るかたちで三台。カウンターには三人分の椅子が据えられていた。かといって店内が狭いわけではない。寧ろ贅沢過ぎるほどの空間を余していた。
 見上げる天井は高く、三階分はありそうだ。その上方は大きな窓で囲われてあるのだろう、窓の無い一階部分にも拘わらず十分な自然光が入り込んできている。カウンター手前と店の奥に鉄梯子がかかっているのがわかった。それをたどれば恐らく天井の窓に届くのだろう。
 壁にはテーブルのある各側に二灯ずつミューラーのブラケット・ランプが補助灯として取り付けられていた。ポスターなどの掲示物は見当たらない。調度品と言えるものもテーブルを結んだ正三角形の重心に置かれたBALONの中型ペレットストーブのみ。これで冬を凌げるのだろうか。入る前に建物の外周を見て置けばよかったと思った。
 僕はカウンター席に着いた。
 マスターと思しき男性は優に70歳を超えているように見えた。煮沸したカップを丁寧に拭き取っている。
 「いらっしゃいませ。初めてお会いするお客様ですね。どうぞごゆっくりなさっていってください。」
 そう言って僕の前にメニューと水を差しだした。
 メニューは革製のバインダーで、挟まれている和紙に手書きで3種類の珈琲と3種類の紅茶とが書かれていた。丁寧な文字。男性の字ではなく女性のようで、紙の状態からするとかなり前に書かれたものに思える。紙だけが古いのかもしれない。
 僕は自家製ブレンドを選んだ。
 水を口に運ぶ。グラスを手に取った瞬間、その緻密なグラビュールに目を奪われる。BaccaratのLulli。砕かれた小さな氷が一つだけ浮かべてあり、そこに自然光が優しい乱反射を返す。
 マスターが豆を挽いている。
 店内に流れる音楽には覚えがある。
 Kletzki が指揮する「大地の歌」。Dickie のテノール、バリトンは名歌手、Fisher-Dieskau 。1959年、ロンドンにおいてPhilharmonia Orchestra をバックに録音されたもの。僕の気に入っている演奏の一つ。
 珈琲が運ばれてくる。カップの横に一欠片のチョコレートが添えられている。
 音楽以外の音のない世界。
 やはり僕は迷ってしまったのだ。
 カップに顔を近づけて昇り立つ珈琲の湯気を吸い込む。
 冷めて香りが落ちる前にそれを飲み干し、バッグから読み止しの文庫本を取り出す。

…空気は荒い。それは本当です。さうして私は森を揺さぶる北風が好きです。肉體は少しも不平を訴へはしません。肺は空気を吸い込んでゐます。しかし精神に必要なのは別の呼吸です。お父様同様私もこの柵の囲ひの中に入れられてゐます。杙にいはかれた綱の端につながれてゐます。自分の力をどう使ふべきかわからない。力はあまつてゐる!…

 少しだけ頁から目を離すと見計らったように声がかかった。
 「もう一杯、お淹れ致しましょうか?お客様。」
 僕は老人に会釈をして「お願いします」と言った。
 彼はお替りの分の準備をし始めながら話しかけてきた。
 「本をお読みになるには少し暗いですかな?申し訳ないです。」
 「そんなことはありません。十分な光があります。それに音楽が、マーラーが物語を演出してくれています。」
 「ほう?何をお読みですか?」
 「獅子座の流星群という戯曲です。」
 「ロマン・ロランでしたかな?最近では珍しいですね。あまりお読みになられる方もおられないように思えます。」
 「どうでしょうか、それはわかりかねますが、これは昭和7年に出版された古本なんです。片山敏彦さんの翻訳です。」
 彼は挽き終わった豆をサイフォンに移し、アルコールランプに火を入れた。
 「最近の方はアイフォンとかスマホとかで読書を済ませてしまうようで、本の売れ行きが悪くなる一方だと孫がよく愚痴を言います。」
 「お孫さんは出版関係ですか?作家さんとかですか?」
 「つまらない詩を書いてもいるようですが、本業は編集をしております。」
 彼は珈琲をカップに入れて差し出した。
 僕は二杯目を口に運びながら「こちらのお店の名前は何というのでしょう?」と間抜けな質問をした。
 老人は「ほう?」とまた言い、微笑みを浮かべた。
 「お店の前のボードにはCoffee & Tea としか書かれていませんでしたし、店名を示すようなものがどこにもなかったような気がしたので。もしかしたら見落としているのかもしれません。」
 彼はカウンター内にある椅子を引いて腰をかけ、自分用に淹れた珈琲を飲みながら「ありませんよ」と言った。
 「名前はついておりません。保健所への届け出は私の苗字を提出してありますが、厳密にはここには名前がありません。」
 「名前がない?ついていないって事ですか?それって困ることはないんですか?」
 「はい、ありません。そのことを気にする方もほとんどおられませんし、これと言った不便はありませんよ。」
 「良ければこのお店のことをお聞かせ願えますか?」
 老人は僕に促されてゆっくりと語り始めた。
 「ここはお察しの通りにもとは倉庫です。最初は粉や米、塩を置き、小さな問屋でしたのでね、戦時中は軍が使っておりました。終戦後、戻されましたが祖父は死に父も戦死。家の者も商売を継ぐことができず倉庫を残して転居しました。家は壊すことができたのですが、この倉庫は頑丈でして、更地にするには大分お金がかかりますので手を付けずに置いておかれたのですよ。それに不思議なもので、母がね。これは『売らない』の頑なを通しまして。近親が蔵を残しておいたところで中身が埋まるわけではないと如何に説得しても譲りませんでね。理由はわかりません。尋ねても話をしてはくれませんでしたので。結局、住居の無くなった荒地で使い道もなくずっと放置されておりました。それを大学を卒業した私がこっちに帰ってきましてね。この倉庫に住み込んだのです。東京は家賃が高く、仕事も見つけられず仕舞いでしてね。その頃、ここは一番上の階に蔵守の部屋がありまして、そこで生活をしていたわけです。」
 僕はチョコレートの角を齧って、珈琲と共に含んだ。甘みがほど良い。銀紙だけなのでどこのチョコレートかわからない。そしてひとつ、質問をした。
 「その当時、こちらで仕事は見つかったのですか?」
 「はい、このあたりに食品加工場が出来ましてね。そこでお世話になっておりました。入荷係です。倉庫に住みこんでいる人間が荷物の世話ですからうってつけでしょう?」と老人は明るく言った。
 僕は先ほどのナビの地図を思い出した。するとその工場は最近まであったという事になる。
 「そこで働いている時、同僚に毎昼、お弁当を届けにくる娘さんがいましてね。胸を悪くしているとかで学校にも通っておりませんでした。私はねぇ、その子が病気であることが信じられなかったのですよ。それくらい明るい子で、元気に見えました。細っこ過ぎるのと肌が白すぎていたのが恐らく病気であったことの証明なのでしょうね。それ以外は私よりも健康に見えました。そのお嬢さんと私ね、お付き合いをさせて頂いたのです。彼女は割にハイカラで、私の住んでいる倉庫を見ては『ここはカフェにすると素敵』といつも言っておりました。高い天井を繰り抜いてお日様の光が床に届くようにすると好いってね。シンデレラのお城でも夢見ていたのでしょうね。それとも倒れた者を抱き起しに来る天使でも望んでいたのでしょうか。」
 僕はまだ道が掴めていないようで、また童話の中に迷い込んでしまった。
 天井から一条の柱のように光が差し込んでいる。その光に切り取られた床石の繋ぎ目が、十字架のように見えた。
 「彼女はお付き合いをさせて頂いていてから三年ほどで亡くなりました。悪くなってからは呆気ないものでしたね。若いから余計だったのでしょうか。その後、私は別のお見合いをして結婚をしました。今の家内です。住居も倉庫では仕方ないのでアパートを借りました。工場の方は定年まで勤めあげました。今から28年も前のことです。その頃にね、ここら辺の再開発の話が出始めたのです。もっとも実際に着手されるまで15年以上かかりましたがね。売らない地主がいたり、聞き込んで住み着く人がいたりで、ご苦労があったようです。私もね、ここを収容する話がきたら受ける心構えをしていたのです。けれど結果として予定地に含まれず買い上げの対象にならなかったのです。可笑しいでしょう?売らないと言っていた母の執念なのでしょうか。しかしね、そのままにはしてはおかれません。妻と親戚と話しあっていた折に、昔、お嬢さんが言っていたことを茶飲み話として切り出したんですよ。そしたら妻が『それはやるべきでしょう』とそう言うんです。退職金の残りを使えば簡単な改装くらいできるって言うんですね。喫茶店なんかでは生計が立てられないと言うと、『もう余生じゃないですか。これ以上欲をかくことなどありませんよ。あっちに行ったら自慢できる話のひとつも作るほうが楽しいじゃありませんか』って譲らないのです。そうしてね、出来上がったのがここです。中途半端でしょう?何もかも遣り掛けみたいに。遣り掛けで良いのです。生きていること、死ぬこと、全部終えることなどありはしません。心残りがあってこその人生ですよ。お店の名前はいろいろ考えました。外国の名店とか、小説や映画の中とかね。しかしそのどれもがしっくりきませんでした。そうして過ぎて行くうちに無名で良いと思えたのです。誰のものでもない、そんな場所なのです。一日待ってもお客様がいらっしゃらないこともあります。近所の方でもここが喫茶店だとご存知の方はあまりおられないでしょう。知っておりましても道楽者のやっている店とね。そう思っていらっしゃる。何しろ珈琲と紅茶しかありません、種類も少ない。開いている時間も陽が高く射してから沈むまでですからね。普通の人なら美味しいケーキのあるお店に行きます。それが当然です。誰も来なくても構わないのです。こうしてね、お客様のような方がたまにお越しになってくださる。その偶然のすべてを忘れないように温めていられれば良いという次第です。私が受け止めるには適切な数なのです。商売をしているのではなく、待つことをしているだけなのでしょうね。お客様のお言葉に甘えて長話を致しました。読書のお邪魔を致し申し訳ありません」と言って彼は話を終えた。
 音楽が耳に聞こえ始め、それはシューベルトのミサ曲に変わっていた。
 僕は閉じていた本の扉を開く。陽の陰りが時の移り変わりを知らせる。手元の灯りが穏やか過ぎるブラケット・ランプに助け始められる頃、僕は腰をあげた。床にはもう外光は落ちていなかった。
 大通りへの抜け方を彼に尋ね、扉を押して静けさから足を踏み出す。短くなった残照が冬を伝える。建物の外観が夕闇に滲んでいる。周囲には目印になりそうなものはない。車に乗り込んで地図を確認する。相変わらず工場と林とを示している。車内の充電器に繋いだままのスマホに気づいた。スイッチを入れると着信2件、メールが6通届いていた。メッセージを聞き、メールを読んでいると、老人が小さなボードを片付けに出てきた。僕を見てお辞儀をする。恐らくこの老人は僕が見ていないところでも、こうしてお辞儀をするのだろう。
 僕はお店のある場所を忘れないように地点登録をしようとしたが思いとどまった。
 もっと相応しいナビゲートの手段を見つけた。

 ここに来るために、もう一度迷ってみよう。
 
 

 
 
 
 

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

呼び鈴

 久しぶりに遠出をしてみようと、取手に住む知人を訪ねることにした。
 都合を確認するために電話を入れるとお嬢さんの声が受話器を拾い上げた。
 今だに携帯電話に頼らず黒電話で用事を済ませている彼が羨ましい。
 恐らく近くに彼はいるのだろう。お嬢さんが父親を呼ぶ声がして入れ違いに野嶋が出た。
 「久しぶりにお前のところに行ってみようかと思って電話をしたんだ。昼過ぎになると思うけど予定はどうかな?」
 「何もないから大丈夫。元気にしてたかとは言いにくいが、しかしそれにしても声がか細くなったな。メシをちゃんと食ってるか?昼メシを用意しておくから一緒に食べよう。哀れ蚊を慰めるには血を吸わせるしかないからな」と笑い声をあげる。
 僕は気を使わなくてもいいと体裁のような断りを入れたが彼はそれを意に介さない。いい奴だ、相変わらず。
 電話を切る前に僕は彼にこう告げた。
 「置電話はいいな。お前以外の人の声が聞ける。携帯電話だったらダイレクトにお前しかでない。」
 そう言うと彼は「共通のものの良さだよ。繋がりは些細なところにあるものさ。それが大切なんだよ」と言った。
 左目が霞む。曇りガラスを当てられたみたいに。日中ならばそれほど不便を感じないが夜は車の運転を控えたほうが良さそうだ。なるべく早く帰ってこようと思いつつ用意をした。
 カーナビに頼らず記憶で道を辿る。覚えていたはずのものがあまりにも不確かで何度か行きつ戻りつした。沿道の風景が変わったのか、僕がポイントを忘れてしまったのか定かではない。数少ない手がかりを頼りに僕はどうにか行き着くことができた。
 彼の家の呼び鈴は電子ブザーではなく、玄関先につり下がっている鐘の紐を引くようになっている。リリンリンと、大きめな、通りの良い音がした。
 そうだ、この音だ。懐かしい。
 ドアが開いてお嬢さんが応対に出てきた。
 「いらっしゃいませ。お久しぶりです。どうぞおあがりください。」
 そうすすめられて僕は軽くお辞儀をして玄関に入り、靴を脱ぐ。
 「父は今、コーヒーの用意をしています。そろそろ来る頃だからとか言って。」
 それだけを言うと彼女はクスクスと笑い出してしまった。
 応接を兼ねたダイニングでは彼がコーヒーを淹れていた。豆を挽いたばかりの良い香りが部屋に残っている。
 「おう、直ぐにできるから座って俺の直感が冴えてる様を見ていろよ。」
 彼は得意になってドリッパーに細い湯を落とす。
 それを見ていたお嬢さんが耐えられないと言った風にこう切り出した。
 「何を言ってるの?それ何杯目のコーヒー?あいつが来たタイミングでドンピシャに出してやるんだって、さっきから10分おきくらいに入れてるのよ。もう軽く4杯目には届いています。」
 なるほど彼女が先ほど忍び笑いをしていたのはこういう訳か。
 「うるさい!手品に仕掛けがいるように、日常にも仕掛けが必要なんだよ。それを偶然に見せかけるからサプライズが生まれるのだろう?」と彼は娘に反論した。
 娘はまったく要らないことばかり言うんだよと、湯が滲み通って行くコーヒーに向かって野嶋が呟いた。
 僕がきちんと道を覚えていればきっと彼は予定通りに自慢ができたはずだ。申し訳ないな、と思う。
 奥さんが銀のトレーにサンドイッチと唐揚げを乗せて運んでくる。いつの間にかキッチンに下がっていたお嬢さんがサラダとパスタを持ってきていた。
 小さな笑い声がそここにある。運ぶ足取りが軽やかなステップを踏んでいるようだ。
 ビル・エヴァンスのピアノの音がする。ラファロのベースがビルと肩を組むように重なる。モチアンはそんな二人に少しだけやきもちを焼いているのかも知れない。
 ダイニング・テーブルの上は春の花が咲いたようにカラフルになって行く。
 彼は、彼の家庭は、努力をしてきたのだろう。
 真理を知っていると公言する欺瞞者のようになることがなく、「知らない」と言えることができていたのだろう。
 家庭はいつか崩壊する。独立、結婚、死別など様々な要因で。
 つかの間の時間を大切に思い続け守ろうと彼らはしている。ごく自然に。それが僕の羨望を煽る。
 砂漠で渇きを濯ぐために雨だけを乞う遭難者のように僕は望むばかりでいた。しかしそれは自分の努力によらないもので、都合の良いことを願い待っているに過ぎにない。
 望んで手に入るものではないかもしれない空間を、僕は窓の外から覗き込んでいる。
 傍観者が当事者に混じることはない。傍観者が当事者に転換するのは別の事故の発生が条件となる。
 「メシがきたぞ!さあ、食ってくれ!うまくもないけどクソの足しにはなる!」
 彼が笑い、お嬢さんが「お父さん、言葉が汚い」とそれを窘めた。



 
sidetitleプロフィールsidetitle

otosimono

Author:otosimono
全く役に立たない独り言です。

sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitleFC2カウンターsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。